サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「想像力の革命」としての仏教

 引き続き末木文美士の「仏典をよむ」を少しずつ読んでいる。

 私の浅墓な理解に基づいて書くのだが、仏教というのは基本的に「生老病死」に集約されるような「苦」の認識に基づいている。もっと大袈裟に断言してしまえば、私たち人間はこの世界に生きている限り、苦から逃れることは出来ないように仕組まれている、というのが仏教的な価値観の前提となる公理である。釈迦は単に老いることや病に斃れること、死ぬことだけを「苦しみ」として定義しているのではなく、そもそも生きること自体が「苦」なのであるという極端な理解の作法を提示してみせた。そこから仏教の壮麗な観念的体系は開闢したのである。

 一つの世界に救済者としての「仏」は一人しか現れない、という仏教的な公理は、当然のことながら「仏滅」以後の世界をどのように生き、どのような方法で救済を得るか、という重大な難問を呼び寄せる。その解決の方策として、例えば浄土教阿弥陀如来の誓願という理念を発明した訳だが、そのような方策の根底に存在するのは「現世において救済に与ることは出来ない」という苦々しい認識である。それは単なる観念的な規則のようなものではなく、あくまでも「生きることそのものが苦しみである」という仏教の基本的な公理を踏まえている。この世界に生きている限り、根源的な救済は望めないという原理的な事実に同意しなければ、阿弥陀如来西方浄土へ往生したいという宗教的な欲望は励起され得ない。

 浄土教の中心的な聖典として重んじられてきた「観無量寿経」には、観想の実践に関する記述が含まれているという。この「観ずる」という行為、いわば「存在しないものを幻視する」という行為には、仏教的な救済の本質的な要素が集約されているのではないかと、私は考えた。そもそも、この世に生きている限りは救済されず、西方浄土へ往生することが救済へ向けた唯一の手段であるという発想の根本には、現世に対する決定的な絶望が含まれている。浄土の教えを信奉する人々にとって、この世は住むに値しない苦界であり、そこから阿弥陀如来の偉大な力に縋って助け出してもらうことが彼らの悲願である。それは「現実」に対する蔑視であり、この「現実」は、どのような手段を講じても解決することのない苦痛に満ちた領域であるという動かし難いペシミズムの思想である。少なくとも「観無量寿経」の編纂された段階では、彼らは現実的な解決というものに対する絶望を生きている。俗世間に所属している限り、苦しみが解消されることは有り得ない。だから、この世界から脱却してしまおうという浄土教の基本的な性向は、絶えず現実の無効化へと舵を切り続けるのである。

 そのとき「観想」という概念が重要な意義を担い始めることになる。眼前に存在せず、未だ誰も辿り着いたことのない「浄土」における救済を希うことが、敬虔な門徒の最大の欲望である以上、彼らは「地上の現実」の価値を極限まで軽んじるようになるだろう。その代わり、彼らは存在しないものを「観ずる」ことに至福を見出すようになる。現実における艱難や苦痛が並外れた劇しさを備えていればいるほど、観想に対する欲望は強化され、極楽浄土に憧れる気持ちは高まっていくだろう。彼らは所与の現実を否定し、架空の異界を信じることで超越的な救済に与る。それは固より現実的な、つまり政治的=社会的な解決の否認である。所与の現実を改善することに労力を費やすのは無益であり、そんな暇があったら阿弥陀如来の御慈悲に縋って西方浄土へ往生するべく「観無量寿経」に説かれた十六観の実践に励んだ方がいい。それが仏教的な価値観の基底に存在する究極的なニヒリズムの形態なのだ。

 こうしたニヒリズムは、仏教に固有のものであるというより、宗教的なものの本質を成す構造的原理であると言えるだろう。キリスト教でもイスラム教でも「あの世」における救済の問題は重大な役割を負っている。天国へ赴くことを最大の歓びとして定めることで、現実における不幸や苦しみを無効化するというのが、洋の東西を問わず、普遍的な規模を備えた宗教における根本的な摂理なのである。善徳を積むことで天国へ行ける、悪事を働けば地獄へ落ちる、という因果応報の教義が齎す倫理的な矯正の効果は、社会にとっては重要であっても、宗教においては必ずしも本質的な事柄ではない。例えば親鸞が「悪人正機」の説を唱えたように、重要なのは「万民の救済」であり、どんな人間でも阿弥陀如来の慈悲によって救済されるのだという親鸞の過激な教えは、仏教的なものの本質に宿る「現実への蔑視」の究極的な形態であると言える。現実における罪悪など無関係に、人は極楽浄土へ往生することが出来るという主張は、現実において生起する出来事の価値を極限まで減殺しているからだ。

 仏教的な救済は常に「想像力」の領域において行われる。誰も死後の世界から帰還することは出来ないのだから、死者が本当に西方浄土へ赴いたかどうかを確証する術はない。しかし、そのように信じることで人間の精神的な幸福が確保されるのであれば、救い難い貧窮や迫害の渦中に置かれた人々にとっては天啓のようなものであろう。主に中東を席捲しているイスラム過激派勢力の「ジハード(聖戦)」に対する異様な執着も、彼ら自身の所属する現実への激越な蔑視と拒絶が源であることは、概ね確かな事実であろう。現実には存在しないものを「観ずる」ことによって幸福と救済を確保するという人間の奇妙な習慣は恐らく、現実的な不幸が死滅しない限りは未来永劫、機能し続けるに違いない。

 

仏典をよむ: 死からはじまる仏教史 (新潮文庫)

仏典をよむ: 死からはじまる仏教史 (新潮文庫)