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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

痛ましい愛情の形 椎名林檎「ギブス」

 以前に「音楽」というカテゴリーを自ら設けておきながら、一向にそのジャンルに関する記事を作成してこなかったので、偶には趣向を変えて椎名林檎の楽曲に就いて書いてみる。

 椎名林檎の「ギブス」が発表されたのは、確か私が中学生の頃で、その金属的な音色と哀切で痛ましいような歌声の組み合わせに、魂を揺さ振られたことを今でも鮮烈に記憶している。最初の囁くような歌声、そこから弾けるように、抑えられていた感情が俄に解き放たれて虚空へ迸るように転調し、サビの叫ぶような歌声へ雪崩れ込んでいく独特の癖の強いヴォーカルは、どこにでも転がっているとは言い難い、稀少な芸術的成果である。

 椎名林檎の感性が、受容においても表象においても独特の屈折を孕んでいることは、彼女の楽曲を視聴した方ならば誰しも頷かれる端的な事実だろう。その屈折がどのような意味合いを含んでいるのかということは、私の論述能力では到底語り得ないものである。だが、例えば「ギブス」で描き出されるような強烈な愛着と自意識の屈折は、彼女の凝縮された歌声に埋め込まれ、私たちの魂へ直接的に訴求する力を持っており、それが彼女の心象風景、或いは思想や価値観の原型的な領域に属していることは確かだと思われる。

 異性に対する過度の愛情的固着を歌い上げるということ、それ自体は日本のポップスの世界では少しも珍しい表象の形式ではない。その自閉的な息苦しさ、つまり自意識にとって世界が「わたし」と「あなた」の二項で完成されていて、その他の事項に極めて軽微な意義しか附与されないような精神的風景の暗鬱な印象も、この国では欠伸が出るほど有り触れている。だが、それが半ば猟奇的な病態の感覚にまで及ぶほど、強烈に濃縮されることは、少なくとも一定のセールスを確保することの可能なポピュリズム的領域では奇異な事例であると言えるだろう。切なさも悲しみも、それが「わたし」と「あなた」の対幻想の閉域に押し込められていたとしても、誰もが共感可能な一つの「類型的光景」として肯定されていることが、大多数のメジャーな楽曲においては暗黙の了解として機能しているのである。だから、一見すると屈折している対幻想の愛憎も、然したる抵抗にも遭遇しないままに受容され、手軽に消費されていくのだ。だが、椎名林檎の楽曲における「対幻想」の強度は、誰にとっても理解し易い事態を、誰にとっても通約可能な言葉で謳い上げているようなものではない。「ギブス」のようなメジャーな楽曲はまだしも、例えばアルバムに収録されているような楽曲に関しては、一度聴いただけではその本質を捉えることが困難であるようなものも少なくない。彼女のようなスタイルの楽曲が広範な支持を獲得すること自体、商業的な音楽の世界では例外的な事件であると言えるのではないだろうか。

 その特異なポジションが、例えば東京事変のようなプロジェクトにおいても貫かれていることを徴する限り、彼女の個性は凡百のミュージシャンが誇示するような「オリジナリティ」とは桁違いの、殆ど異常とも呼び得る次元に達している。だが、にもかかわらず彼女の音楽性が或る種の大衆性を獲得し得たのは何故なのか。それは恐らく思想や価値観の問題ではないし、難解な歌詞の名状し難い魅力などといった表層的な問題でもない。それは音楽というものの本質的な呪術性に関わる問題であろう。彼女が抱え込んでいる独特の屈折は、言葉では言い表すことの困難な、殆ど通約し難い個性として結実しており、それを客観的な言葉で物語ることは出来ない。彼女が抱え込んでいるものに私たちが全く理解から隔てられた状態のまま共振し得るのは、音楽が非言語的な力を駆使して私たちの肉体を揺さ振るからである。こんな言い方では、単なる論述の抛棄としか受け止められないだろうか? だが、音楽としての表現力が際立った水準に達していない限り、あのような難解な歌詞に閉じ込められた息苦しい屈折が、私たちの精神に何らかの衝撃を加えることは出来ないだろう。

 話を「ギブス」に絞ろう。あの楽曲は、極めて音楽家らしい感受性に支えられていると言える。彼女が曲の中で執拗に謳い上げているのは「今」の一回性であり、過去や未来の絶対的な不確かさである。今、この瞬間にしか確かに実在するとは言い難いものへの執着、その異常なまでの「現在」への執着は、彼女の自意識の不安定さと同期している。それは「今、この瞬間に鳴り響いて永久に消え去っていくもの」としての音楽に対する執着を示す感受性と、原理的に重なり合っている。それは「言葉」の離散的な継承性とは対蹠的な現象であり、作家が文字を書くことで「永遠」を志向するのに対し、音楽家は今この瞬間に鳴り響いている「音」に聴覚を研ぎ澄ませることで「永遠」を「瞬間」に閉じ込めようとする。何れの場合にも永遠を希いながら、作家は時間の流れを泳ぎ切ることで「彼岸」に辿り着こうと試み、音楽家は時間の流れを停止させ、凍結させることで一挙に「永遠」に己の存在を擬そうと企てる。

 このような観念的対比は、現実を知らない人間の身勝手な妄想に類するものかもしれない。だが、個人の思索においては、禁則を設けることに生産的な意義はないだろう。「ギブス」という楽曲から血のように瀝り落ちる痛切な「愛しさ」の感覚は、音楽的な「今現在」への強固な執着によって媒介されている。それは言い換えるならば「死の予感」と踵を接しているということだ。椎名林檎の音楽はいつも仄かな「死臭」を漂わせている。それは「永遠」の不可能性を生々しく理解している本質的音楽家の「宿命的な旋律」と称すべきだろう。