サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「チームワーク」に就いて

 私は今三十歳で、今年の冬には三十一歳になる。大学を一年で中退し、順序を違えた慌ただしい結婚の末に、妻子を養わねばならないという重厚な責任を負った為に、二十歳の時から社会に出て勤人としての日々を送ってきた。何の取り柄もない凡庸な男で、仕事はおろか、世間一般の極めて初歩的な常識の類さえ殆ど身に着けていない状態で、そうした被雇用者、労働者の境遇に脳天まで浸った所為で幾度も恥ずべき失敗を繰り返してきたが、曲がりなりにも十年間、同じ会社に勤める過程で色々と学んだり気付いたりしたことはある。そうした省察省察と呼べるほど実効性も緻密さもない、徒然の思索の欠片に過ぎないが)を、他人の為というよりも先ず自分自身の為に備忘録として書き留めておこうと思い立ち、この記事を書いている。

 人間という生き物は、兎に角忘れ易い動物であり、その宿痾は些末な事柄に限らず、非常に大切な省察に関しても同様であるから、何でも記録しておくというのは、辿り着いた領域からの退行を避ける上で重要な習慣である。私が偉大な成功者でもなんでもない退屈な勤人の分際で、所謂「仕事」に関する文章を草するのは、専ら自分自身の記憶に対する不信の為である。だから、書かれている内容が全く役に立たない凡庸な認識によって埋め尽くされていたとしても御容赦願いたい。

 前置きはこの辺で切り上げて、本題に入ろうと思う。今回は「チームワーク」について書く。チームワークというのは頗る手垢に塗れた言葉であり、観念であって、今更どんな新しい省察も与えられることがない領域のようにも見える。だが、仕事において多くの人が躓くポイントの一つに、この「チームワーク」という観念が存していることは厳然たる事実である。

 何処でも同じだろうが、春が来ると職場に新入社員を迎え入れることが恒例の行事となっている。毎年、様々な個性の新卒が意気揚々と、或いは緊張した面持ちでやって来るのだが、彼らは先ず自分自身に与えられた業務を覚えることで手一杯になる。それは当然のことで、何の知識も経験も持たない真っ白な状態の彼らは、殆ど嬰児のようなもので、眼に映る総てが不可解な現象なのだ。いや、厳密に言えば、彼らの眼に映るものは極めて限られている。彼らが夢中になって見凝めているのは専ら「自分の仕事」だけであり、課せられた「役割」の習得に奔走するだけで精も根も尽き果ててしまうような段階なのだ。このとき、妙に生真面目だったりプライドが高かったりする新人は特に、与えられた「自分の仕事」のことしか頭に入らなくなる。その現象自体は、何ら咎められるべきものではない自然な現象だが、生まれたての赤ん坊でさえ、三箇月も経てば親の顔を見て微笑むくらいには「周りが見える」ようになるものだ。ところが、不器用な新人にとっては「周りを見る」ということが非常に困難に感じられるのである。彼らは自分の役割を遂行することに全力を傾注するが、結果としてその健気な努力は空転することが多い。何故なら、孤高の芸術家でもない限り、仕事というのは常に複数の人々、複数のファクターの錯綜した関係性の内部に存在するものであって、それ自体で独立した業務というものは存在しないのに、彼らは眼前の答案用紙を埋めることが「仕事の完遂」だと誤解しているからだ。ここに大きな蹉跌の危険が地雷の如く埋まっているのである。

 どんな仕事も、複数の業務の集積、或いは有機的な連携の総体として存在し、機能していることは言うまでもない。「後工程を意識した仕事をしろ」という言葉を、今の勤め先でも幾度か耳にしたことがあるが、意識すべきは後工程に限らない。今この瞬間、隣で働いている人との間にも、必ずチームワークという要素は介在している。だが、視野狭窄に陥った新人は、その僅かな距離さえ見渡せないのである。或る特定の業務の理想的な姿というものは常に、他の業務との関係性によって綜合的に定まる。ところが、課せられた狭隘な範囲に自分自身の関心と努力の総てを投じてしまう生真面目な新人は、言われた通りのことを完璧にこなすのが「業務の理想形」だと信じ込んでいる。これは典型的な「受験生マインド」であって、満点を取れば誰にも文句は言われないという考え方はチームワークを原則とする社会人の領域では全く通用しない、という厳粛な真理を、彼らは実感を通じて理解していないのである。

 その結果、彼らの仕事の進め方は非常に孤独な色彩を帯びることとなる。専ら自分に与えられた問題用紙を解き明かすことに集中する姿は、他者に対する無関心の明白な表現として周囲には受け止められるだろう。無論、テスト中に他人の答案用紙を覗き込むのは明白な違反行為であるから、受験生マインドに支配された堅苦しく誇り高い新人が、同僚たちの働きぶりから眼を背けるのは自然な態度なのかも知れない。だが、それでは仕事は回らないようになっている。そのことを理解せずに「自分の仕事」だけに取り組み続ける人間は遅かれ早かれ「融通の利かない奴」として隠然たる侮蔑に晒されることになるだろう。

 もう一つの重大な問題は、彼らが「自力で問題を解くこと」に固執し過ぎる傾向があるという点に存する。本来、仕事というのは周囲の人々の手順を見学して「模倣する」ことから始まるのだが、受験生マインドの虜である一部の新人は、それよりもマニュアルに忠実であることを選んだり、もっと酷い場合には経験の足りない自分の頭から捻り出した「我流の手順」だけで万事片付けようとしたりするのである。冷静に考えてみれば分かることだが、純然たる素人が新たな業務を習得するに当たって、手持ちの知識や経験だけを手懸りにするのは極めて非効率な手法である。先輩や同僚の物まねから始めた方が、成長の速度は圧倒的に高まるに決まっている。だが「周りを見る」という至極基本的な習慣を持たない人間にとって、そのような考え方は「杜撰」であったり「屈辱的」であったりするように感じられるのだ。結果として、彼らの成長は著しく停滞し、それに対する焦躁が益々彼らを「不毛な努力」へ追い込んでいくのである。

 本題のチームワークに就いて書く前に紙幅が尽きてしまった。要するに私が言いたいのは「周りを見る、理解する」という習慣を持たない人にとって「チームワーク」という観念は極めて難解で奇妙なものに感じられるだろうということだ。そして「チームワーク」に対する困惑は往々にして、「無能な自分を直視出来ない」という精神的な脆弱さに基づいている。あらゆる努力は、無能な自分を直視することから始まり、他人の助力を懇請しながら磨かれていく。そのプロセスが段階を踏んで「チームワーク」へと発展していくのである。