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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第五章 帝都へ 3

 インヴォルグ中継基地は、エレドール沙漠の曠野に聳え立つ巨大な軍事要塞である。エレドール沙漠管理軍の管轄下にあり、日夜、軍事演習や新型兵器の性能試験に明け暮れている。外部との往来は専ら地下に敷設された軍用軌道に支えられており、地上を行き交う隊商のように、灼熱の大地にも負けない強靭な体躯を備えた陽馬の群れを足に使うことは滅多にない。

 帝国軍務庁は、兵団の編制と配備に関して「戦術管区」という概念を適用している。戦術管区、一般には「戦管区」という略称で呼ばれるこの概念は、兵団の管轄地域を指す単位であり、「局地戦術管区」と「広域戦術管区」の二つの種別に分類される。局地戦術管区は地域の軍事局が管掌する区画であり、例えばキグナシア戦管区を統べるのはキグナシア軍事局長である。そして全国の局地戦術管区を統括する最終的な権限は、軍務本庁の駐屯院司が掌握している。

 一方、広域戦術管区を統べるのは「管理軍」と称する組織であり、現行法は「中央」「辺境」「沿岸」「北部氷域」「エレドール沙漠」「レウ・パシニア広域」「帝領ゲルチェン」の七つの存立を規定している。広域戦管区の頂点に立つ管理長の権限は非常に大きく、軍法によって院司と同等の資格を認められており、有事には軍務庁掌の直隷となって国防に身を挺する決まりである。

 インヴォルグ中継基地は、エレドール沙漠広域戦術管区を所轄する軍政の枢軸であり、その運営には巨額の歳費が割かれている。第一次竣工までに百年の月日を要し、その間に幾度も建設費用の増大を計上したにも拘らず、財務庁の御偉方が脂汗を拭いながら辛抱強く胃痛に堪えてくれたのは、エレドール沙漠が優れた天然の要害であり、東部や南部の有力な異民族が謀叛を企てて蹶起した場合に帝都への侵攻を阻止する防壁として役立つことを、王宮が期待したからである。性能試験の名目で運び込まれる数多の新兵器も、キグナシアやヴォルト・アクシアの反帝主義者を牽制する為の「匕首」だと囁かれている。

「長旅、御苦労様です」

 乗降場で一行を出迎えたのは、インヴォルグ軍用鉄道管理隊のヘイゼル隊務主任であった。小柄な体躯を軍服で固めたその風采に、特筆すべき点は見当たらないが、沙漠の砦を往来する膨大な数の車両を管理しているのだから、それなりに有能な人物であるに違いない。

「デスタシオン隊務主任から、事情は伺っております」

「君は閣派の人間か」

 直截に問い掛けるパレミダの眼光は、胃の腑さえも見透かしそうな鋭さでヘイゼルの顔を薙いだ。誰彼構わず疑ってかかるのは余り品位のある態度ではないが、黒衣隊の毒牙を躱す為には外聞を気に病んでもいられない。

「恥を忍んで申し上げれば、嘗て私は陛派に属する兵士でした」

 ヘイゼルは目深に被った軍帽の庇で表情を隠しながら、歯切れの悪い口調で答えた。

「然し、志が脆弱であった私は、自ら進んで閣派の捕虜となりました。爾来、春影帝陛下の施政に賛同する者として、今日まで軍務に精励しております。貴方のような生粋の閣派から見れば、同胞と呼ぶには値しない臆病者でしょう」

「過去の経歴を突き回す積りはない。要するに今は、信頼していいんだな?」

 試すように訊ねるパレミダの瞳に向かって、彼は大きく頭を振った。

「無論、信頼を裏切るような真似はしないと誓います。デスタシオン隊務主任とは、二十年来の付き合いです。今更、彼の顔に泥を塗るような過ちは犯したくない」

 顎を擡げて此方を見返した桂皮色の瞳は、真摯な輝きを秘めていた。戦前から国軍の輜重業務に関わり、戦後は殉国隊の栄光を礎に、敏腕の軍用鉄道管理官として自らの声価を高めてきたデスタシオンが、この期に及んで生半可な罠に躓くとは思えない。しかも、残された時間は限られている。連れ去られた二人が用済みとなって首を刎ねられる前に、帝都治安本部の査問所へ辿り着かねばならないのだ。ヘイゼルの底意を怪しむ余り、沙漠の地下で立ち往生を続ける訳にはいかない。

