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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

柄谷行人「日本精神分析」をめぐる随想

文学

 批評家の柄谷行人は「日本精神分析」(講談社学術文庫)という書物の中で、丸山眞男の文章を引きながら、次のように述べている。

 彼は古代からの日本の思想史を考察して、次のようにいっています。そこには、さまざまな個別的思想の座標軸を果たすような原理がない、あるものを異端たらしめるような正統もなく、すべての外来思想が受容され空間的に雑居する、そして、そこに原理的な対決がないために、発展も蓄積もない、と(『日本の思想』一九六一年・岩波新書)。いいかえれば、外から導入された思想は、けっして「抑圧」されることはなく、たんに空間的に「雑居」するだけである。新たな思想は、それに対して本質的な対決がないままに、保存され、また新たな思想が来ると、突然取り出される。かくて、日本には何でもあるということになる。丸山真男はそれを「神道」と呼んでいます。《「神道」はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めて来た。この神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、さきにのべた日本の思想的「伝統」を集約的に表現していることはいうまでもなかろう》(同右)。

 先日の記事で「日本的なものとは何か」という主題を掲げておきながら、自力では何一つ有効な答えを捻り出せなかったので、久方振りに物置へ閉じ込められた書棚から、柄谷行人の「日本精神分析」を引っ張り出してきたのだが、改めて読み返すと、その示唆に富んだ論述に魅了されずにはいられない。そして、丸山眞男の「日本の思想」という書物が抱え込んでいる豊かな学術的可能性にも興味を惹かれずにはいられない。日本的なものの特質として彼が挙げているのは、いわば明確で原理的な「自己」の不在ということであり、言い換えれば特定の価値観に基づいた壮麗な体系を持たないことが、日本的なものの本質を成していると告げているのである。

 だが、それは日本という風土が外来の思想に対して、つまり異質な価値観に対して寛容であったり積極的な摂取に励んだりしているという意味ではない。他者に対して無関心な人間が、却って何の感情も絡まない分、表面的には頗る親切に愛想よく振舞えるように、外来の思想に対して排他的であることと親和的であることは、本質的な対決を欠いているという点で共通しており、これら二つの特質は互いに全く背反しない。

 遣隋使が東シナ海を渡っていた太古の昔から現代に至るまで、日本人の舶来品に対する異様な憧憬と批評的意識の欠如は根深いものがある。しかも私たちは、舶来品が嘗て本国で有していた様々な特質の表層だけを盗み取り、換骨奪胎することに関して際立った才覚を示す社会の一員なのである。英語をカタカナに置き換えて土着の日本語に巧みに混淆させ、易々と使いこなしてしまう私たちの無節操な文化は、大陸からの舶来品である「漢字」さえも日本語の一部として取り込んでしまう柔軟さを備えているが、それは私たちが異国の文化に対して従属的であることを意味しない。寧ろ、私たちは舶来品の文化に対して無慈悲なほど傲慢であり、その本質的な異郷性に対する敬意が極めて薄弱なのだ。漢字が中国で育まれ、中国の社会や風土と断じて切り離し得ない土着性を孕んでいることは明白だが、私たちは漢字の根源的な異質さに対して無頓着であり、漢字も横文字も仮名も混ぜ合わせて駆使することに聊かの痛痒も覚えない雑食の野蛮さを身に着けている。

 どの地域でも、キリスト教イスラム教・仏教といった「世界宗教」にいわば「去勢」されることによって「自己」が形成された。そのような地域で、外来的な世界宗教が自己にとって外来的であるとみなすことがありえないのは、自己そのものがそれによって形成されたからです。一方、日本に関しては、和辻は、日本人は仏教を「己れのものとした」というのですが、仏教を所有するような「自己」が前もってあったわけではない。たぶん、インドにはそのような「自己」があり、原理があるといえるでしょう。しかし、あとで詳しく説明しますが、精神分析学者ラカンの言葉でいえば、日本では、いわば世界宗教による去勢が「排除」されたために、「自己」が形成されなかったというべきなのです。それは仏教がただちにいかなる抵抗もなく「根づいた」ことと矛盾しない。つまり、何もかも受け入れることは、ある種の排除の形態なのです。その結果、仏教は至る所に浸透しながら、外来的なものとしてありつづけている。

