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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

幕張からの近況報告

   転居の都合で5月22日までパソコンのインターネットが繋がらないため、ブログの更新を暫く休んでいる。こんな拙いブログでも、熱心に読んでくださる方がいらっしゃるので、更新を怠ったまま放置し続けるのも失礼かと思い、近況報告を綴っておきたい。

①4月下旬に船橋の外れから幕張へ引っ越した。生まれて間もない赤ん坊を連れて新居へ移ったので、なかなか大変というか、気苦労が絶えなかった。3400万の住宅ローンを組んで、幕張を終の栖と定めた訳で、これから私は生涯哀れな債務奴隷として生きることになる。最悪の場合でも私が死ねばローンはチャラになり、持ち家が手元に残るので、妻子が夜露を凌ぐ場所に困ることはない訳で、いわばこれも愛情の証ということになる。
ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」を少しずつ読んでいたのだが、なんとなく飽きてしまい、今は岩波文庫から出ているメルヴィルの「白鯨」を読んでいる。
    世界文学の歴史においても屈指の問題作、破格の小説であると言えるこの「白鯨」は、いかにも大袈裟で自由自在な語り口といい、脱線を怖れぬ融通無碍の展開といい、まるで夏目漱石の「吾輩は猫である」を思わせる闊達な魅力を豊富に蓄えている。三人称客観のリアリズムではない、戯作的な語りの強靭な運動は、小説という極めて雑駁で横断的な文学の様式が本来孕んでいる可能性の凄まじい奥行きを読者に思い起こさせる。ストーリーやキャラクターに関する様々な制約がいかに下らないものか、それが文学的な生産性という特殊な理念に対していかに破壊的に作用するか、ということを、これらの作品は饒舌に明示しているのだ。子供の頃、確か冬の寒い夜だったと思うが、書棚に入っていた貰い物の分厚い世界文学全集の中から、何を思ったかメルヴィルの「白鯨」を抜き取ってパラパラと読み出し、想像を絶する面白さに胸を締め付けられた記憶が、今も脳裏の辺境に消え残っている。尤も、生来飽き性である私はナンタケットへ出発する前にページを閉じて寝入ってしまい、それっきりその重たい単行本を開くことはなかったが。
    文学に限らず、芸術の本分は自由という理念に奉仕することにある。だが、それは精確に理解することが極めて困難であるような理念としての自由である。何といえばいいのか、優れた文学は物事の一義的な性格を破砕する力を有している。それはロゴスと呼ばれるものの尤もらしい権威を打ち砕き、断片化するような運動である。その破砕された裂け目から垣間見えるのが、自由という恍惚の経験である。それを味わい、魂を浮揚させるためにこそ、芸術というジャンルは多様な進化を、無限の分岐を重ねてきた。自由とは時代や社会の性質によって齎されるものではない。それは常に個人の孤独な心象風景の中でしか実現されることのない、幻影のような幸福の形式なのである。