サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

夏目漱石とハーマン・メルヴィル(小説の過剰な「饒舌さ」が抵抗するもの)

 最近、19世紀アメリカの作家メルヴィルの「白鯨」(岩波文庫・八木敏雄訳)を少しずつ読んでいる。無学な私は原語では読めないので、精確なことは判断しかねるのだが、この翻訳はとても活き活きしていて、原文の息吹を忠実に、生々しく読者に伝える為に極めて繊細な努力が支払われているのではないか、という印象を受ける。「白鯨」の世界観、捕鯨船の荒くれ者たちが右から左へ忙しなく舞台を駆け回る、その独特で粗野な世界の手触りを、この訳文は巧みに再現しているように感じられるのである。

 未だニューベッドフォードの船員教会の辺りにしか辿り着けていないので、中身のあることは何も語れないのだが、それでも思い浮かんだこと、読みながら感じ取ったことを備忘録として断片的に書き留めておきたいと思う。

 この長大な作品は、その劈頭に掲げられる「鯨」に関しての古今東西、様々な文献からの引用の集積を見れば明白なのだが、型通りの小説、三人称客観の典雅なリアリズムとは全く無縁であり、寧ろそのような明快な写実主義を破砕するような奇怪な執念によって形作られている。大袈裟な修辞、或る一つの特定の目的に向かって合理的に統御されているとは全く思えない「語り」の相次ぐ脱線、捕鯨という主題に対する不可解な情熱、これらの要素はメルヴィルの意図が単純明快、波瀾万丈の海洋冒険物語を紡ぎ出すことに存するのではなく、いわば「語ること」そのものの可能性を何処まで拡張し得るか、「鯨」という主題に関して何処まで語り尽くせるのか、という文学的な「挑戦」に関わっていることを示している。語る内容の重要性を上回るほどの強度で、メルヴィルの文学的野心は語る方法、語彙の選択、比喩の対象、皮肉やユーモアの多彩な駆使に向けられているのだ。

 これらの特徴は、ハーマン・メルヴィルという稀有な作家に固有の文学的特徴であるという訳ではない。私自身は繙いたことがないが、高名なスターンの「トリストラム・シャンディ」なども、このような文学的実践の典型的な事例として名前を挙げることが出来るだろう。このようなタイプの作家にとって、物語というものは明確に「作られるもの」であり、文字通りの「フィクション」である。しかし、歴史的に小説というジャンルの主流派は、自らがフィクションであることを隠匿するような外貌のフィクションを書き綴ること、言い換えれば荒唐無稽な物語にさえ、それが事実であるかのような外貌を纏わせたフィクションを生み出すことを金科玉条として重んじてきた。読者は誰しも、自分が今ページを捲っている小説の内容が作家の創造物であることを認識しているが、にも拘らず、読者としての礼節が、その小説世界の虚構性(その本質的ないかがわしさ)に眼を伏せておくことを当然の作法として要求するのである。その要求の普遍性は、そもそも「誰かが書いているのだ」という至極分かり切った自明の事実を隠匿する方向へ働く。だが、古典的な小説においては、登場人物ではない不可解な出自の「語り手」が顔を出して、この先の物語の成り行きを予め読者に開陳してしまうというような事態は決して珍しいものではなかった。言い換えれば、フィクションが誰かの手で拵えられた「作り事」であるという事実は全く隠匿されないばかりか、寧ろ自明の真実として積極的に活用されてさえいたのである。

 それは例えば、古代の神話や宗教的な説話の数々に対するルネサンス的な抵抗として生み出された様式であると捉えることも出来るのではないだろうか。此れは全くの個人的な暴論に過ぎないが、手慰み程度の考察の対象には値するだろう。私は熱心なクリスチャンでも何でもないので憶測でしか物が言えないのだが、キリスト教の強固な影響下に置かれ、束縛され続けてきた西洋社会において、例えば「聖書」の記述が「神の言葉」ではなく「人間の作った言葉」であるという風に考えることは、深刻な宗教的罪悪として指弾されたに違いない。或いはイスラム教世界においても「クルアーン」の内容が、特定の人間の思いつきに基づいて綴られたなどという考えは断じて受容されないに決まっている。言い換えれば、古代から伝わる神話や啓典の内容は、超越的な存在としての「神」から授かるものであり、人間の思いついた物語が珍重されるという習慣は、少なくとも西洋においては長い間、暗黒の中世を通じて禁圧されていたのではないかと思うのだ。

 その意味で「人間の手で作られた物語」が重んじられ、社会的に流行し、しかもそれが「作られたもの」であるという素朴な真実を全面的に押し出し、主張するような風潮というのは、西洋社会の歴史においては重要な転換点であった筈である。「神の物語」としての宗教に対して「人間の物語」としての小説を位置付けたとき、その認識論的な画期性は論を俟たない。

 しかし、そのような「人間の物語」としての小説的な自意識は、宗教的な規範に対する抵抗が齎す緊張によって支えられていた筈であり、そのような分裂的緊張が稀薄化し、衰弱していくとき、小説は「人間の物語」としての特性を失って、単なる「物語」への回帰を遂げることになる。そうなってしまえば、姦通事件を扱った卑俗な人間的物語も、壮大な異世界を舞台に据えた神話的な英雄譚も、本質的には同一の次元に所属するということになる。「人間の手で作られた」という動かし難い真実が忘却された方が望ましいような「没入型の物語」は総て、本質的な意味で「小説」ではなく「神話」である。それを創造した主体の姿が消去されるような物語は総て「神話」の領分に属している。一方、あらゆる小説は、それを書き綴った作者の「署名」によって、その神話的な無人称性を剥奪されるのである。

 私の考えでは、日本を代表する明治期の文豪・夏目漱石もまた、そのような意味で稀有な「小説家」であった。漱石の出世作「吾輩は猫である」は、所謂「物語」らしい体裁を備えていない。筋書きはあるにはあるが、全篇を通読しなければ掉尾の「猫」の溺死の意義が文学的に解釈し得ないということは一切ない。寧ろあれは連載を打ち切る為の極めて便宜的な付け足しのようなものであり、全篇の結末が付け足しにしか見えないという事実が、「吾輩は猫である」という作品が「物語」ではなく「小説」であることを明瞭に示唆しているのである。重要なのは「猫」の視点から「人間」を書くというコンセプトと、そのコンセプトに依拠して繰り出される文章の「過剰な饒舌さ」であり、物語の起承転結を浮き彫りにすることは副次的な手続きに過ぎない。

 書き綴られる文章の豊饒な饒舌さは、その縦横無尽に変転する言葉の熱量は、漱石が断じて「正確無比な物語」を形作ろうと考えていた訳ではないことを傍証している。物語の内容を過不足なく巧みに読者の脳裡へ流し込もうとする文学的営為は、その本質において「神学的」な試みなのである。漱石の文業は、そのような神学的性質に明瞭に対峙し、抵抗している。神学的な正しさに叛き、それを覆すことこそ、小説的自意識が、太古から連綿と受け継がれてきた物語の豊饒な伝統から分化したことの根源的な理由なのである。

 

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)