「何れにせよ、君を信頼する以外に方法はない。帝都まで宜しく頼む」

「有難う御座います。万事、この私に御任せ下さい。隊務主任の矜りに懸けて、無事に帝都まで送り届けて差し上げます」

 桂皮色の瞳に明るい光が萌した。義勇軍の捕虜となった来歴に就いては、後ほど審らかに問い質しておく必要があるが、己の直観を信じる限り、性根の腐った間者には見えない。デスタシオンの相馬眼に命を預けて、先ずは帝都へ速やかに辿り着くことを優先すべきだと、パレミダは内心で結論を出した。

「ウルムグラン号の整備に、暫く御時間を頂戴したいと考えております。その間に、朝食でも召し上がられませんか」

 当座の信頼を勝ち得たことに安堵したのか、ヘイゼルは表情を緩ませて無難な提案を示してみせた。地下の鉄路に閉じ込められていた所為で時間の感覚が狂い、すっかり食欲を失っていた二人は、その言葉で初めて夜明けが訪れたことを知った。

「言われてみれば、腹が減ったな。甘えさせてもらおうか」

 パレミダの返答に、ヘイゼルは満足げに頷いた。

「御案内しましょう。此方へ」

 乗降場の片隅に設置された頑丈な鉄扉を押し開けると、黴臭い空気が鼻を衝いた。ひんやりとした空間に、榛色の古びた螺旋階段が静かに蜷局を巻いている。竣工から長い歳月を閲しているのであろう。壁面の啌気燈は、燈芯に雷質呪鉱を用いた旧式で、常に最先端の技術を取り入れたがる進取的な軍務庁の設備としては珍しい倹約ぶりである。しかも、燈芯の寿命が尽きかけているのか光量に乏しく、がらんとした階段室は寒々しい薄闇を湛えていた。

「地上二階の食堂まで御案内します。遠慮なさらず、好きなものを召し上がって下さい」

「請求書は、帝都のイルファルタ巡察社へ回してくれ」

「何を仰いますか。確かに軍務庁は何時でも財政難ですが、食堂の支払いにまで固執するほど落魄してはいませんよ」

 長い階段を昇り、代赭色の鉄扉を開け放つと、目映い光が濫れて一行の視界を埋め尽くした。壁面を刳り貫いた巨大な天窓から降り注ぐ朝の陽射しが、広々とした食堂を白く染めている。

「インヴォルグ中継基地には常時、一万人を超える数の職員が勤務しています。その胃袋を残らず満たす為の設備も、必然的に巨大化せざるを得ません」

 夜勤を終えた職員たちが、宿舎へ戻る前のひと時を思い思いに過ごしている。食器の触れ合う音や話し声が反響し、澄み渡った蒼穹の下に広がる沙漠の景観が、壁面の天窓越しに果てしなく続いている。この要塞は、沙漠地帯に点在する支局の人員も含めれば総数三万人を計える、エレドール沙漠管理軍の本拠地である。午餐の時刻ともなれば、更に熾烈な混雑が食堂を一面に覆うであろう。

 厨房に接した窓口で各自、好みの料理を注文し、天窓に近い明るい卓子を選んで席に着く。四方を茫漠たる砂塵の曠野に囲まれた孤城の割に、用いられている食材は肉も野菜も彩り豊かで、調味料も珍しいものを使っている。

「管理軍には、全国各地から功名心を滾らせた優秀な軍務官が集まります」

 焼いた鶏の胸肉を食事用の刀子で切り分けながら、ヘイゼルは食堂の全景を見渡して言った。

「管理軍の成員だけではありません。軍用鉄道の重要な中継地でもありますから、様々な部署、様々な身分の軍務官がインヴォルグを訪れ、通過していきます。どんな需要にも応えられるよう、食堂部の連中も色々と気遣いに追われているのですよ」

「此れ、辛いな」

 鹿肉と炒め野菜を合わせた料理を頬張っていたファジルが、眉を吊り上げて一頻り咳き込んでから、涙声で舌を出した。

「この粒々は一体何だよ。滅茶苦茶辛いぞ」

「コーレヘム産の瑠璃胡椒でしょう。南部地方の沿海州では日常的に使われている調味料です。確かに目の玉が飛び出るほど辛いですが、慣れるとこの強烈な辛味が恋しくて堪らなくなりますよ」

