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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 1

 サルファンたちがハーディラー島の小さな港に船を停める頃には、豪奢な夕陽は既に海原の彼方へ没し、黒檀色の夜陰が辺りを隈なく領していた。桟橋を伝って陸に上がると、島の中心部に聳え立つレネシーカ山の斜面に、家の灯が疎らに散っているのが見える。観光地として知られるエルナ島とは異なり、山肌を開拓して行なわれる非効率な農業や、貧相な艀を用いて営まれる漁業で細々と食い繋いでいるハーディラー島には、旅人を歓待する設備も習慣もない。日暮れと共に海藻の塒を脱して沿岸を泳ぎ始めるハナダアジの夜釣りに出ていた漁夫に訊ねると、村外れに半ば崩れかかった安宿が一軒ある他には、寝泊り出来る場所などないと言う。今晩だけでも家に泊めてもらえないかと頼んでみたが、カゲイロンとエトルースの堅気とは思えぬ風采に不吉な印象を享けたらしく、無遠慮に余所者は嫌いだと言い捨て、釣竿と魚籠を揺すりながら街燈のない夜道へ姿を消してしまった。

「どうも、お前の頬の古傷が気に障ったみてえだな」

「お前の禿げ上がった頭が眩しくて寝られないんじゃないかと危惧したんだろう」

 漁夫の冷淡な対応の原因を互いに擦り付け合う二人の姿に、サルファンは溜息を吐いた。こんな鄙びた小島で呪刀を提げた余所者が歩き回っていれば、関わり合いにはなりたくないと敬遠されるのは当たり前だ。

「疲れちゃったよ、あたし」

 海面を押えつけて進むには小さ過ぎる舟艇に揺られ続けた所為で、イスナはすっかり体調を崩していた。潮風に嬲られた蒼白い頬は哀れなほど冷え切っている。

「早く宿屋へ行こう。しんどいみたいだ」

 不毛な口論に痺れを切らしてサルファンが急かすと、カゲイロンは大袈裟に肩を竦めた。

「そんなに御姫様の御機嫌が大事なのか、お前は」

「うるさいな。あんたに嘴を突っ込まれる筋合いはないだろ」

「命の恩人に向かって随分と思い上がった口を叩くじゃないか」

「助けてもらったことには感謝してる。でも、それとこれとは話が別だろ」

「潔癖な小僧だぜ。分かったよ。その御嬢ちゃんには何の恨みもない。さっさと寝床へ転がり込むとしよう」

 東天に冴え冴えと輝く月明かりを頼りに、人影の絶えた道を歩く。土地勘はないが、狭い集落なので道に迷うほどのことはない。大雑把に見当をつけて針路を定め、寝静まった民家の間を通り抜けて灯りの落ちた市場を横切ると、裾野の樹林から程近い場所に宿屋の窓明かりを見つけた。黒ずんだ木製の看板には「木蘭亭」の文字が刻まれている。

「快適な眠りは期待出来そうにねえが、文句を言うなよ、王子様」

「うるさいって言ってるだろ」

「うるさいって言われると、余計に苛めたくなる性分なのさ」

「嫌な性格だな」

「そうだろう。俺は嫌な奴なのさ。だから嫌な奴としか友達になれねえのさ」

「おい、俺を巻き込むな」

 鋭い瞳で一瞥しながら文句を言うエトルースの姿に、イスナは口許を覆って笑いを咬み殺した。船上で演じられた深刻な衝突が尾を引いて、もっと居心地の悪い旅路になるだろうと身構えていたが、随分とさっぱりした性格の人たちのようだ。

「相棒ってのは連座制だ。俺が悪口を言われたら、お前も同じように傷つかなきゃならねえ」

「訳の分からん詭弁は結構だ。鉈で斬りつけたって身動ぎもしない鈍感のくせに、白々しいぞ」

「白々しい? 頼もしいの間違いだろ」

 滑りの悪い引き戸を開け放つと、正面の帳場に年老いた女が骨董品の置時計のように鎮座していた。天井に吊るされた薄暗い灯りは、煤に塗れた年代物の油燈である。

「いらっしゃい」

 老女の酒焼けした声が、黴の生えた安宿の居間へぼんやりと響く。勘定台に置かれた分厚い宿帳は古びて四隅が捲れ上がり、石の灰皿にはガーシュの燃え滓が堆く積み上がっている。どう考えても繁盛していない、潰れかけの木賃宿である。

