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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「身分」という擬制 丸山眞男「日本の思想」に関する読書メモ 3

 岩波新書の「日本の思想」には、表題の論文以外にも幾つかの文章が収められている。そのうちの一つ「『である』ことと『する』こと」は、丸山が昭和三十三年に行なった講演の記録に基づいて再構成されたもので、ネットで検索してみると、高校の現代文の教科書にも掲載されている有名な文章であるらしい。実際、語り口は平易で、それほど難解な用語が頻出することもないが、なかなか刺激的で重要な認識を平明な図式の中に巧みに織り込んでいて、頭の中身を整序されるような知的快楽を味わうことが出来る。

 詳しい内容は原文を参照して頂くに越したことはないので、ここでは解説しない。この文章から触発された私の個人的な雑感を例によってだらだらと書き綴らせてもらう。

 「である」の原理に基づいた社会というのは、別の言葉に置き換えるならば「身分」という概念によって規定された社会のことである。丸山が文中で用いている表現を借りるならば「属性」によって個人の性質や社会的な地位が規定されるような世の中のことだ。一方、「する」の原理に基づいた社会では、その人間の具体的な行動に由来する「業績」が、個人の特性を指し示す重要な単位となる。この場合の社会の基準は「機能」である。

 この「属性」と「機能」の二元論を軸に据えて、日本社会の構造に関して解剖のメスを揮うというのが、丸山の文章の大まかな骨子である訳だが、その簡明で説得力に満ちた分析の魅惑を堪能するには実地に原文を徴するのが一番なので、私は別のことを書きたいと思う。

 私は丸山の文章を読みながら、漠然と中上健次の小説を思い出していた。例えば中上の小説では常に「血族」ということが重要な意義を持っているが、血族というのは典型的な「属性」の原理に支配される領域である。地縁も同様で、どの土地に生を受けたのかということが、その人間に対する社会的な待遇や評価を定める仕組みというのは紛れもなく「属性的原理」の所産に他ならない。自分自身の行動や具体的な業績によって評価を書き換えるのではなく、絶えずその出自によって、生存の文脈を規定されるという訳だ。それに対して、中上にとっての重要なキャラクターである竹原秋幸は複雑な愛憎を示し、にもかかわらず血族の問題によって終始翻弄され続けることになる。

 だが、彼は逃れ難い血の柵に単純に囚われて足掻いていた訳ではない。それは彼がいわば私生児としての宿命を負荷されている為に生じる複雑な捻れである。私生児であるということは、属性の観点から眺めれば、秋幸は血族の主流から外れ、「家」の単位によって切り分けられた社会の枠組みから逸脱しているということを意味する。どの「家」に所属するかという問題が、その社会的な機能と容易に切り離し得ない世界において、私生児という肩書を担うことは、いわば外部的な視点を導入することに等しい。中上が秋幸を一連の物語の主役として重用した背景には、私生児という宿命ゆえに、「属性」で構成された社会に対する批判的な視座を確保することに関して、構造的に適応し易かったからではないかと考えられる。

 秋幸は「土方」としての現場の労働を通じて「自然」との交歓、融合、一体化を幾度も示す。作品の深層に底流する通奏低音のようなそれらの反復的描写は、具体的な「機能」によって「属性」の呪縛を振り切り、払い除けるという効果を表象しているように感じられる。だが、彼の苦しみは近代的な機能主義への傾斜によって救済される性質のものではない。彼は「属性」を呪いながら、一方ではそれに恋焦がれてもいる。或いは、このように言えるだろうか。私生児としての出自、何時も血の繋がらない家族の間に紛れるように暮らしてきた特殊な境遇は、彼から「属性」を奪ってしまったのだと。竹原家の男としての秋幸は、いわば表面的に偽装された「属性」に従っている。彼の本当の出自は「浜村龍造」の一族に繋がっている。だが、その龍造自身も、厳密には素性の知れない半端者として蔑まれている。彼が「浜村孫一」の末裔であると自称し、石碑まで建てるのも、彼が「属性を剥奪された人間」としての空虚に堪え難いものを覚えたからではないだろうか。

 浜村龍造が路地の世界を憎むのは、それが何よりも「属性」を重んじる社会であるからだ。その憎悪は、秋幸の精神においても部分的に共有されている。どこにも属することの出来ない余所者に対して、属性的原理に呪縛された人々は冷遇を旨として接するだろう。「どこの馬の骨か知れない」人間に対する社会的評価は、その人間自身の具体的な特性や美質に関わらず、無条件に極限まで切り下げられ、不当に低く査定されてしまう。逆に言えば、ただ「属している」というだけで、一定の社会的評価は自動的に保障されてしまうのである。そのような社会の仕組みが根付いている場合、無名の貧者が社会的な上昇を成し遂げることは極めて難しい。

 「地の果て 至上の時」で描かれる路地の崩壊は、機能的原理による属性的原理の破壊の象徴的な表現であると看做すことが可能である。それは属性的原理の度し難い閉鎖性を打破するものとしては慶賀すべき現象であるかも知れない。しかし、機能的原理による侵襲が絶対的な正義を称する権利は誰の手によっても担保されていない。丸山眞男は、政治や経済などの機能的領域と、芸術や教養などの属性的領域とを切り分けて語っているが、そのような二分法が適切なものなのか、今の私には答えが出せない。中上の「地の果て 至上の時」も、かなり前に読んで途中で投げ出してしまったままなので、これ以上の分析は、今は何も出来ない。まだまだ勉強が足りない。

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)