サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第五章 帝都へ 4

 インヴォルグ中継基地の地上十四階から十六階までの空間は「総務管理階層」と称する。最上階の管理長室を筆頭に、基地の心臓部である要塞総務部室など、管理者たちの執務室が集まる重要な領域である為、立入に厳しい制限が課せられる「甲種機密区域」に指定されている。階段室の入口に控える警衛に挨拶して総務管理階層へ足を踏み入れるときも、執拗に身分の証明を求められたが、パレミダの提示した巡察免許の効力で辛うじて事無きを得た。

「隊務主任の客人というだけじゃ駄目なのか」

 静まり返った回廊を歩きながら訊ねるパレミダに、ヘイゼルは肩を竦めて頷いてみせた。

「昔より随分厳しくなりました。勿論、此処にはインヴォルグ中継基地の頭脳が集約されています。暴徒に制圧されれば、どんな災禍が惹き起こされるか、分かったものではありませんから、厳格な管理をするのは当然でしょうね」

「ヴェスメルン事件の影響か」

 不意を衝かれたように足を止めて、ヘイゼルは沈痛な表情を浮かべた。

「ええ。あの悲劇の記憶を、風化させてはなりませんから」

 ヴェスメルン事件。首謀者の名に因んでそう呼ばれる事件が発生したのは今から五年前、春影帝セファド・グリイスの崩御から幾日も経たない晩夏の一日であった。エレドール沙漠を往還する隊商の一群が、砂嵐に襲われて立ち往生し、大事な陽馬にも逃げられたと訴えてインヴォルグに助けを求めたのが、その端緒である。

「彼らは救護室を脱け出して階段室を駆け上がり、甲種機密区域に侵入して狼藉の限りを尽くしました」

 当時の惨劇を思い返す度に、強烈な悪寒に襲われ、冷汗が止まらなくなる。幸いにもヘイゼル自身は地下乗降場で新型車両の整備に立ち会っていて難を免かれたが、上層では呪刀を携えた隊商たちの蛮行によって、十二名の軍務官が非業の死を遂げた。被害者にはステラード管理長やバザーリン演習局長などの大物も含まれており、インヴォルグの警備体制に対して轟然たる批判の嵐が吹き荒れた。

「有力な閣派庁務官であった彼らの死が、夏光帝政権に与えた損失は計り知れません。甲種機密区域の指定は、避け難い判断でした」

「だが、そう有難がってばかりもいられないぞ」

 突き放すように呟いたパレミダの顔を、ヘイゼルは訝しげに見凝めた。

「どういう意味です」

「春影帝陵下の崩御によって国中が意気消沈しているところを狙って、陛派の旧臣が仕掛けた血腥い芝居だという噂もある」

「芝居?」

「深読みが過ぎると思うか? 帝国義勇軍の重鎮だったステラードが殺されてから、エレドールの管理長人事は迷走を始めた。揚句の果てには、レリガンツとかいう若造が沙漠の砦に王様として君臨する始末だ。ヴェスメルンなんて冴えない隊商の親方が、誰の差し金もなしにインヴォルグへの襲撃を思い立つか? 誰かが台本を書いていたとしても、不思議じゃない」

「ガルノシュ・グリイスが、あの哀れなランデール人の民族主義者を煽動したと仰るのですか」

「確証はないさ。然し、それを暗示する証拠は少なくない。国事訴訟院の審理記録を読んだことがあるか? ヴェスメルンは或る筋から金を貰って襲撃に踏み切ったと陳述してる。狂人の出任せだと笑い飛ばされて、直ぐに首を刎ねられたがね」

 俄かに信じ難い筋書きに、唖然として何も答えられない。ランデール人の隊商であったヴェスメルンは熱烈な民族主義者であり、沙漠に聳え立つ緑邦帝国の権力の象徴たるインヴォルグ中継基地へ偏執的な憎悪を寄せていた。それがあの惨劇を惹起した背景であり、舞台装置であると帝国法務庁の検事官は公式に発表した筈だ。ガルノシュの仕組んだ陰惨な芝居であったと言われても、直ちに鵜呑みには出来ない。