「空いてるか?」

「何十年も埋まったことがないよ」

 愚問だと嘲笑うように素気なく答える老婆の口許には、乾いた薄笑いが貼りついていた。

「部屋を二つ、貸してくれ」

「好きな部屋を選んで使いな。代金は前払いだ」

「幾らだ?」

「一人、五十エナクでいいよ。食事も何も付かないし、部屋も粗末だからね」

 五十エナクでも高いんじゃねえのかと口の中で呟きながら、カゲイロンが皺の寄った紙幣を渡すと、老婆は丁寧に折り畳んで帳場の抽斗へ仕舞い込んだ。

「こんな辺鄙な島の、黴臭い安宿に泊まりたいなんて、あんたら物好きだね」

 老女は一同の顔を見回し、黄ばんだ前歯を見せて笑った。

「ちょっと訳があってね」

「そりゃあ、そうだろうさ。この島に、呪刀を提げた人間が顔を出すことなんて滅多にないよ。相当な訳があるんだろうね」

 鄙びた集落が疎らに点在するばかりで呪鉱を産する訳でもない内海の孤島を、呪刀士が態々訪れる理由はない。

「余計な詮索は、控えておいた方が賢明だ」

 威圧的な眼差しを向けるエトルースに、老婆は枯れ枝のような指先でガーシュを摘みながら鼻を鳴らした。

「哀れな婆に脅し文句とは、畏れ入るね。久々の客に、嬉しくなっちまっただけさ。さっさと寝床へお上がりよ」

 埃臭い廊下に、陰気な薄闇が蟠り、古めかしい装飾の扉が並んでいた。嵐に沈む難破船と手を差し伸べる女神の図案は、当地に息衝く敬虔なエルレジュ信仰の反映であろう。あの図太い老婆が、船乗りを庇護する女神に真摯な敬愛を捧げているとは思えないが、雷声帝の肖像画が掲げられているより、余程安心して眠れることは確かであった。陛派の生き残りが営む宿屋で寝首を掻かれるような失態は、断じて避けねばならない。

 二手に分かれ、カゲイロンとエトルースが突き当たりの部屋で、サルファンとイスナが右手の部屋で休むことに決まった。油を差して手入れしているとは到底思えない、錆びついた錠前を苦労して下ろすと、イスナは寝台の縁に腰掛け、仰向けに倒れ込んだ。総身の筋肉が硬く強張り、まるで鞣す前の獣の皮のようだ。枕に頬を埋め、開け放たれた窓辺に眼を遣る。黙ってガーシュを吹かすサルファンの肩越しに、灰色に痩せた月が見えた。

「疲れたね。何だか、短い間に色んなことがあり過ぎたから」

 逞しい背中に向けて、独り言のような口調で語りかける。全く、こんなにも目紛しい時間を過ごしたのは生まれて初めてのことかも知れない。無論、エルナの大津波のときも、周りの環境は瞬く間に変貌していったが、当時のイスナは五歳の幼女に過ぎず、大人たちの狂奔も遠い記憶の片隅に染みの如く消え残っているに過ぎない。こうやって生々しい感慨として人生の寄る辺なさ、有り触れた日常の脆さを思い知るのは類例のない経験だ。年に一度しかない夏祭りの休暇、サルファンと二人きりで過ごせる貴重な時間の始まりを、穏やかに迎えられる筈だったというのに、一瞬で世界の総てが色を変えてしまった。どうやったら後戻り出来るのか考えるのも億劫なほどに、慣れ親しんだ生活から遠く隔てられて、今あたしは此処にいる。

「サルファンも疲れたでしょ」

 重ねて話し掛けても、恋人の返事はなかった。一体、何を見凝めているのだろう。月明かりに霞む蒼白い横顔から、寡黙な胸底を読み取るのは至難の業である。

「どうしたの?」

 寝台から起き上がり、再び呼び掛ける。然し、サルファンは振り返りもしない。粗野なほどに陽気な性格が取り柄の恋人の見慣れない冷たさに、イスナは当惑した。立ち上がり、ゆっくりと歩み寄って、窓枠に添えられた掌に自分の掌を重ね合わせる。途端に、彼の節榑立った指が険しく竦むのが分かった。

「考え事をしてるんだ。抛っておいてくれないか」

 普段とは別人の厳しい声音に、彼女は火傷を負ったように手を離した。単なる疲労だけで、此れほど狷介な態度をサルファンが選び取る筈はない。窓の彼方から、暗い海の奏でる波音が聴こえる。落ち着いて考えてみれば、この短期間に彼が味わった凄絶な体験も又、過去に類例のない「何か」であったのだ。絶望、哀しみ、憎しみ。仲間を奪われ、平和な暮らしを踏み荒らされたことへの、荒々しい憤怒。今はどんな言葉も、損なわれた魂に届くことはないだろう。

「ごめんなさい。無神経だったかも知れない」

 環境の激変に当惑しているのは御互い様だが、眼前で人が殺されるのを見たという彼の心の空洞、その傷痕の深さは、想像し難い未知の暗闇であった。

「先に、寝てるから」

 最後の呼び掛けにも振り返ろうとしないサルファンの頑迷な態度に突き放されて、脚の朽ちかけた寝台へ栗鼠のように逃げ込むと、イスナは色褪せた毛布を頭まで被って、未だ嘗て感じたことのない胸を切られるような寂寥にそっと眼を瞑った。