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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ドラえもん」の不気味な側面

 現代に暮らす日本人の大半は「ドラえもん」を知っている。これは普通に考えて恐るべき真実だ。少子化が進み、出生率が低下の一途を辿り続けているとはいえ、日本列島には一億人を超える日本語話者が存在しており、その一億人以上の日本語話者の大半が知っている空想上のイコンを作り出すことは、生半可な努力では叶えることの不可能な夢想である。しかし、藤子・F・不二雄という不世出の漫画家は、その不可能な夢想を現実の世界で達成してしまった。

 今日、ドラえもんは老若男女を問わず幅広い層の人々に認知されたキャラクターであり、その児童漫画としての評価の高さは既に国境を飛び越えている。だが、その見た目の穏健で清純なイメージは、「ドラえもん」という作品の美化され、誇張された側面でしかない。原作のコミックスを入念に読んでみれば、この作品がそれほど清浄な価値観ばかりに埋め尽くされている訳ではないことは直ちに判然とするだろう。ジャイアンスネ夫のび太に対する苛め方は驚くべき理不尽さに貫かれており、主役のドラえもんを含めて言葉遣いは必ずしも丁寧ではない。私たちは「ドラえもん」を無害な空想の物語だと素朴に信じ込んでいるが、そうした評価は表層的なものに過ぎないのだ。

 だが、あくまでも少年たちの日常に焦点を合わせたユーモラスな作品としての側面を徴する限り、私たちは「ドラえもん」という作品に秘められた藤子・F・不二雄の強烈な創造力を生々しく実感することが出来ない。概ね筋書きのパターンが定まっている短篇の作品では、落語のように内容の定まった話を手を変え品を変え語り直すバリエーションの豊かさを愉しむのが鑑賞の王道であり、それだけを眺めれば作家の芸風は人畜無害なユーモアに集約されているように見えるだろう。しかし、所謂「大長編ドラえもん」のシリーズでは、物語の舞台設定が有り触れた日本の街角を飛び出して突拍子もないほど広範なスケールに拡張される為に、日頃のドラえもん的想像力が根源的な変貌を余儀なくされている。大長編ドラえもん、即ち劇場向け長篇アニメーションの原作として執筆された一連の作品群は、通常の「ドラえもん」とは異質な手触りを読者に与える。これらの作品を繙くとき、私たちは見慣れた「ドラえもん」の風景の裏側に潜む作者の傑出した想像力の働きを実感するのである。

 テレビアニメで知られている所謂「ドラえもん」の日常性、定型性と、劇場版の「大長編ドラえもん」の壮大な物語との間には、明らかに異質な要素が介在している。無論それは短篇と長篇という物理的なボリュームの違いに由来する変貌なのだが、重要なのはそれらの振幅を包摂し得る藤子・F・不二雄の強靭な作家性である。一方では長めの四コマ漫画めいた、一つの着想に基づいて組み立てられた挿話的な短編を営々と描きながら、その気になれば骨太な筋書きを備えた壮大なロマンを生み出すことも出来るという二面性は、あらゆる作家が獲得し得る特質ではない。藤子・F・不二雄がSFに対する強固な関心を懐いていたことは知られているが、そうした芸術的バックボーンが、「大長編ドラえもん」の骨太な構成力と奔放な想像力を支える滋養となったことは確実であろう。彼のペンが紡ぎ出す絵柄のマイルドな可愛らしさとは裏腹に、これら「大長編ドラえもん」における物語の構成は、短篇の作品群とは異質な社会的思弁、大人のリアリズムを濃厚に含有している。

 振り返ってみれば幼心に、それらの「大長編ドラえもん」の劇場用アニメーションに映し出された世界は不気味で恐ろしい側面を孕んでいるように感じられた。「アニマルプラネット」にしても「雲の王国」にしても「ブリキのラビリンス」にしても、そこには一旦踏み込めば無事に帰還することの困難な「異界」の感触がくっきりと埋め込まれているように思われたのだ。見た目は「ドラえもん」であっても、それは日常の喜怒哀楽を丁寧に抄い上げることで成立していた短編作品とは、質的に断絶していることが明白であった。その断絶は、二つの意味で私に疑問を懐かせる。一つは、何故このような「内容」と「描画」の質的な不整合が生じるのか、ということ。もう一つは、「大長編ドラえもん」に見られるような社会的視線とSF的な壮大な想像力への志向性を濃厚に有していながら、日常性の枠組みを逸脱することに関して著しく禁欲的であるような短篇の「ドラえもん」を営々と描き続けたのか、ということである。

 「内容」と「描画」の不整合、それは語られる筋書きの帯びている硬質な主題と、それを描き出すに当たって採用されている絵柄のマイルドな可憐さとの不整合という意味である。但し、私はその不整合を是正されるべき芸術的瑕疵として論おうと企てているのではない。寧ろ、そうした「不整合」にこそ、藤子・F・不二雄という作家の特異な魅力が存しているのではないかと考えているのだ。彼が採用している禁欲的な児童漫画の体裁は、その内側に硬質なSF的想像力を宿していて、それは「未来デパート」の「ひみつ道具」などという生温い文言とは一見、相容れない鋭さを備えているように思われる。本来の彼の作家的関心は、短篇の「ドラえもん」に見出されるような一つの単純な着想の敷衍という形式では満たされなかったのではないか? だが、彼はそのような日常的外観を捨て去ろうとはしなかった。あくまでも彼の視線は「子供たち」に向けられていたのだ。その内面に存在する想像力の邪悪で無慈悲な性質を隠匿せずにいられないほど、彼は作家として、少年少女に対する倫理的な責任に意識的であった。しかし、その倫理的な意識の裂け目から垣間見える想像力の性質は、世界に対する冷徹な認識と思索を醗酵させたものである。客を愉しませる筈の道化師が、俄にナイフを取り出して殺意を仄めかすような意想外の残虐さが、「大長編ドラえもん」と呼ばれる作品群には潜んでいる。その不気味な断絶を確かめるとき、私は美化された「ドラえもん」のイメージの奥底に潜在する作家的想像力の濃密な陰翳を感じて、密かに舌を巻くのである。