サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「結婚」願望の若年化(共同体への帰属を求める欲望)

 地縁や血縁という問題は、近代化や都市化、情報化が亢進するに連れて意義を失い、薄れていくという考え方は、一見すると尤もらしい。それは近代的な個我の確立のプロセスであり、外在的な規制に縛られることなく、あるべき理想を追求する進取的な生存の形態として、この百年間称賛の対象として選ばれ続けてきた理想的な価値観である。それは農業に基づいた共同体の崩壊、核家族化、都市における孤立、孤独死少子高齢化といった社会の諸相と緊密に結びついている。

 そのような社会形態の変容は、この数十年間の現代日本文学の領域においても、絶えず切実で重要な問題として作家たちの関心を惹起し続けてきた。例えば安部公房は「都市の孤独」という問題に常時敏感な作家であり、都市化の亢進及び共同体の崩壊という形で現れた日本社会の軋轢を通じて、「自己の喪失」という主題に執拗な情熱を注ぎ続けた文学者である。本来、固陋な共同体からの脱却は「本来的自己の確立」という主題に接続する筈であった。余計な制約を悉く取り払えば、人間は本来的な自己を恢復することが出来るという古き良き疎外論的思想は、結局のところ「自己の無名化」を齎し、実存主義的な孤独の深淵へ人々を抛り込む結果を招いてしまった。「実存は本質に先行する」という進取的で自己創造的な理論は、実際にそれを行住坐臥の現場で遂行するに当たっては、巨大な負担を個人に強いたのである。自分という個体をあらゆる共同体的な規矩から切り離すことは多くの場合、鮮烈で開放的な歓びよりも深刻な生存の不安を喚起するものなのだということが、実感として証明されてしまって以来、近代的な自由の概念は度し難い難問に逢着してしまった。「私は誰なのか?」という問いに、既存の社会的通念を挿入することは、望ましい自己の確立よりも遥かに安楽で好ましい選択なのであり、それは共同体の崩壊が著しく亢進した後の世界では、自由の確立よりも更に得難く稀少な選択肢へと変貌してしまった。

 このような生存の不安が、孤独な戦いによって勝ち取られる「輝かしい私」という資本主義的な理想像に対する疑問符として作用することは、避け難い成り行きである。今日では誰の眼にも明らかだが、人間は決して自分の望むものを何もかも手に入れられる訳ではないし、敗北や挫折を技術次第で回避し得ると思い込むのは呑気な謬見である。だからこそ、私たちの祖先は「共同体」を構築することによって生存に伴う種々の損益を「分有」するという作法を受け継いできたのだ。だが、近代化の過程で生じる爆発的な発展の輝きが、人の眼を根深く眩惑してしまうのもまた、避け難い成り行きであると附言せざるを得ない。どんなものでも望みさえすれば努力の如何によって獲得可能であるという進取的な信仰、いわば「近代」という宗教が私たちの心身に抜き難く絡みついた瞬間から、共同体の瓦解は不幸ではなく「必要な破壊」として是認されるようになった。安部公房が書いた不吉な物語の数々は総て、そのような「近代」の暗黒面にシニカルな眼差しを投じている。

 一方、被差別部落に生まれ育った中上健次は、そのような「近代」という宗教が不可能であるような領域に自身のルーツを持っていた為に、世間一般の景気の好い理窟に伍して「近代化」を図ることに巨大な疑問符を見出し続けた。彼は寧ろ「血縁」や「地縁」の逃れ難い宿命性に焦点を合わせることで、生々しく神話的な物語の群れを紡ぎ出したのだが、それさえも「地の果て 至上の時」においては路地の崩壊という覆い難い現実に直面することで打ち砕かれてしまった。「岬」や「枯木灘」における中上健次は、共同体の破壊の不可能性を執拗に告示し続けることで、「近代」という信仰に脳天まで塗り固められた現世の騒々しさを排撃していたのだが、そのような企図を可能にする足場そのものが押し流されてしまったのである。

 そのような近代化の極限で、私たちは情報技術という新たな悪魔の放つ呪詛に晒されている。最早私たちは、個人としての具体的な輪郭さえも、離散的な「アカウント」の情報に縮減されるという強烈な近代化の圧力に呑み尽くされているのである。そうした時代の情勢は却って、共同体的なものへの反動的な憧憬と欲望を喚起している。二十歳前後の女性が「結婚」への欲望を露骨に押し出して動じないのは、一昔前の「女性の社会進出」という神話への不信の表れであろう。だが、それは沈みゆく船から慌てて艀へ飛び移ろうとする足掻きのようなものであって、強靭な共同体によって構成される社会の「難破」は恐らく不可避の趨勢である。「結婚」によって一生涯に亘る「安心立命」が確保されるなどとナイーブに信じ込むことは、世界に対する蒙昧の所産でしかない。或いは、結婚というものがかつて共同体に対して持っていた「切断」の意味合いは今日、明確に失われつつあるように見える。昔、結婚は「共同体からの独立」という社会的意義を備えていたが、今ではそれ以外に有意味な「共同体」の手懸りを掴むことが出来ないのだ。中上健次的な「宿縁」の共同体は、既に根本的に崩壊している。しかし、共同体への帰属を願う原始的な欲望が終息することもないだろう。私たちはそれら二つの「残骸」の狭間で出口の見えない彷徨を余儀なくされている。「早婚」による幸福の確保? それを共同体の恢復に向けた類的な志向性として称賛するのは、拙速の誹りを免かれない結論である。