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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

内田樹「日本辺境論」をめぐる随想

文学

 引き続き、日本的なものとは何かという主題を巡って考察を積み重ねていきたいと思う。今回取り上げるのは、前回の記事でも僅かに触れた内田樹の「日本辺境論」(新潮新書)である。

 2009年に刊行されたこのユニークな日本論は、世間の注目を集めた話題作であり、私も随分前に買って愉しみながら読破した覚えがあるのだが、今回改めて読み返してみて、細かい部分に関する記憶がかなり曖昧になっていることを実感した。内田樹の厖大な著作全体に共通して指摘し得ることだが、彼の書き殴る多角的なエッセイは話頭が転々と移り変わるので、知らぬ間に論理の力で奇妙な場所まで連れて行かれてしまい、その独自の理路を細部まで記憶に留めておくのが難しいという側面があるのだ。尤も、これは拙い言い訳の類に過ぎず、実際には私の読解が甘かったというだけの話であろう。

 日本という国家=社会=風土の特質を「辺境」という観点に立脚して読み解き、分析した「日本辺境論」は、紛れもなく独断と臆見に満ちた暴論の一種であると呼び得る性質を抱えていながら、その知的な刺激と溌溂たる奔放な論理的想像力は得難いものであると認めざるを得ない。厳密に検討を加えていけば、その論理の筋目には色々と無理な運び方が散見すると思われるが、読んでいる間は不思議と釣り込まれて、蕎麦でも啜るように文章が精神的胃袋の奥底へ半ば自動的に滑り込んでくるのである。

 内田樹は、日本人の宿命的な特性を「辺境民」という観点から考察し、定義する。劈頭から自分の文章は先賢の受け売りに過ぎないという身も蓋もない前置きを述べておきながらも、その解析の仕方には内田樹以外には書き得ない独特な個性の刻印が埋め込まれていて、知的な興奮を誘われずにはいられない。彼は「華夷秩序」について語り、「キャッチアップ」について語ることで、日本人が地政学的な宿命に蝕まれていることを、様々な事例を引きながら綿々と証明してみせる。それらの考察が学術的な実証性に堪え得るものではないことは著者自身が予め附言していることだが、そういうアカデミックな権威の問題に関わらず、これほど奇怪でありながら異様な説得力に満ちた見解に基づいて、日本人の特性という難解な主題に明晰な見通しを与えた内田の功績は、素直に讃嘆されるべきであろう。

 華夷秩序における「辺境」に位置するという歴史的且つ地政学的な条件は、日本人の視野に特殊な狭窄を強いる。常に世界に対して「遅れた」存在であるという宿命を課せられた日本人にとって、世界の総体を自らの思索に基づいて主体的に解釈し、判断を下すという作業は極めて困難な事柄なのだ。「俯瞰すること」を禁じられた私たちは、絶えず自分の判断の正当性について慎重な吟味を重ねるしかない。そのことの不安定な「宙吊り」の感覚が、付和雷同という日本的な習慣を生み出す温床となっているのである。

 丸山眞男が「日本的思想の雑居性」について語ったことも、この「辺境」というキータームに準拠するならば、より鮮明な像を結び得るだろう。外来の思想が前後の文脈に関わらず悉く受容され、保存されながら、原理的な対決を留保されたままの状態に釘で打ち付けられてしまうという日本の常道は、私たちが俯瞰的な視座を確保し得ないことの必然的な反映であると言える。全体を見通した上で綜合的な結論を下す為には、俯瞰的な立場から自己の原理に基づいて一切を定義するという果敢な営為が不可欠であるが、私たち日本人はそもそも舶来品の思想に関して、その価値を吟味するという客観的な伝統をきちんと身に着けていない。それは私たちが根源的に「田舎者」であり、世界の最先端から遠ざけられた僻地の住人であるからだ。無論、それは狭隘な意識に根差した自己定義に過ぎないとも言えるのだが、遣隋使の時代から戦後のアメリカナイズに至るまで、絶えず最先端の流行を「外部」から受け取ることに慣れ親しんできた私たちにとっては、そのような「田舎者」の自覚は容易に取り去ることの出来ない核心的な原理と化している。

 私たちが受け容れる外来の思想には常に「来歴」があり、「素性」がある。その来歴や素性も含めて、その思想の本質が何なのか厳しく問い詰めることが、本来の「思想的貿易」の在り方である。その過程で忌み嫌われたり、斬り捨てられたりするものが生じるのは健全で普遍的な現象であり、その健全さは「確立された自己」に附随する健全さとして構成される。だが、私たちの社会には「自己の確立」よりも「新しいものに反応すること」を重んじる風潮が色濃く根付いており、例えば抹茶やら華道やら座禅やら、古き良き日本の伝統に連なる文化に対しても、極めて表層的な取捨選択の方針を示す場合が多い。私たちにとって「伝統」は常に分解された断片であり、その歴史的な文脈に対する敬意は極めて薄弱である。いや寧ろ私たちの固有性は、古き良き時代の遺物を特定の歴史的な文脈から引き剥がして、成る可く恣意的にリミックスしてしまう斬新さの内部に存するのではないか。

 舶来品の思想に対して、私たちはその歴史的な素性を実に思い切り良く踏み躙ってしまうような不躾な態度を躊躇わず採択し続けてきた。例えばナポリタンのようなパスタは、イタリアの文化そのものへの真摯な崇敬からは生じることのない、奇怪な突然変異の産物であろう。カツレツを卵で閉じて丼物にしてしまうのも、洋式便所を改造して高機能のウォシュレットを搭載してしまうのも、私たちが舶来品を異国の文脈から引き抜いて、自分の家の庭に無造作に植え替えることを日常茶飯事と心得ている為であろう。日本のアニメが奇妙な「無国籍」の感覚に貫かれているのも、再開発と称して古い建物を叩き壊し、真新しい複合施設を拵えるのも、私たちの雑食的な感受性の賜物であるに違いない。それは私たちが「田舎者」であるからこそ許容される無作法な慣習なのであり、例えば中国と国境を接する朝鮮半島の国々では、舶来品の扱いに関する日本的な傍若無人の精神を会得する為には、世界の最先端との距離が近過ぎたのではないかと思う。あらゆる外来の思想が、特段に排撃されることもなく生き残ってしまうのは、私たちが舶来品の来歴を確かめることに関して怠慢な民族であったからなのだ。

 読後、内田樹の巧妙な饒舌に丸め込まれたような気分に陥る一冊である。再読を済ませたら、次はいよいよ丸山眞男の「日本の思想」を繙いてみる予定だ。