サラダ坊主日記

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「仏教的な時間」への憎悪 三島由紀夫「金閣寺」について

 久々に三島由紀夫の「金閣寺」(新潮文庫)について書く。

 天から降って来て、われわれの頬に、手に、腹に貼りついて、われわれを埋めてしまう永遠。この呪わしいもの。……そうだ。まわりの山々の蝉の声にも、終戦の日に、私はこの呪詛のような永遠を聴いた。それが私を金いろの壁土に塗りこめてしまっていた。(『金閣寺新潮文庫 p.82)

 以前にもこのブログで「金閣寺」については、一向に纏まらない考察のようなものを展開してみたことがある。だが、なかなか作品の本質的な部分に言及出来ているような気がしない。優れた文学作品は何でもそうかもしれないが、或る小説を簡潔に論理的な言葉でその本質を言い当てたり、明快な図式に置き換えたりすることは決して容易な作業ではない。そこには作家の思想や経験や倫理や美学が濃密に詰め込まれていて、それらの要素が複雑に絡み合い、境目を失っていくことで作品としての豊饒な肉体性が立ち上がっていくものだ。だから、その肥沃な醗酵の成果を短い言葉で観念的に取り扱うのはいつでも片手落ちの誹りを免かれ得ないのである。

 先日来、末木文美士の「仏典をよむ」や丸山眞男の「日本の思想」を読みながら、日本という国家の構造を歴史的に規定してきた「仏教」というものの影響力の根深さに就いて、彼是と断片的な想念を紡ぎ出す日々を過ごしているのだが、その延長線上で「金閣寺」に関して改めて駄文を草してみようと思い立ったのは無論、この作品が仏弟子たる僧侶の放火というスキャンダラスな事件を題材に選んで形成されているからである。

 私にとって、敗戦が何であったかを言っておかなくてはならない。

 それは解放ではなかった。断じて解放ではなかった。不変のもの、永遠なもの、日常のなかに融け込んでいる仏教的な時間の復活に他ならなかった。(『金閣寺新潮文庫 p.86)

 この一節に含まれている「仏教的な時間」というものの意味を考えることは、三島が僧侶による金閣寺への放火事件を題材に一篇の緊密な文学作品を拵えたことの意図を捉える上で、重要な鍵を握っていると私は思う。これはあくまでも我流の解釈に過ぎないが、ここで名指しされている「仏教的な時間」の特質、つまり「不変」「永遠」という要素は、恐らくは仏教の根源的な考え方の一つである「輪廻転生」を念頭に置いたものではないかと考えられる。つまり、私たちは何度死んでも繰り返し転生する存在であって、絶対的な終焉ということは有り得ないという古代インドに由来する世界観が、三島の言葉では「仏教的な時間」という修辞に集約されるのである。そして三島は恐らく、このような永遠性の観念に対して生得的な憎悪を懐いているのだ。

 三島がこの作品を綴るに当たって綿密な取材を実施したのだとしても、それが事件の真相を客観的に再構成するというルポルタージュ的な意志に基づいて行われた訳ではないことは確実であろう。彼はあくまでも「永遠なもの」に対する憎悪、裏返せば「無常」への切実な憧れ、滅びの美学に対する過度の執着といった性来の個人的哲学に纏わる諸問題を象嵌する背景として、金閣寺放火という異様な事件を最適の題材として抽出したのであり、重要なのは彼一流の生に関する哲学を披歴する為の舞台を入念に構築することに存したのではないかと思われる。

 私を焼き亡ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。同じ禍い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになった。私の脆い醜い肉体と同じく、金閣は硬いながら、燃えやすい炭素の肉体を持っていた。そう思うと、時あって、逃走する賊が高貴な宝石を嚥み込んで隠匿するように、私の肉のなか、私の組織のなかに、金閣を隠し持って逃げのびることもできるような気がした。(『金閣寺新潮文庫 pp.59-60)

 「金閣」という美しいものの象徴に対する「私」の精神的な距離感の変動はそのまま、彼が懐いている美学の精確な反映として描き出されている。「滅亡」という運命を共有するとき、「私」と「金閣」との間には殆ど性的な愉楽の感覚が喚起されるが、敗戦によって滅亡の危険性が取り除かれてしまった途端に、両者の蜜月は完膚なきまでに断ち切られ、葬り去られてしまう。「金閣は、音楽の怖ろしい休止のように、鳴りひびく沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである」(P81)という文章、或いは「敗戦の衝撃、民族的悲哀などというものから、金閣は超絶していた。もしくは超絶を装っていた。きのうまでの金閣はこうではなかった。とうとう空襲に焼かれなかったこと、今日からのちはもうその惧れがないこと、このことが金閣をして、再び、『昔から自分はここに居り、未来永劫ここに居るだろう』という表情を、取戻させたのにちがいない」(p.80)といった文章には、本源的に移ろい易い生身の存在である「私」と「永遠」との官能的な関係性の消息が明瞭に刻み込まれている。

 こうした論理を踏まえれば、この作品のクライマックスである金閣寺への放火は、「永遠」の領域に属する崇高な存在を「うつろうもの」の世界へ引き摺り下ろそうとする試みであると定義し得るし、もっと図式化して言えば「永遠の否定」ということになるだろう。敗戦によって滅亡の「惧れ」が解除されてしまった世界では、永遠そのものを意味する「仏教的な時間」があらゆる存在を包摂してしまう。私たちは何度でも生まれ変わり、決して滅びることが出来ない。

 おしなべて生あるものは、金閣のように厳密な一回性を持っていなかった。人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖するにすぎなかった。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。(『金閣寺新潮文庫 p.246)

 この観念的なアクロバットが齎したのは、決して脅やかすことが出来ないと思われていた「仏教的な時間」を毀損し得る方法の現実性である。輪廻転生はまさしく「厳密な一回性」の否認に他ならず、あらゆる生命体がカルマの鎖に繋がれて六道輪廻を繰り返すものとして定義される仏教的な宇宙論に依拠する限り、私たちは己の「厳密な一回性」を承認することが許されない。三島は、そのような論理を逆手に取ることで「永遠なもの」の根源的破壊を企図した。無論、別の見方をすれば、三島自身が本当は「厳密な一回性」を獲得したいと希求していた、という風に捉えることも不可能ではない。しかし、金閣への放火を終えた後の「私」の述懐、即ち「生きようと私は思った」という科白を考慮に入れるならば、金閣のような「永遠」の存在に自らを擬すという野心への執着は、辻褄の合わぬものになるだろう。或いは、金閣という存在が全篇を通じて象徴的な存在として君臨し続けるのは、それが三島=「私」を呪縛する奇怪な形而上学の象徴として採用されているからなのかも知れない。「永遠なもの」に対する執着は「私」が有限の存在として生きることを致命的に妨礙してしまう。そこからの倫理的な解放の可能性を見出す為に、或いは見出したその方法を文学的に定着させる為に、三島は「金閣寺」を書いたのではないか。そうだとしたら「金閣寺」は、作中に充満する陰鬱で観念的な重苦しさとは裏腹に、未来への希望を提示した小説として解釈することも可能なのである。

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)