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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 二十五 裏通りの密航屋「海猫亭」

 舗装された埠頭の石畳を踏み躙るような荒々しい足取りで突き進むバエットの異様な健脚に、事務作業に慣れ切って肉体の鍛錬を怠っている私とポルジャー君は、息も絶え絶えに追い縋るだけで精一杯であった。急き立てられるように前進を維持するバエットの後ろ姿には、頑迷なハイジェリー商会や税関総局の連中に対する抑え難い憤激が、月暈のように揺めきながら沸き立っていた。

「どうしたらいいんでしょう」

 情け無い声で、純朴極まりないポルジャー君が歩きながら弱音を漏らした。絞め殺された蛇のように脆弱で陰鬱な呟きである。その追い詰められた嘆きの言葉に、私は適切な応答を返すことが出来なかった。貿易の為の誠実なる公器であるべき税関総局が、あれほど露骨な贔屓を示すようでは、現状は八方塞の窮地だと言っても差し支えないだろう。だが、バエットはそれでも躊躇や逡巡を切り捨てたような勢いで、どんどん前方へ突き進んでいく。何か頼るべき心当たりでもあるのだろうか。熟練の護送員である彼の広範な人脈が、ファルペイア州から険阻な地形に遠く隔てられたヘルガンタまで及んでいたとしても、怪しむ必要はない。不撓不屈の精神の持ち主であるバエットが、税関総局の冷淡な門前払いにも挫けず、寧ろ怒りを煽り立てられて新たな活路へ忙しなく駆け寄ろうとしていても、全く不思議ではないのだ。寧ろ護送員として世間の荒波を潜り抜け、息継ぎを繰り返しながら泳ぎ続けて来た経歴に基づく高潔な矜持が、不屈の種火を燈され、勢いよく煽り立てられたような恰好なのだろう。

「もう少しゆっくり歩いてもらえないか。せめて、目的地ぐらい教えてくれたって構わない筈だ。どうせ税関総局の鉄壁の防禦を食い破るには時間が掛かるんだろう?」

 長閑な海原と囂しい港湾の労働の風景から顔を背けるように、バエットは内地の方角へ黙々と邁進していた。一体、何を生き急いでいるのだろうか。私たちの置かれた状況が切迫していることは確かな事実だが、ハイジェリー商会と税関総局、その黒幕であるヴェンドラ州侯家の神聖にして侵し難い威光と影響力を鑑みれば、焦ったところで一発逆転の大博打が眼に見える成果に速やかに結実するとは思われない。焦躁は一旦脇に退けて、じっくりと今後の方針を検討すべきではないか。そのような考えから、私は放たれた鏑矢のように速度も緩めず脇目も振らず、騒がしい港の区画から遠ざかっていこうとするバエットの背中に声を掛けたのであった。改めて振り返れば、それは行動よりも管理や分析を主務とする書記官としての長い生活が齎した保守的な心情の表れであったと言える。自ら具体的な行動を起こすのではなく、商会の尖兵たる精強な外交員たちの悪戦苦闘の成果を、謂わば彼らの遺した澪を辿って後始末をするのが、私のような末端の書記官に課せられた任務の本質であった。書類の遣り取りをする必要が生じるのも結局は、商売と貿易の陣頭に立って智慧と体力を振り絞っている外交員たちの活躍が存在するからである。彼らの旺盛な情熱が日夜巷間に氾濫しているからこそ、その背後で雑役に奔走し、事務的な意味での輜重を担う我々書記官の役割というものが求められ、専門家が育成され、給与が支払われるのだ。だからこそ、私の怠惰で臆病な気質は殊更に増長することとなり、バエットの寡黙で粗野な俊敏さが危なっかしく不安定に思えてしまうのであった。

「あの鉄壁に穴を穿とうと努力しても無駄ですよ、ルヘランさん」

 漸く歩行の速度を落として、鈍った躰に汗を滲ませた無様な書記官たちの調子に合わせる必要を思い出してくれたバエットは、私の提言に対して真っ向から反駁を加えてきた。

「ヴェンドラ州侯家の御偉方は、断じて余所者たちが足許の縄張りを食い荒らすことを承服しないでしょう。正面切って戦えば、大きな代償を支払うことになる。だが、我々の任務はヴェンドラ卿の鼻を明かすことじゃない。こんなところで、つまりダドリアの大地を踏み締める以前の段階で、不毛な内輪揉めに興じれば、ソタルミア卿の信頼と御機嫌を損ねることになるでしょう」

「じゃあ、他に何か手立てがあるということですか」

 世間知らずの新米監督官を詰るような言い方に唯でさえ脆弱な矜持を傷つけられた私は、自分の感じた屈辱の片鱗を滲ませるような口振りで訊ね返した。

「あります。だから急いでいるんですよ。御安心下さい、ルヘランさん。世界は広大で複雑なものです。どんなことに関しても、抜け道は必ず存在します」

 如何にも自信ありげな口調で言い切ったバエットは軈て、倉庫街の裏手に広がる薄汚れた花街の一角へ私とポルジャー君を導いた。彼が立ち止まったのは、見窄らしく朽ち果てた木製の看板を吊り下げた、冴えない呑み屋の前であった。白い塗料の剥がれ落ちた看板には太い文字で無造作に「海猫亭」と記されていた。

「現実逃避の昼酒という訳じゃありませんよ」

 露骨に怪訝な表情を浮かべた私が難詰の言葉を吐くより先に、バエットは茶目っ気を帯びた笑みを作って完璧な防禦の姿勢を示してみせた。