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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「叱責」について

 誰でも食う為には働かねばならず、働く以上はその作業なり行為なりが他人の為に、社会の為に役立っていなければならず、少なくとも顧客や上長や同僚や後輩から必要な存在であると公的に承認されねばならない。これはどんな業種でも職種でも決して避けて通ることの出来ない社会的動物の宿命とも称すべき現実であって、例えばプロブロガーの是非というような問題が昨今、はてなブログを巡回していると度々散見されるが、どんな職業であっても、それが「労働による所得の確保」という経路を辿る以上は他人の評価というものに多かれ少なかれ気を遣ったり阿諛追従したりせねばならない。

 労働は、それが誰の為にもならず、誰によっても評価されないものである限り、単なる作業以上の定義を授かることは出来ない。逆に言えば、それ自体として眺めるならば単なる作業に過ぎないことでも、その営為が他人にとっての「価値」を生み出すのであれば、労働として認められ、然るべき対価が支払われることになる。何れにせよ、あらゆる職務は常に顧客の存在を想定せざるを得ない。例えば職種や業種によっては顧客の存在を余り意識しないままでも日々の業務が稼働していくという環境も実際に存在するだろうが、それは単に顧客の顔が見え辛い場所で仕事をしているというだけの話で、顧客を蔑ろにしても構わぬ富貴な境遇を約束されているということではない。「お役所仕事」などという言葉が、私たちの社会では揶揄的な意味合いで用いられることが珍しくないが、役人であっても税金を納付する一般庶民の思惑や反応に何の関心も示さないということは考えられないだろう。傲慢に見える政治家であっても、選挙の季節が巡ってくれば忽ち「国民」の皆様の御機嫌を伺うことに躍起になり出すのは有り触れた光景である。

 だが、顧客の評価を得るということは、それほど簡単な話ではない。日々、日本中で色々な会社が経営破綻の憂き目に遭っていることは紛れもない事実であり、その冷厳な現実を踏まえるならば、様々な企業の経営者たちが「顧客第一」というスローガンを真言のようにやたらと唱えたがる心境にも納得がいく。それくらい「顧客」の評価を持続的且つ恒常的に獲得し続けるのは至難の業であり、小売業の陣頭で働いている私にとっても、顧客という曖昧な存在の魂を掴み続けることがどれほどの難事であるか、その底知れぬ問題の深淵は他人事ではない。

 さて、相手が顧客であろうと自社の上長であろうと、或いは業務上の取引先であろうと、世の中には苦情や叱責ということが日常茶飯事として流通しているものだ。顧客から怒られることも、上司から叱られることも、同僚や部下から揶揄されることも、この世知辛い資本主義社会を生き抜いていく上では、絶対に忌避することの許されない勤人の宿痾のようなものである。私自身、会社勤めをするようになってから、顧客は固より、上司からも様々な種類の叱声を浴びせられてきた。五年が経ち、十年が経っても、何かしらの理由で叱責を食らうことは、私の仕事振りが天下無双唯一無二の完璧な水準に達しない限りは、必ず金魚の糞の如く付き纏う苦痛であり、或る意味では御釈迦様の「四苦八苦」に組み込まれるべき根源的な艱難であるとも言い得る。

 昨今では暴言や暴行の類が速やかに「パワハラ」やら「セクハラ」やら「モラハラ」などの多種多彩な「ハラスメント」に分別され、法的な処罰や社会的な非難の対象に担ぎ上げられる風潮が強まっているので、昔ながらのスパルタ的指導は公に通用しなくなりつつあるが、それでも「叱責」という現象が巷間から完全に追放されることは有り得ないだろう。何故なら「叱責」には相応の教育的効果が備わっており、もっと端的に言えば精神的な「鑢」のようなものであるからだ。

 こういうことを書き出すと、直ちに「お前もパワハラ野郎だな」という風な批判的視線を向けられることになるかも知れないが、私が本稿で述べたいのは「批判に慣れろ」ということなので、気にせずに筆を進めたいと思う。

