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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 2

 静かな夜というのは、危険な時間だ。コントラ湾の穏やかな海に浮かぶハーディラー島は、サルファンが長年暮らしてきた港町イシュマールの喧噪とは比較にならない沈黙に満ちていた。開け放たれた窓辺から聞こえて来るのは単調な潮騒の音、生温い夜風の音、宿の背後に広がる林の枝葉が擦れ合う音ばかりで、酔い潰れた船乗りの怒号も、音程の外れた放歌高吟も鼓膜に触れることはない。

 窓辺に腰掛けてガーシュを吹かしながら、毛布に包まって眠るイスナの罪のない寝顔を盗人のように一瞥する。邪険に扱ってしまった後悔がじわじわと迫り上がり、内なる感情を御し遂せない自分への軽蔑が胸の奥で疼く。だが、腕尽くで押さえ込もうとしても、眼裏に焼きついた凄惨な残像が消え去ることはない。刀を振り翳して啀み合い、殺し合う残忍な眼差し、獰猛な唸り声、斬り裂かれて熱い鮮血を噴き出す躰。人間の仮面を被った非道な獣性の化身。あんな世界に巻き込まれるのは絶対に御免だ。命が幾つあっても足りない。

(何故、こんなことになってしまったんだ?)

 ラシルドの血塗られた過去が、永遠に続く筈であった平穏な日常を根底から揺さ振り、呆気なく倒壊させてしまった。要約すれば、そういうことなのかも知れない。だが、終戦から二十年の月日を閲した今になって何故、遠い悲劇の残響が蒸し返されなければならないのか。無辜の人間が何故、長閑な港町の慎ましい暮らしを奪われなければならないのか。何より、共に働いてきた仲間たちが何故、無意味な死を強いられなければならないのか。

 それ以上に、彼の精神の中枢を刺激したのは、人を殺したという経験の齎す苛酷な負荷であった。血に穢れた両手を洗い清める術も心得ず、死んだ人間の罵声が鼓膜を腐らせるような気さえする。不可抗力だったとしても、あの瞬間、刀子を警務官の肉体へ突き立て、夢中で捻じ込んでいるときの自分は確かに、一匹の野蛮な獣と化していた。人間らしい良識や道徳、寛容の心など、微塵も残っていなかったのだ。

(もう、元には戻れないんだ)

 慣れ親しんだ土地から遠く隔てられているからこそ、郷愁は際限もなく湧き上がって彼の心臓を熱く燃え立たせた。何度も新しいガーシュに火を点け、煙に肺を痛めながら、月明かりに沈む離島の寂れた家並を眺め続ける。サルファンの窮迫など素知らぬ顔で寝静まっている世界に、苛立ちが募る。幾ら嘆いても、無辜の日々に帰れないのは承知しているが、それにしたってこの世界は、余りにも冷淡に、平穏な寝顔を晒し過ぎていないか。

 狭苦しい客室に閉じ籠もって、鬱ぎ込む自分自身との対話を重ね続けるのは、息の詰まる時間であった。潮騒に導かれるように扉の把手を掴み、寝台に横たわるイスナの艶の失せた髪を見遣る。彼女の想いに、俺は無神経過ぎたかも知れない。辛いのは彼女も同じだ。住み慣れた世界との絆を不意に断ち切られて、何を支えに生きていけばいいか分からなくて混乱しているのは、俺だけじゃない。そう考えると、一層胸が苦しくなった。扉を開け放って廊下に出る。帳場には人気がなく、古びた油燈の光も消えて、常闇が黒々と蟠っている。閂を外して表へ出ると、豊かな潮の香りが鼻を衝き、月光が暗い海原へ蛍火のように儚く散っていた。

 宿の周りに作られた花壇には、夏の強烈な陽光を好み、磯の香りを浴びて華やかに咲き乱れるハマギリが重い花弁を垂らして、夜風に揺られていた。茄子紺色や芥子色、萌黄色や薄紅色など、品種によって色彩を変える花弁も、月明かりの下では何れも平板な表情に見える。

 花壇を囲う低い石塀に腰掛けて、背を屈めて頬杖をつく。鉛色の三日月が行く手に高く昇り、その真下に一条の銀流しのような淡い光の帯を形作っている。

「眠れないのかい」

 不意に聞こえた声音に驚いて、サルファンは凍りついたように身を縮めた。振り向くと、ガーシュを銜えたエトルースが不精髭を摩りながら、戸口の前に佇んでいた。

「暢気に高鼾という訳にもいかないだろうな。こんな境遇じゃ」

 傍らへ腰を下ろし、サルファンと同じように視線を海原へ向ける。月明かりに照らされて、頬の古傷が蒼白く浮き上がって見える。

「その傷、随分と年季が入ってるな」

 油長のクルスコの首筋や腕にも、引き攣れたような土色の古傷が残っていたのを覚えている。気の荒い料理人であったクルスコのことだから、同じく気の荒い船乗りの客たちと喧嘩でもしたのであろうと思い込んでいたが、今はそれが軍役に就いていた頃の名残だと知っている。二十年前の苛烈な内乱に従軍して、全くの無傷でいられる筈もない。餓鬼がすっころんで膝頭を擦り剥くのと似たようなもんさとクルスコは笑っていた。そのときは、それが最後の会話になるとは思いも寄らなかったが。

