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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 二十六 巷間の抜け道に関する知識

創作「ツバメたちの黄昏」

 国内、国外を問わず、極めて広範な地域から多種多様な民族と積荷が集まり、遽しく通過していく国境の商都ヘルガンタには、あらゆる港町の通例に準じて、埠頭から少し離れた界隈に賑やかで淫猥な花街の伝統を有していた。商売人の情熱を存分に発揮して、利益を上げる為ならば半年でも一年でも遠洋へ乗り出し、異郷の習俗に飛び込んで孤独な旅情に堪え抜くことも辞さない海民の慰労を目的として、酒色を供する店や地元の悪漢どもの差配する賭場などが、潮風の漂う海辺の地区に密集しているのである。況してやヘルガンタは、フェレーン皇国の版図における屈指の港湾都市であり、行き交う札束の種類も、春を鬻ぐ女の民族的な出自も実に多様性に富んでいる。バエットが私たちを導いて辿り着いた「海猫亭」も御多分に漏れず、そうした海の労働者たちの束の間の休息に奉仕する為に創られたオアシスである訳だが、その精彩を欠いた古びた外観を徴する限りでは、大勢の船乗りたちの御愛顧を常日頃から賜っているようには見えなかった。

「一体、どういう積りなんです」

 軒先に吊るされた桃色の灯りも今は暗く沈んだ色彩に覆われていて、この小さな酒場が準備中であることを控えめに告げていた。桃色の燈火は、この店が単なる呑み屋ではなく売春婦の類を用意していることの徴であり、酒場と娼館を兼ねた猥雑な商売が蔓延るのは何処の港町でも共通の慣習であった。だが、ファルペイア州の泥臭い辺鄙な村で生まれ育ち、少年の頃から商館員の見習いとして薄給の地味な生活に勤しんできた私には、それらの粗野で猥雑な空間は縁遠いものでしかなかった。ジャルーアも天然の良港を擁するスファーノ湾の重要な商業拠点であり、ヘルガンタと同じく花街の伝統には事欠いていなかったが、荒々しい船員や荷役の人々が足繁く通い詰め、仄かに酔っ払った娼妓たちが入れ代わり立ち代わり客を誘って出入りする特殊な界隈に足を踏み入れる豪胆さは、薄給の保守的な書記官である私の持ち物ではなかった。だから、こうしてバエットの案内で入り込んだ真昼の花街の窶れ切った重苦しい空気に、精神の平衡を掻き乱されるのは止むを得ない成り行きだと弁明しておこう。

「昼酒の為でないのなら、何の為にこんな汚らわしい街並へ足を踏み入れる必要があるんですか」

「抜け道というのは何時も、訪れる者の眼を晦ます為に対極的な外観を備えているものですよ、ルヘランさん」

 私の懸命な糾弾を易々と受け流しつつ、バエットは海猫亭の色褪せた扉を押し開けた。薄暗く湿った空気が鼻腔を塞ぎ、灯りの消えた店内に充満する莨の臭いが衣服へ蛇のように纏わりついた。床を踏むと木目も読めないほどに踏み均され磨り減った板が耳障りな唸り声を上げ、帳場の向こうで椅子に腰掛けて新聞を捲っていた髭面の男が、如何にも無愛想な顔つきで此方を睨み据えた。

「珈琲かい」

 一応は客商売の自覚もあるのだろう、御世辞にも愛想が良いとは言い難い強面の男は、新聞を乱暴に折り畳んで背後の調理台へ投げ捨てると、徐に立ち上がってバエットの顔を見凝めた。その露骨に品定めするような眼差しに、臆病な私はすっかり気後れしてしまったが、見るからに護送員と分かる服装のバエットは例によって動揺とも逡巡とも無縁のまま、帳場の向かいの背凭れのない丸椅子へ陣取り、肩を聳やかして明晰な発音で言った。

「珈琲を貰おう。三つだ」

 注文を受けた男は返事もせずに私たちへ背中を向け、壁面に据え付けられた流し場で丁寧に両手を洗い始めた。その逞しい後ろ姿と喬木の幹のように太く鍛え抜かれた腕の動きを、丸椅子に並んで腰掛けた私たちは暫時、黙って眺め続けた。軈て湯気の立つ珈琲が三つ、縁の欠けた円い茶器に注がれて供されると、その意想外に繊細で芳醇な味わいに驚かされた。無骨な外見には似合わず、生真面目な職人の技倆を身に着けているらしい。

「船を出してもらいたいんだ」

 一通り賞味し終えた後で、他に一人の客もいないことを然り気なく確かめると、バエットが徐に用件を切り出した。だが、私の耳には、その質問は的外れで不可解なものに聞こえた。彼はどう見ても荒んだ場末の呑み屋の主人であって、船乗りでも船主でもない。珈琲を啜りながら船舶の周旋を願い出るのは奇妙な遣り取りではないか。

「何処へ往きたいんだい」

 然し依頼された店主は特に戸惑いを浮かべる様子もなく、空っぽになった珈琲の器を受け取って流し場へ転がしながら、黄ばんだ木綿の擦り切れた表面に手指を擦りつけて訊ね返した。

「決まってるだろう。ダドリアだ」

「余り穏便じゃねえな」

「穏便じゃないから、こうして密航屋の戸を叩いたんじゃないか」

 そこまで聞いて初めて、私も事態の輪郭を朧げに理解し始めた。この寂れた薄汚い呑み屋が単なる花街の末席に列なる盛り場の一つではないこと、その外見に封じ込められた秘密の役割を男が隠し持っていて、それをバエットが心得ていること、それらの隠然たる真実が漸く、私の意識の領野で鮮明な映像を結び始めたのであった。