サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

少年は己の半身と対決する ル=グウィン「ゲド戦記」

 アメリカの作家アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」第一巻「影との戦い」のハードカバーを図書館で借りて読んだのが、幾つの時だったかはもう覚えていない。小学生時代の私は図書館へ通うのが日課のようなもので、ゲド戦記を手に取ったのは恐らく、偶然の成り行きであったのだと思う。

 もう何年も昔、スタジオジブリが「ゲド戦記」を原作として劇場用アニメーションを製作公開したことがあり、当時映画館で子供を連れて見た記憶がある。未だ前妻と暮らしていた頃の話だ。ゲド戦記も、スタジオジブリの諸作品も好きだった私にとって、両者の融合はこの上ない幸福な映画経験を齎してくれる筈だったが、実際には失望が脳裡を占拠する結果となった。

 ゲド戦記は固より複数の巻に亘って綴られるシリーズ作品なのだが、ジブリが作った劇場用アニメーションとしての「ゲド戦記」は、複数のエピソードを極めて恣意的な手順と方法で繋ぎ合わせ、物語やキャラクターの質的な連続性へのテロリズムを犯している。確か作者のル=グウィンも、ジブリに招かれてゲド戦記を観覧し、否定的な見解を表明していたように記憶しているが、実際問題、作者としては我が子をズタズタにされたような不快感と屈辱と憤りを禁じ得なかったに違いない。その責めを、宮崎駿の息子である宮崎吾朗監督一人の力量に帰するのは酷な話であったとしても、ジブリという極めて巨大な社会的影響力を誇るスタジオが「ゲド戦記」と銘打って世に送り出した作品が、あのような低水準のものであれば、それは原作に対する冷ややかな見方を惹起しかねないだろう。その意味で、スタジオジブリの社会的、芸術的責任は重たいものである。

 ゲド戦記に登場する様々なガジェットを適当に見繕って繋ぎ合わせるという手法は、原作に対する侮辱以外の何物でもない。ル=グウィンが書いた「ゲド戦記」は、あのような大仰なアニメーションとは全く異質な、真摯で寡黙な幻想的叙事詩である。一人の少年が魔法を学び、才能を開花させるが、若者らしい傲慢な野心ゆえに悪事に手を染め、己自身との対決を強いられる。ファンタジーという結構を採用することと、物語を紡ぐことの間に、これほどナチュラルで必然的な相関性が成り立つというのは、殆ど奇蹟的な力業であり、それ自体が一つの魔法のようなものである。何より、ル=グウィンの手で書き綴られる、私たちの知らない異世界の情景の生々しさが、ファンタジーに対する私たちの欲望を完璧に満たしてくれるのだ。安っぽいアニメーションを見せられた所為で食指が動かなくなっている方がいるとしたら、非常に勿体ない。是非、実地に原作を繙かれることをお勧めする。

 

影との戦い―ゲド戦記〈1〉 (岩波少年文庫)

影との戦い―ゲド戦記〈1〉 (岩波少年文庫)