「恋しくなる前に別れちまいそうだな」

 ファジルの皿から瑠璃胡椒の粒を摘んで慎重に咬み砕いたパレミダの眦にも、薄らと涙が滲んでいた。

「此れも鉄道で運ぶのか」

「ええ。此処からカリスタまで直通の軍用軌道が走っています。南部から船便でディラム湾を渡った荷物を、鉄路で運ぶ訳です」

 バルフェル地峡の東側に広がるディラム湾に面した港町カリスタは、帝国沿岸管理軍の拠点であるチェデス要塞に近く、軍都としての側面を有している。

「黒衣隊の人間が、この食堂を訪れることもあるのか」

 上背を屈めて周囲へ鋭い眼差しを送りつつ、パレミダは声を潜めて訊ねた。空腹を満たすことに気を取られて油断していたが、軍用軌道の重要な交差点であるインヴォルグに今この瞬間、黒衣隊士が一人もいないと考えていい根拠は何もない。

「今はいません。私は隊務主任として日々、乗員名簿の隅々に眼を通しています。御安心下さい」

「だが、漏れがあるかも知れないだろう」

「心外ですね。デスタシオン隊務主任からの『賓客』を迎える日に、乗員名簿に記載された黒衣隊士の名を見落とすなんて、愚の骨頂ですよ。そこまで無能な人間ではないと、私は自負しています」

 一先ずヘイゼルの保証を信じるとしても、警戒すべき相手は黒衣隊士に限らない。ガルノシュ・グリイスに使嗾された刺客が総て、帝都治安本部の徽章を帯びているとは言い切れないのだ。もっと厳密に言えば、誰も秘められた頭の中身まで検閲することは出来ない。何の変哲もない生真面目な軍務官が、密かに閣派への憎悪を滾らせた陛派官僚の子息子女である可能性も、皆無とは言えないのである。

「軍用鉄道への乗車に際しては、必ず管理隊に充てて運行申請書若しくは乗車申請書を提出する決まりです。王家の特命を帯びた黒衣隊士であっても、乗車の事実そのものを記録から除外することは出来ません」

「じゃあ、俺たちがウルムグラン号に乗り込んで移動していることも、総て記録に残るということか?」

「残りますが、今回の記録はハイルダー運転部長を乗員として作成される段取りになっています。御二人の名前は明記されませんよ」

「それは不正に当たらないのか」

 ヘイゼルは穏やかな笑みを浮かべて口を噤んだ。その眼差しは、他の職員の立ち聞きへの警戒を暗に物語っている。

「そういう措置が罷り通るなら、黒衣隊士だって同じ手口を使うかも知れない」

 ヘイゼルの耳許に口を近付けて小声で追及するパレミダの眼は、真剣そのものであった。

「ガルノシュの策謀は着実に深刻化しつつあるんだ。黒狗を使って殉国隊の残党を襲撃させているんだぞ? 軍務庁だって、アブワーズやシーゲリや、嘗ての陛派の旧臣に牛耳られようとしている。違法な手段が通用する下地は出来上がっているんだ」

 アーガセスを襲撃した殉国隊の刺客たちが、パレミダの行動を察知している可能性は今のところ高くない。黒狗に嗅ぎ付けられることを危惧し、アーガセスへ向かうときもジェリハスとは異なる経路を選び、日時も合わせなかった。刺客はジェリハスが単身でマルヴェの家を訪れたと思い込んでいるに違いない。だからこそ、今になってインヴォルグで黒衣隊の人間と不意の遭遇を果たすのは絶対に避けたかった。追跡者の存在を悟られたら、二人の身柄を奪還するのは途端に難しくなる。

「場所を変えましょうか、パレミダさん」

 隊務主任が食堂で見知らぬ男と密談に耽っていたと噂になれば、思わぬところから眼を着けられる虞がある。空の食器を載せた盆を掴んで、ヘイゼルは椅子から腰を浮かした。

「私の部屋へ行きましょう。役に立つか分かりませんが、貴方の耳に入れておきたい話もありますから」