「信じるか信じないかは、個人の自由さ。だが、あの事件が夏光帝政権、つまり閣派の系譜に連なる連中の首を絞めたことは、紛れもない事実だ」

 パレミダの鋭利な眼光に狂信者の情熱を読み取ることは不可能ではない。然し殉国隊の残党が捏造した妄想と一蹴するには、説得力があり過ぎる。この男が帝都アルヴァ・グリイスで最大の規模を誇るイルファルタ巡察社の社員であることは、巡察免許の記載を見る限り虚偽ではない。春影帝の庇護を享けて短期間に著しい発展を遂げた巡察社の情報網を、安易に侮るべきではなかろう。

「黒狗の動きは間違いなく活発化している。このインヴォルグも、決して安全じゃない」

 パレミダの追い詰めるような断言に、ヘイゼルは溜息を禁じ得なかった。現職のエレドール沙漠管理長であるレリガンツは若輩ながら、アブワーズ軍務庁掌の推輓でインヴォルグの皇帝に抜擢された。有能な軍人であるという評判は紛い物ではないらしいが、広域戦術管区の統括を任されるには実力以上に軍歴が重要であり、優れた陣頭紀兵官(前線の指揮官)であることを理由に管理長の座を宛がわれるのは極めて異例と言わざるを得ない。

「詳しいことは、主任室で話しましょう。此処は総務管理階層です。管理長の噂話に興じるのに適した環境とは言い難い」

 地上十四階の片隅に設けられた隊務主任室は、埃っぽく雑然としていた。書棚や抽斗に収まり切らない分厚い書類の束が、椅子や床の上にも無造作に積み上げられている。

「狭苦しい部屋で申し訳ない。軍人とはいっても、私の主な業務は書類の遣り取りに尽きているんです」

「別に構わないさ。なあ、ファジル」

 パレミダに声を掛けられて、振り返らなければと思いながらも、ファジルは壁面に穿たれた方形の天窓から眼を離せなかった。晴れ渡る青空の下に、無表情な砂丘が果てしなく連なっているのが見える。風の強い日には、舞い上がる砂塵に空は褐色に染まり、兵士の遭難を危惧して総ての軍事演習が中止されるという。

「この沙漠を、徒歩で渡る奴がいるのか」

 嘆声を漏らすファジルの背中に、パレミダとヘイゼルは思わず顔を見合わせて苦笑した。

「命知らずに見えるか? だが、沙漠の民にとっては別に騒ぎ立てるようなことじゃないのさ」

「砂嵐に襲われたら、生きて帰れないじゃないか」

「そうだな。だから、管理軍の連中はヴェスメルンを見捨てられなかったんだろう」

 苦い思いを封じ込めるように、ヘイゼルはパレミダの言葉を黙殺して革張りの椅子へ腰を下ろした。

「お掛け下さい。私からも、一つ伝えておきたい話があります」

「異臭騒ぎでもあったのかい。レリガンツの部屋に、黒狗の親玉が入っていくのを見たとか?」

「親玉ではありませんが、それなりに重要な人物です」

「何だと」

 冗談の積りで投げ掛けた言葉が正鵠を射たことに驚いて、パレミダは眼を見開いた。

「黒衣隊の人間か」

「パーメンス将刀官が先週、いらっしゃいました」

「パーメンスが?」

 嫌な名前を聞かされて、パレミダは半ば無意識に親指の爪を咬んだ。嘗て帝都治安本部隷下のキグナシア治安支局長を務め、閣派の弾圧に辣腕を揮った人物である。戦後は雷声帝への協力を問責され、禁籍処分を受けた筈であったが、何時の間にか黒衣隊に舞い戻って将刀官の肩書を振り翳していると聞く。その背後に如何なる絡繰が関わっているのか、想像を逞しくするのは然して難しくない。

「一体どういう用件で、彼奴はインヴォルグに顔を出したんだ」

「何でも、南部で巨大な呪田が発見されたので、その視察に行くんだと言ってましたね」

「呪田? 黒衣隊の殺し屋が何故、呪田の視察に出向くんだ」

 呪鉱石の採掘に関する業務は帝国鉱務庁が管掌しており、新たに発見された呪田の調査は資源開発院が担っている。王城の公安を司る黒衣隊士の出る幕はない筈だ。

「彼は呪合火器の生産に携わっているそうです。目新しい呪鉱石が出ないか、調べに行くのだと」

「その呪田に関する情報は、何か握っていないか」

「場所は聞きました。モファスから、南西の方角へ進んだ場所にあるそうです。ネルドー山脈の麓に広がっていると、パーメンスは言ってました」

「モファスか」

 レウ・パシニア(南パシニア)東部の地方都市モファスは、フィゴレン人と称する民族の郷土であり、緑邦帝国による支配に反抗的な姿勢を貫いていることで知られる。呪田の開発を円滑に進める為に、荒事の専門家である軍務官を招聘したとすれば、パーメンスの視察も強ち不自然とは言えまい。

