サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ミラン・クンデラという方法(小説の本質的な断片性・交雑性)

 久しぶりに記事を書く。

 最近、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」(集英社文庫)という長篇小説を少しずつ読んでいる。チェコで生まれ、「プラハの春」を支持した廉で著作の発禁処分を蒙り、国籍を剥奪され、フランスへ亡命したという、激動の「政治的人生」を送ってきた作家の履歴は、この本のページを実際に一枚ずつ丹念に捲っていく作業とは、直接的には関係がない。無論、この作品に「プラハの春」の陰翳がそこかしこに覆い被さっていることは事実だが、そういう作家の政治的な経歴によって、読者としての自分の光学的なポジションを捻じ曲げる必要はないだろう。

 この作品の特殊性や、ミラン・クンデラという作家の方法性については、本人によるエッセイも多く出版されているし、ネット上にも無数の言及が横たわっているので細々となぞるのは止しておく。先ずは他人の解説に頼らず実地に文章の一つ一つを丹念に味わっていくことが大事なのだ。とりあえず、私見を書き殴る。

 ニーチェ永劫回帰に関する簡潔な省察から書き起こされる「存在の耐えられない軽さ」は、或る意味では「不細工な小説」である。無論、どんな独白や考察が鏤められていたとしても、それは作者の自由だし、物語を伝える様式にも、無限の自由が認められて差し支えない。だから、これが「不細工な小説」であることは全く芸術上の瑕疵ではない。だが、所謂「小説」に素朴なイメージを懐いている読者にとっては、クンデラの小説の書き方は退屈であったり、或いは噴飯物であると感じられるだろう。

 その主たる原因は、これが「精緻な嘘」の伽藍として構築される一般的な小説の規則に準拠していないことである。通常、小説に限らずフィクションというものは、それがフィクションであることを認識的に捨象することで成り立つ。嘘であることは歴然としていても、それが嘘であるという事実を視界から除外することによって、フィクションという一つの経験は成立する。この場合の「フィクション」という言葉は「物語」と言い換えても良い。

 ところが、ミラン・クンデラは「物語」のリアリズム的な外観を引き裂くような書き方を意図的に、主体的に選択している。物語が、それが部分的に事実を含んでいようとも、その総体において「虚構」として構築されていること、その当たり前の事実を忘却させるようなリアリズムが、世間的には優れた物語の条件であると看做されている。しかし、ミラン・クンデラという作家は、物語がそのような健忘症を齎すことに対して批判的である。彼の小説は常に、それが「作られたもの」であることへの明瞭な認識に貫かれている。トマーシュとテレザの愛の物語は、作者にとって写実的に描き出されるべき純粋な対象ではない。その虚構を一から十まで「リアルに」語り終えることが、彼の信じる文学的な責務ではないのだ。彼が求めているのは寧ろ、リアルに描写され、叙述される物語の滑らかな表層に亀裂を走らせることであり、その構造を明らかにし、白日の下に曝け出すことであると言い得るだろう。

 その企図は、この「存在の耐えられない軽さ」という小説の構造的な断片性において、明瞭に結実している。一読すれば分かる通り、この小説は物語の写実的な叙述によって構成されていない。寧ろ、夥しく挿入される観念的な考察や分析の力によって、物語の滑らかな実現は絶えず阻害され、遅延させられている。端的に言って、この作家にとって最も重要な営為は「物語ること」ではなく「考えること」であり、紡ぎ出される物語はあくまでも作者の「思索」の対象として仮想的に励起されているに過ぎないのだ。そのとき、物語は作者が現実に加える省察の為の材料となり、スプリングボードとなる。そのような構造を持った小説が、滑らかな物語に慣れ親しんだ読者にとって嚥下し辛いものであることは言うまでもない。

 かつて批評家の柄谷行人が、森鴎外を論じた「歴史と自然」(「意味という病」所収)の中で、小説の定義を「物語の自意識」と称したことは、例えばクンデラの作品に見られるような方法意識を踏まえたものではないかと思われる。「物語」という時系列と写実性に覆われた滑らかな時空に対して、小説は批評的な解剖のメスを差し込む。言い換えれば、小説というジャンルと物語というジャンルとの間には微細な、しかし決定的な差異が横たわっていると看做すべきなのだ。両者の優劣を論じるのは、無意味な行為である。重要なのは、小説というジャンルが物語の自意識として、或る種の歴史性を帯びて生まれた領域であるという点である。それは良くも悪くも近代的な芸術であり、自然科学的な方法論と同期しているのではないだろうか。一つの実在を、様々な角度から分析し、その構造を解き明かすという科学的な眼差しが、文学における「小説」という奇妙な方法論を同時代的な趨勢の中で産み落としたのではないか。だとしたら、物語の普遍性に比べて、小説が歴史的な興隆と衰退の循環に呑み込まれてしまうことは不可避の現象であると言える。クンデラのような書き方は、決して普遍的なものでも絶対的なものでもなく、或る歴史的な変遷の過程で生成された特異な様式なのだ。物語の普遍的な親和性に比べて、小説が限られた読者の愛玩に晒されている事実は、そのような小説の特殊性を密かに傍証している。私たちは日頃、物語も小説も同義語として取り扱っているが、そのような混同の横行は直ちに、小説という特殊な「自意識」の衰弱を意味しているのである。物語という滑らかに構築された「虚構」の相対化の為に、小説というジャンルはあらゆる手段を行使して、物語の表層に罅割れを惹き起こす。それは一部の物好きによって実行に移される異常な振舞いであり、例えば「描写」という行為も、物語の滑らかな駆動を妨げる分析的な効果を含んでいるのだ。小説が描写という手段に重要な価値を認めているのは、物語の円滑な具現化を望むからではない。或いは、クンデラのように観念的な思索を随所へ混入させるのは、登場人物に饒舌な内面を授ける為ではなく、寧ろそれらが虚構に過ぎないことを明示し、彼らを一つの「被写体」に還元する為である。

 「物語」の滑らかな体系性に抵抗するものとしての「小説」という定義は、小説の本来的な役割が、読者を「物語」の世界へ引き入れることではなく、寧ろ「物語」によって抑圧され、踏み躙られている「真実」の解放に存することを、間接的に告示しているのである。

 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)