サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

読みながら考えるということ(カフカの斧)

 今年に入ってから、私の身辺はずっと慌ただしい状況が続いている。三月に娘が産まれ、四月には幕張へ建てた新居へ引っ越し、五月には人事異動で勤め先が柏市から千葉市へ移った。それらの忙しく落ち着かない状況の渦中に身を置いていると案外自覚し辛いものだが、知らぬ間に心身は疲弊を募らせているらしい。気持ちが色々な方向へ同時に引っ張られて集中が困難になりがちな日々が続いている。誰しも新しい環境、新しい生活に飛び込めば、型通りの遣り方が通用しなくて思い悩んだり彼是と足りない智慧を絞ったりして憔悴するものだろう。今はそういう時期なのだと冷静に捉えて、地道に眼前の問題へ取り組んでいくしかない。

 子供が産まれた慌ただしさの中で何となく気分が乗らずにクンデラの「存在の耐えられない軽さ」を投げ出して以来、ル=グウィンのエッセイや、メルヴィルの「白鯨」や、小川一水の「天冥の標(ジャイアント・アーク)」を気儘に渉猟する日々を暫く過ごしてきたが、中絶したままのクンデラの小説に関しては漠然と心残りのようなものを感じ続けていた。無論、通読することが読書の魅力の総てではないが、折角繙いた作品を結末まで味わうことなく読み止めるのは勿体ない選択であるに違いない。だが、読むというのは本当に定義し難い曖昧さを孕んだ営為であり、どれほどの理解度に達すれば、その書物をきちんと「読んだ」と言えるのか、その水準を明示することは決して容易ではない。単純に印刷された文字の列なりの語義を理解しただけで、その作品の本質的な要素を把握したと言い切る愚昧な勇敢さは、私の欲する態度ではない。

 少なくとも読書の価値は、書かれた文字を読むことによって得られる「触発」に存していると、差し当たり定義しておこう。文章というものは、そのクオリティの高低に関わらず、そこに埋め込まれた複雑な意味の塊を味わい、咀嚼することに価値を持っている。但し、文章に象嵌され、溶かし込まれた複雑な意味の相互的な反響を深く汲み取る為には、読み手の側にも相応の努力が要求される。漫然と字面を眺めて追跡していくだけでは、無為な時間を過ごすことにしか帰結しない。文章は常に他人の手で綴られているものであり、他人の思考と私の思考との間に完全な合致が見出されることは極めて稀である。だから、容易く理解し得る文章というのは、それだけ私の抱え込んでいる世界観の革新=更新に寄与する度合いが乏しいのだ。持ち前の世界観や思想的信条を全く書き換える必要がないまま読みこなせる文章は、私の自意識を揺さ振らないし、その変貌も促さない。それでは読書の本質的な威力は有用な成果に繋がらないのである。フランツ・カフカは、書物の本来的な役割を「自らの内側に存在する氷結した海を砕く斧」であると私的に定義した。その金言は、彼に固有の倫理的な規範ではなく、もっと普遍的な主張であると看做すべきだ。

 再び今日から、クンデラの有名な小説の読解を再開しようと思い立った経緯を、系統的な言葉で巧みに説明するのは難しい。そういう些細な決意というものは、意識の表層に生じる突発的な静電気のようなものであるからだ。要するに私は、きちんと自分の知らない世界と向き合いながら生きていきたいと考えたのだ。無論、この要約が己の深層心理の動きを精確に捉えていると断言する自信はないが、少なくとも異国の作家、或いは時代を隔てた作家の文章を丹念に読むという作業は、カフカの言葉を借りるならば「氷結した海を斧で砕く」ことに他ならない。それは私たちの心身に生得的に埋め込まれている頑強な偏見や限られた視野を破砕して、全く新しい異界の風を総身に浴びることを意味している。私たちは余りにも無知蒙昧であり、非常に狭隘な領域に己の生涯の総てを傾注する保守的な習慣に親しみ過ぎている。それを打ち砕く為には、使い勝手の良い出来合いの思想と手を切らなければならないが、そのような変革は過重な負担を魂に強いるものなので、特に疲れているときほど気が進まないものだ。難解な書物を読むことへの嫌悪、麻薬的な娯楽の誘惑へ脳天まで浸ってしまうことへの衝動、それらは自分の慣れ親しんだ環境に安住していたいというプリミティブな動物的欲望の反映である。

 そのような動物的欲望に打ち克つことで初めて開け放たれる扉が存在するということも、私たちは知っておく必要があるだろう。漫然と字面を追うのではなく、例えば読書メモのような形で感想を纏め、己の所見を掘り下げていく地道な作業も、精神的な変革には有用な手段である。書かれた文章を読み、そこから得られた考えを書き留め、粘り強く修正を重ねていくという個人的な作業だけが、思索の骨格を力強いものに成長させてくれる。一旦中断してしまえば、それまでの苛酷な労働の成果も水泡に帰してしまうものだ。クンデラを読むこと、異なる時代と環境を生き延びてきた偉大な作家の言葉に取り組むことは、私の狭隘な世界観を揺さ振り、拡張する為の重要な方法である。無味乾燥に感じられる修辞にさえ、己の固陋な独断を覆す契機が潜んでいないとも限らない。その崇高な可能性に出逢う為に、私は今日も活字を拾って観念的な妄想を膨張させ、混濁した思索を馬車馬のように駆り立てるのだ。