 例えば太平洋戦争後のアメリカによる日本の占領統治を考えてみれば、このような指摘は容易に頷けるものであることが分かるだろう。あれほど声高に鬼畜米英を叫んで、狂気に満ちた命懸けの肉弾戦に血道を上げていた日本が、敗戦と共に一夜にして転向し、信じ難いほどに従順な被占領民へと転身した事実は、例えばアフガニスタンイラクにおける戦後処理の底知れぬ泥沼化を鑑みれば、驚くべき穏やかさに彩られている。私たちは何もかも受け容れながら、結局は舶来品の思想や文化を隠然と換骨奪胎し、我流に作り変えてしまうことで、異郷の権力に魂の奥底まで掌握されるような事態を紙一重で免がれてしまう。この図太い手口は、例えば内田樹の「日本辺境論」においては「辺境人」の特質として語られている。私たちは東アジアの辺境という地政学的な特性と、異国の軍隊によって国家としての体裁を滅ぼされた経験を持たない歴史的な偶然の効果で、外来的なものによる徹底的な侵犯の危険を除外して考えることに慣れている。言い換えれば、私たちは明確なアイデンティティを確保せずとも生き延びることが可能であるような歴史的条件に恵まれ続けてきたのである。

 私たちが舶来品の思想に対して開放的で無邪気な態度を選択し続けるのは、結局のところ、舶来品によって根こそぎ作り変えられてしまう自己を持たないからであり、そもそも純一無雑の明確な自己というものを持ち合わせていない為である。所属する文脈の異なる、素性のバラバラな文物を適当に雑居させてしまうことは、寧ろ私たちにとっては本来的な「自己」の様態なのだ。外国の文物に蝕まれ、影響されることは私たち自身の原理原則に少しも抵触しない。漢字も横文字も仮名も混ぜ合わせて平気でいられるのは、そのようなハイブリッドの構造が私たちの紛れもない本質であるからだ。私たちは純然たる自己を所有せず、幾らでも異物を受け容れることが出来る。この無節操な妥協的態度は、明確な自己を主張しなければ生き残ることの出来なかった国々の人間にとっては不気味な姿に見えるだろう。

 柄谷は本書の中で、芥川龍之介の「神神の微笑」を引用して、日本的な風土の不吉な性格について触れている。宣教師が齎したキリストの教えは、一見すると日本の人民に受容され、広がっていくように思えるが、知らぬ間に独特の変貌を遂げていく。無論、そのような「習合」の現象は「日本」に限って発生するものではないが、少なくとも日本人がキリスト教を換骨奪胎してしまうことは事実で、そのプロセスの中にキリスト教との原理的な対決は含まれていない。彼らはキリスト教キリスト教として受け容れているのではなく、持ち前の習俗と無造作に合体させ、混ぜ合わせてしまうことで、いわば我流の「基督教」を編み出しているのだ。以前にテレビで見た、現存する九州の隠れキリシタンの人々は、政府による弾圧が消え去った今でも、決して自らの信仰を公表しようとしないし、キリスト教へ合流しようともしない。インタビューに答えて、彼らはその理由を次のように述べた。「隠すことも信仰の一部なのだ」と。それは本来のキリスト教の信仰とは無関係な考え方である。その番組を漫然と眺めながら、私は以前に読んだ遠藤周作の「沈黙」を思い出した。嘗てロドリゴの敬愛した神父フェレイラは、幕府による陰惨な迫害そのものには挫けなかったが、日本人に宣教することの「虚しさ」と「報われなさ」には抗い切れず、最終的に「転ぶ」ことを選んだ。それは神父の倫理的な脆弱さの表象ではない。恐らく遠藤もまた、日本的なものの本質に関して鋭利な省察を蓄えていたに違いないのだ。日本人は舶来品ならば何もかも受け容れる。だが、そうやって受け容れられたものは何もかも、ガラパゴス諸島の特異な生態系のように、奇妙な変貌を必ず強いられてしまうのである。