 叱責というのは、特に何らかの過失を犯した場合には特に堪らなく辛く感じられるもので、大抵の場合、人は上長や顧客から怒られると竦み上がって委縮してしまうように心身が構造化されている。眦を決した他人に厳しい口調で此方の落ち度や不手際を難詰されれば、誰でも表情が強張り、陰気な態度を取らざるを得なくなるのは自然な成り行きである。結果として、叱責を加えてくる人間への苦手意識が強まり、円滑な人間関係を構築することが難しくなり、場合によっては抑鬱的な症状へ発展することにもなるだろう。無論、物事は何でも程度次第で善悪が切り替わるという側面を有しているものだから、余りに手厳しく酷薄な批判によって打ち砕かれる精神が存在すること自体を、軟弱であると一蹴するのは賢明な判断であるとは言えない。

 だが、叱責が社会人の生活習慣病であり、決して免かれることの出来ない慢性的な持病である以上、叱責を怖れて「叱責を免かれるような仕事」を重点的に心掛けるのは不実な態度だと私は考える。怒られないこと、批判されないことは確かに、仕事の品質が高度なものであることの傍証であると看做すことも出来るが、それはあくまでも間接的な証拠であって、怒られない仕事が崇高で優秀な仕事だと早合点するのは止した方がいい。困難な仕事であればあるほど、あらゆる種類の「過失」を惹起する懸念は高まるのが当然であり、結果的に成功したとしても、そこへ至るまでの過程においては、無数の叱声を浴びる虞は常時伏在している。怒られないことが仕事の最終的な目標となり、成果の判定基準として採用されてしまえば、その仕事は本質的な意義を失う。怒られないことは、顧客の満足を確保し、顧客の評価を高めることとは必ずしも一致しないからだ。自分自身の面子を守り、傷つき易い心を自ら保護することに精根尽き果てているようでは、他人の役に立つことなど叶わぬ夢想だと断じるしかない。

 二十歳の頃、世間の荒波へ漕ぎ出そうとする、危なっかしい泥舟のような私の為に、父親が「営業心得」と題した手書きのメモをくれたことがある。今でも保存してあるので、備忘録を兼ねてここに書き写しておく。

 1.礼儀正しく(取引先、社内) 上長に敬語。

 2.こまめに上司に報告、うるさがられるほど(上長が君の営業状況を常に把握している状態にしておく)。

 3.ミスは即、上長へ報告(正直に) 隠したりするとますます拡大する。隠しても評価が上がるわけではない。

 4.コンピュータに精通すること。

 5.プレゼンテーション(発表)の技術をみがく。パワーポイントの技術をみがく。

 6.パソコン(モバイル)による仕事管理。

 7.知らないことは、ささいなことでも質問する(周りを気にせず)。

 8.会議では、必ず意見を言う(幼稚な考えでも)。かっこいいことを言おうとしなくてよい。

 9.論理的に行動、発言すること。社内ルール、営業ルールに精通すること。

10.法の遵守(個人情報etc.)。正当でない会社の要求は拒否する。法を犯して注文をとっても会社は守ってくれない。

11.「世帯主」の自覚を持ち、独身者と一緒にあほになって遊ばないこと。仕事で遅くなっても、遊ばなければ時間は作れる。

12.いいたいことを言って溜飲を下げない。

13.絶対に「きれない」こと。

14.収入内で生活し、借金をしない。

15.他人の借金の保証人にならない(どんなに親しくても)。

 これらの文言は、私の父親が四十年に及ぶサラリーマン生活を通じて実地に学び取った智慧の一覧である。中でも「ミスを隠しても評価が上がるわけではない」という言葉は、曲がりなりにも自分自身が勤人として十年の日月を閲してきた今だからこそ、その正しさと難しさが骨身に沁みる。叱責を怖れる気持ち、これは誰の心の中にも潜んでいるものであり、或いは無様な自分を他人の鼻先へ晒すことへの羞恥も「人情」であると言うべきだろう。だが、叱責を怖れて、それを免かれることに専一に労力を傾注すれば、単なる人畜無害の前例主義者か、悪質な粉飾を塗り重ねる詐欺師にしかなれないことは明白である。叱られることは罪ではないし、恥辱でもない。罪や恥辱であると言いたがる人間は何処の世界でも少なくないが、第三者の無責任な批判に気を遣っても報われることはない。大いに叱られ、胸を張って嘲られればいいのだ。それは確かに苦痛なことだが、その苦痛を経由しない限り、人間が自己への確固たる信頼を築き上げることは不可能に等しい。