「然し、単身で乗り込むのは不自然では」

 パレミダの言葉を遮るように、不意に部屋の扉を叩く音が聞こえた。思わず動きを止め、彫像のように凝り固まった二人に目顔で落ち着くように指示しながら、ヘイゼルは何食わぬ顔で立ち上がり、扉の前に立って誰何した。

「演習局のマスティーヴァだ。話がある」

「来客中だ。ちょっと待ってくれ」

「緊急の用件だ。余り焦らすな」

 軍事訓練や新型兵器の性能実験を管轄する演習局は、エレドール沙漠管理軍の中核と称すべき部署である。帝国辺境管理軍が西部国境の防備を、帝国沿岸管理軍が沿海州の警邏を自らの使命としているように、エレドール沙漠管理軍の情熱と矜持は「軍事演習」の一語に尽きている。度重なる演習や実験を通じて、東部地方の有力な公軍を威圧するのも役割の一部である。

 観念したヘイゼルが扉を開けると、赤銅色に日灼けした長身の軍人が、堆く積み上げられた書類の山に辟易しながら踏み込んで来た。如何にも実戦慣れした油断のない瞳を室内に滑らせ、忽ちファジルとパレミダを視界に捉えて訝しげに眉を顰める。

「来客とは珍しいな」

 爪先から頭頂まで丹念に観察しながら、マスティーヴァは横目でヘイゼルを睨んだ。

「キグナシアから運んだ客だな。眼を着けられないように注意した方がいい」

「デスタシオン隊務主任の御知り合いだ」

 ヘイゼルの紹介に、マスティーヴァは苛立たしげに首を振った。

「だったら猶更だ。管理長の耳に入ったら、お前の立場は確実に悪くなる。余計な善意は、身を滅ぼすぞ」

「余計ではない。必要な善意だ」

 毅然たる態度で言い返すヘイゼルを腫物に触るような眼で見遣りながら、マスティーヴァは溜息を吐いた。

「議論をしている余裕はない。帝都治安本部から連絡が入った。軍事演習の依頼だ」

「内容は」

「部外者の前では話せない。席を外させろ」

「分かった」

 ヘイゼルに促されて廊下へ出ると、マスティーヴァが念を押すように低い声で囁いた。

「盗み聞きしたら、此処から帰れなくなる。弁えておけよ」

「心得てるさ」

 無用な喧嘩を仕掛けて目立つのは愚かしい。素直に引き下がったパレミダの眼前で、隊務主任室の扉は乱暴に閉て切られた。

「随分と苛立ってるな。何が起きているのか、調べておきたいところだが」

 パレミダは壁に凭れて周囲を見回した。

「生憎、此れ以上の興味を惹く訳にはいかないな」

 隊務主任室から摘み出された不審な民間人の姿は、警備の厳しい総務管理階層では一際眼に着かざるを得ない。他の部局の職員や、軍刀を帯びた警衛の探るような眼差しが飛び交う廊下で、疑われるような行動を取れば直ちに拘束されるに決まっている。

「帝都治安本部がインヴォルグへ演習の依頼を出すとは奇妙な話だ」

 表情を変えずに唇だけを素早く動かしてパレミダは言った。

「何で奇妙なのさ」

 訳も分からずに問い返すファジルの腋窩は、緊張の為に冷汗を滴らせている。

「帝都治安本部の主戦場は都市の暗がりだ。だだっ広い沙漠で何の訓練をしようって魂胆なんだ?」

 モファスへ呪田の視察に赴いたというパーメンスの動向と何か関係があるのだろうか。ヘイゼルとマスティーヴァの密談が終わるのを待ち侘びながら、パレミダは通りかかった妙齢の女性軍務官に愛想のよい目配せを送って冷淡に黙殺された。