サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

京都残影

 私は大阪府枚方市というところで、中学二年生の終わりまで生まれ育った。枚方市大阪府の北東部にあり、京都府八幡市と隣接していて、私の住んでいた樟葉という地域は京都府との境界線が眼と鼻の先であった。

 中学だったか小学校だったか忘れたが、学校の遠足でスタンプラリーのような行事が行われ、私たちは幾つかの小規模な班に分かれて京都市内へ出掛けた。地図を頼りに予め定められた地点を巡り、待ち構えている教員からスタンプを貰うのである。一種の社会科的授業であったのだが、私の住んでいた地域においては、それくらい京都というのは近しい土地であった。

 未だ物心がつくかつかないかの幼少期にも、両親は幼い二人の息子を連れて、東寺やら京都府立植物園やらに出掛けた。鴨川の畔で、端午の節句に細長くて笹の葉か何かで包まれた粽(ちまき)を買って帰ったり、お気に入りの店へ裁縫の生地や糸を物色しに行く母親を待って、父親と弟と一緒に鴨川の畔で遊んだり、そういった記憶は今でも断片的に消え残っている。それは既に遠い彼方へ沈みつつある夕陽の欠片のような思い出だ。

 父親の転勤に伴い、中学三年の春から千葉県松戸市へ引っ越した私は、常に憂鬱な感情を携えた陰気な少年であった。その年の一月に不意に母親から転居を告げられ、居間のソファに座った私はショックで涙を流した。幼稚園の時から親しかった友達と別れて、誰一人知り合いのない異郷へ移り住まなければならない不条理さに、精神を打ちのめされたのだ。いざ引っ越してみると、そこはやはり異世界であった。語尾を「じゃねえ?」と釣り上げたり、気に入らないことを「うざい」と表現したりする級友たちの姿に、私は馴染み難いものを覚えていた。固より強情で、どんな環境にもスムーズに溶け込めるタイプの子供ではなかった私にとって、そうした異郷へ身を沈めるのは苦痛な経験であった。しかも生憎、そのクラスは中学二年生からの持ち上がりで、互いに見知った仲なのである。関西の訛りを残した、余り饒舌とも陽気とも言い難い閉鎖的な少年にとって、その条件は更に辛いものであった。

 しかも中学三年生は修学旅行の年度であり、夏が来ると私は然して親しい友人も作れぬまま、京都と奈良を巡る集団の旅行へ出かける羽目になった。親の手前では面子もあり、友達が余りいないなどとは言えないし、弱音を吐くのは嫌いだったから素知らぬ顔をしていたが、修学旅行は一生の思い出どころか、苦痛以外の何物でもなかった。

 最終日、宿泊したところ(それがホテルであったか旅館であったかさえ記憶していない)から京都駅へ向かう途中だったろうか、バスが京阪の四条駅の辺を通過した。そのとき、日暮れの橙色の光の中に映し出された四条大橋と鴨川の風景は、数か月前に私が仲の良い友人たちと映画を見る為に訪れた場所だった。本当にそれは、つい此間の出来事であった。それまで私は慣れ親しんだ土地の中で、幼い頃から同じ時間を過ごしてきた友人たちと共に睦まじく生きていたのだ。にもかかわらず、私は今、孤独の渦中に埋もれている。その断絶の感覚は、深い悲しみを中学生の私の心に齎した。何の映画を見に行ったのか、今ではもう記憶していないが、その日の帰りの電車にも、夕焼けの光が燦々と降り注いでいた。私は孤独という感情の痛ましさの中で、声を失っていた。

 すっかり世慣れて俗っぽくなった現在の私にとって、その孤独と郷愁の記憶は只管に懐かしいばかりである。