「二十年前の古傷さ。カゲイロンの禿げ頭にも、でっかい火傷の痕が残ってる」

「あんたも軍人だったのか」

「あれから二十年しか経ってないんだ。それなりに健康な男だったら皆、戦争に駆り出されて傷の一つや二つは作ってるさ。死んだ奴も大勢いる」

 イシュマールにも、手足を失った退役軍人は少なからず暮らしていたが、直接に関わり合う機会は殆ど皆無であった。ラシルドもクルスコも、軍人であった過去に就いては堅く口を閉ざしていたし、その秘められた暗闇を態々掘り返すほど、サルファンの側には知識も関心も備わっていなかった。

「当時の俺は、東部水兵隊の一員だった。クルスコとも顔見知りだ」

 思いも寄らぬ発言に、サルファンは腰を浮かしてエトルースの赤銅色に灼けた顔を見凝めた。

「何で黙っていたんだ」

「黙っていた? 別に隠し立てしてた訳じゃない。話す必要もなかったからな」

「俺がカゲイロンと喧嘩したときも、あんたは何も言わなかった。助け船も出してくれなかった」

「甘えるなよ。何で俺が嘴を突き入れる必要があるんだ。クルスコが死んだのは、確かに哀しむべきことだが、遺された者が騒ぎ立てたって棺の蓋が勝手に開く訳じゃない」

 沈着な口吻に振り上げた拳を圧し折られるような思いで、サルファンは花壇の縁に再び座り込んだ。クルスコの知り合い、しかも嘗ての戦友と、こんな形で言葉を交わす日が訪れるとは考えたこともなかった。そもそも、あのクルスコが警務官に囚われ殺される宿命を背負って生まれたということ自体、未だに受け容れ難い現実として喉の奥に滞っているのだ。

「何故、助けてやらなかったんだ」

「俺の役目は逃げ出す為の船を準備することだった。役割分担の違いという訳さ」

「クルスコが連行されたことは、知ってたんだろう」

「知っていたって、行動は変わらなかった。俺もカゲイロンも、飽く迄ラシルドに用事があってイシュマールに足を運んだんだ。クルスコがどうなろうと、俺の知ったことじゃない」

「昔の戦友なんだろ」

「ふん。直ぐにむかっ腹を立てるのは止せ。大体、俺の胸中をお前みたいな青二才に弄られる筋合いはない」

 青筋を立てかけたサルファンの横面を引っ叩くように、エトルースは手早く釘を刺した。少年の無垢な純情に懐かしさと憧れを微塵も感じない訳ではないが、そんな感傷に浸かっていられるほど恵まれた境遇ではない。明日をも知れぬ不確かな道程を爪先立ちで歩いているのに、旧友というだけでその生死の責任を問われるのは、過度に酷薄な要望であろう。

「彼奴は戦争を嫌っていたが、戦争の意義さえも無条件に疑っていた訳じゃない」

 言葉を選んで、咬んで含めるように紡ぎ出す。仲間を殺され、熱り立っている少年の心に冷水を浴びせるのは褒められた趣味ではないが、何時までも「無垢な純情」に固執されては足手纏いだ。

「命の遣り取りが、どんな結果を齎そうとも、彼奴は自分に課せられた宿命から逃れようとする男じゃない。今回のことも、黙って受け容れた筈だ」

「黙って受け容れるのが正しいみたいに言うなよ」

 迫り上がる激情をせめて暴発しないように抑えつけながら、サルファンは暗い声で反駁した。戦争の意義? そんな小難しい理窟を持ち出せば、平穏な日常を打ち砕く暴力さえも肯定されると強弁するのか?

「正しい、か。客観的な正しさなんてものに縋るのは止した方がいいな、坊主」

「うるせえな。坊主呼ばわりは止めろ」

「少しは背伸びしてみたらどうだ。大人の猿真似に過ぎなくても、襁褓を穿いたままよりは余程マシだ」

 客観的な正しさ。普遍的な正しさ。そんな空々しい御題目を口ずさんで戦場を渡り歩くのは、純情を通り越して驕慢に過ぎる。現に二十年前、終戦と共に絶対的な信仰を集めて樹立された「春影帝の正義」は、こんなにも早く朽ち果て、根腐れに喘いでいるではないか。戦争それ自体の正しさを問うのは、馬鹿げている。少なくとも、最早穏便な話し合いで片付けられるほど、両者の疎隔は生易しいものではないのだ。

「眠れなくても布団に入れ。良き習慣は、良き精神を育む」

 立ち上がってガーシュの火を踏み消し、戸口の把手に手を伸ばしながら、皮肉っぽく言い捨てる。この少年は既に人を殺している。その拭い難い事実が齎す重苦しい刻印に抗って、ずっと平穏な生活への恋着を口走り続けることが出来るかどうか。我ながら悪趣味な性格だと自嘲しつつ、扉を開け放った瞬間、背後から鋭い声が響いた。

「もう、俺たちは元の世界には戻れないのか」

 エトルースは黙って振り向いた。睫毛を涙の粒が濡らすように、哀切な慨嘆が少年の声音を縁取っている。思わず奥歯を咬み締めて同情を押し殺してから、エトルースは努めて平静に言い放った。

「少なくとも、同じ道を引き返すことは出来ないな。新しい道を、探すだけだ」

 それだけ告げて扉を閉て切る。路傍に取り残された少年は目映い月明かりの下で、頽れるように膝を屈して啜り泣いた。