サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

盗みたがる人

 こういうことを人目に触れるところで書いていいのか分からないが、何でも備忘録として書き遺しておこうと思う。

 私はわりと手癖の悪い人間であった。幼稚園に通っていた頃、何度か友達のおもちゃを盗んだ。どうしても欲しくて、我慢が利かず、こっそり盗み取ってしまうのだ。幼稚園で、友達のおもちゃを盗んで通園用の鞄に押し込んだこともある。友達の家へ遊びに行って、小さなガンダムの人形をポケットに忍ばせたこともある。小学校から中学へかけては、親の財布から金を盗んだ。最初は小銭、暫くすると物足りなくて千円札、やがて万券まで抜き取るようになり、当然露顕して滅茶苦茶に叱られた。一度バレて叱られたのに、もう一回盗癖が再燃して、もう一度叱られた。盗んだ金は、中古のゲームソフトを買うのに費やした。累計で幾ら盗んだか分からない。幼稚園の頃も、友達のおもちゃを盗んだことで母親に叱られ、自分で返して謝って来いと言われ、陰気臭い顔で友人の母親に詫びた。向こうは何も咎めるようなことは言わなかった。太宰治の言葉を借りるなら、「恥の多い人生を送ってきました」ということになるだろう。

 財布から金を盗んだことで、普段は温厚な父親から厳しく叱責されたこともあり、爾来盗癖はすっかり止んだ。だが、長じてからは別の方面で盗癖らしい習慣が生じた。別に意図した訳でもないのだが、他人の女に手を出すことが続いた。そもそも最初に結婚した女性は離婚歴のある子持ちの女性で、私と彼女が仲良くなった頃に折悪しく、前の旦那がよりを戻したいと言ってきた。或る夏の晩、私は相手の家で、彼女が恵比寿で買ってきた数万円の浴衣を眺めて話をしていた。そこへ前の旦那が現れて、呼び鈴を鳴らした。雨戸の向こうから「俺だよ」という声が聞こえ、彼女は顔色を変えて「旦那だ」と言い、立ち上がった。「話してくるから待ってて」と言われ、居間に取り残された私は、玄関扉の向こうへ消えていく彼女の姿を、どうすることも出来ずに見送った。彼女の元旦那の父親は足を洗った暴力団員で、元旦那自身、昔は右翼団体に属し、駐禁を切ろうとする警官に右翼の大物の名前を出して脅しを掛けたこともあったと聞いていた。当時、十九歳だった私は、自分の短い人生が若しかしたら今日で終幕を迎えるのかも知れないとぼんやり考えた。どうしようかと考え、とりあえずトイレへ入って小便をし、その後ソファに座って煙草を吸った。

 やがて彼女が帰ってきた。話は済んだと言っていた。そのとき、玄関の扉がガチャリと開いて、いかつい男の声が「おい、兄ちゃん」と私を呼んだ。居間からは、玄関の三和土は死角になっていた。私は慌てて腰を浮かしたが、男は出て来るな、顔は見たくねえと言った。そのまま、男は「俺の大事なもんを持ってくんだから、責任取れよ。責任取れなかったらぶっ殺すぞ」と唸った。私は「分かりました」と答えた。その男は、仕事もろくにせず、借金もあり、嫁の頭に灰皿を投げつけて流血させたこともあり、嫁が娘を産む為に入院しているときも街中で女を引っ掛けていたという無頼な人物であった。その人に何故、責任について念を押されなければならないのか、分からなかった。それでも私は、殴られるのが怖かったので、大人しく「分かりました」と返事をしたのだ。

 それから六年後に、私は離婚した。結局、責任を取り切れなかったのである。