サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

植松伸夫「ザナルカンドにて」

 植松伸夫の作曲した「ザナルカンドにて」は、極めて美しい旋律の曲だ。スクウェアから発売されたPS2のロールプレイングゲーム「FFX」の中で印象的に用いられたこの楽曲には、単なるゲームミュージックという枠組みを超越したクオリティが宿っている。無論「ゲームミュージックという枠組みを超越した」という評価の仕方が古臭いのは承知している。「ザナルカンドにて」に限らず、テレビゲームというものに心を躍らせた経験のある人ならば誰でも、忘れ難いメロディーというものを有しているものだろう。

 ゲームというのは、同時代性と個人性を併せ持った経験だが、現代のコンシューマー向けビデオゲームは高度な洗練を経て、幾らか高踏的な趣味に様変わりしてしまっているのではないかと推察する。同時代的という点に関して言えば最早、スマートフォン向けにアプリとして配信されている所謂「ソーシャルゲーム」には及ぶべくもない。だが、かつてのスーファミからプレステに至るコンシューマーゲーム全盛の時代、十代の子供たちにとって「ファイナルファンタジー」をプレイすることは紛れもなく、白熱する同時代的経験であった。体育の授業でサッカーボールを蹴り合いながら、発売されたばかりの「FFⅧ」をどこまで進めたか確かめ合う。ファミ通を立ち読みしてどうしても分からない攻略のポイントを突破する為の方策を学ぶ。そういう共時性のようなものを、現代のコンシューマーゲームに求めることは難しい。

 植松伸夫の「ザナルカンドにて」が奏でられる「FFX」は、テレビゲームの全盛期の終わりに花開いた佳品であった。夕暮れのザナルカンド遺跡へ向かう道の途中で流れる、この物哀しい調べは、輪郭のはっきりしたシナリオを持つ「FFX」の明快な叙情性と巧みにマッチしていた。この作品が発売された当時、私は高校生で、テレビゲームに興じる余暇を確保し得る最後の季節に差し掛かっていた。初めて声優による演技を導入し、3D空間を自在に駆け回る立体的な映像表現を画面に映し出した「FFX」の物語は、奇妙に生々しく感じられた。何が生々しかったのだろう? 声だろうか?

 それまでのFFシリーズでは、美麗なグラフィックや高音質の音楽ならば幾らでも贅沢に使われていた。だが、登場人物が「声」を発することはなかった。恐らく「声」の生々しい説得力がなければ、ティーダの回想という形式で語られるシナリオに、リアリティを与えることは困難だっただろう。テキストとして表示されるキャラクターの科白から様々な情報を読み取り、イメージを膨らませる時代は終焉を迎え、圧倒的な「肉声」の表現力が、映し出されるFFの世界観を一新したのだ。ゲームの領域で、モノローグという形式の有効性を支える為には、単なるテキストでは物足りない。声優の演技を加えることでモノローグ的な表現力を獲得した「FFX」は、歴代の作品と比較しても遥かに「内面的」な作品として仕上がることになった。回想、モノローグ、その説得力を支える「肉声」の表現、それらの要素が複合することで、あの気宇壮大な物語の全体が、一人の語り手の「追憶」に悉く包摂されてしまったのだ。それは、極めて内面的な問題構成を追究した「FFⅦ」においても成し遂げられることのなかった画期的達成である。単にハードの性能が上がっただけの話だろうか? だが、技術的な革新と物語の革新を連動させることは決して、自動的には行われ得ない。