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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 3

創作「刃皇紀」

 翌朝、窓から射し込む光に瞼を叩かれて目を覚ますと、隣で眠っていたイスナの姿が消えていた。ぼんやりと霞む意識を引き摺って上体を起こし、卓子へ抛り出しておいたガーシュを掴んで銜える。散歩にでも出掛けたのだろうか。自然の神秘に恵まれた片田舎の孤島ゆえに、明け方の海辺の眺望は嘸かし絶景であるに違いない。

「寝不足か?」

 階下に降りると、食卓に着いて黒豆茶を啜っていたカゲイロンが揶揄するように言った。エトルースとの遣り取りで堰を切ったように濫れ出した涙を鎮めるのに手間取り、寝台へ身を潜り込ませた後もなかなか寝付けなかったことは事実だ。だが、詳しい経緯を話す気にはなれず、サルファンは無言で椅子に腰を下ろした。帳場の向こうでは、頬杖をついた老婆がだらしなく大口を開けて暢気に転寝を決め込んでいる。

「イスナは?」

 円卓にコントラ湾の海図を広げて、何やら熱心に書き込んでいたエトルースが、顔を上げた。昨夜の諍いのことなど、綺麗さっぱり忘れ去ってしまったような表情である。

「風呂だ。入りたければ、お前も入れ」

「俺はいいよ」

「何だ、喧嘩でもしたのか」

 灰皿の底でガーシュを揉み消しながら、カゲイロンが意地の悪い笑みを浮かべた。

「うるさいな。放っといてくれ」

「言われなくとも放っておくさ。安心しろ。餓鬼の飯事みたいな恋愛の仲裁に、俺みたいな厳つい爺が割って入る隙間はねえ」

「心得てるじゃないか。安心したぞ」

 海図にペンを走らせながら、エトルースが低い声で呟くのを、カゲイロンは聞き逃さなかった。

「何だよ、エトルース。他人事みたいな口の利き方だが、お前だって若い連中の悩みに安易に口を出すのは控えておいた方がいいぜ」

「説教されなくたって、分かっているさ」

「どうかね。昨夜のお前はちょっと世話焼きが過ぎたんじゃないか」

 意地の悪いカゲイロンの横目を睨み返して、エトルースは忌々しげにペンを投げ出した。

「世話焼きは御互い様さ。それより、何時までハーディラー島で蜷局を巻いてる積りだ? 一刻も早く出発しないと、警事官だって馬鹿じゃない。イシュマールの港に浮かんでいた怪しい小舟の証言を拾い集めて追い掛けて来るぞ」

「こいつの女が風呂から上がったら、直ぐに発つさ。そんなに熱り立つな」

 腕組みして天井を仰ぎ、小声で何かぶつぶつと呟き始めたエトルースの横顔を盗み見ながら、サルファンは静かに息を吐いた。二十年前の戦争の残響に尻を叩かれて、終わりの見えない旅路を続けなければならない己の境遇が恨めしい。

「次の目的地は、ヴェロヌスに決めた」

 不意に発せられたカゲイロンの言葉に、サルファンは訳も分からず顔を上げた。

「ヴェロヌス?」

「そうだ。ヴェロヌスなら、少しは安全だろう。あそこはヴェロナ公家の牙城だからな」

 タイリン平原の南方、大陸からコントラ湾に向かって鍬のように突き出したヴェロナ半島の、舳先の部分に位置する古都ヴェロヌスは、キグナシアと並び称される帝国有数の呪工業の中心地である。大昔には、ヴェロナ公家が統治するヴェロヌス公国の首府として栄え、コントラ湾における貿易の拠点として発達を遂げてきた。緑邦帝の長男である青雁帝シオルダ・グリイスの親征に敗れて帝国の軍門に降ったが、キグナシアとの間に締結されたアレス協定の顰に倣い、ゼホータ協定の調印が行われた結果、ヴェロナ公家の自治権は現代に至るまで存続している。

「聞こえは悪いが、ヴェロナの公族連中は揃いも揃ってガチガチの石頭だ。雷声帝の暴政に逆らって、二十年前の戦争でも散々暴れ回った。その精神は今も息絶えちゃいねえ。黒狗に追われてる哀れな罪人を引っ立てて、官憲に売り渡すような卑劣な真似は好まねえさ」

 キグナシア、ヴェロヌス、ヴォルト・アクシアなど、国内の主要な都市には、皇帝から自治権を承認された「公家」が根を下ろしている。多くは帝国に併呑される以前、その土地の王侯であった家門の末裔であり、現在でも高貴なる権門として世の崇敬を集めている。別けても、クヴォール帝国の王家の後裔であるヴォルト・アクシアのセイディン公家、アレス盆地に屋敷を構えるキグナス公家、そしてヴェロナ半島の港町に君臨するヴェロヌス公家は「三公家」と総称され、公族の中でも別格の待遇を受ける名流である。

「二十年前の戦争でヴェロヌスは、セファド・グリイス閣下の陣営に就いた。つまり、俺やラシルドが所属していた殉国隊とは、戦友って訳さ」

「昔の誼で、匿ってもらえる可能性が高いってことか?」

「そう巧く事が運ぶか分かんねえけどな。勝てる見込みのない博打って訳じゃねえ」

 唇を歪めて意味深に笑うカゲイロンの双眸には、控えめな見立てとは裏腹の不敵な確信が煮え滾っていた。

「戦時中、当主のジルヴェルは、自ら兵隊を引き連れて屍体の転がる戦場を駆け回り、官兵と斬り合いを演じるほどの猛将だった。後に春影帝がその功績を讃えて、公族合議会の議事頭を世襲する権利を、彼奴に与えたほどだ。それ以来、公家の政治力は右肩上がりさ。ヴェロナの公主様の御威光の前じゃ、腹黒い警事官も血に飢えた黒衣隊士も、大っぴらに肩で風を切って練り歩くって訳にはいかねえさ」

 難しいことは分からないが、図らずも警務官殺しの犯人に成り果てた自分を、庇護してくれるかも知れない人間が存在するという事実には、追い詰められたサルファンの不安を鎮撫する効果が備わっていた。

「ジルヴェルの娘に手を出して公兵に斬り殺されかかった奴の発言とは思えんな」

 腕組みしたまま、冷淡な眼光を閃かせて、エトルースが薄笑いを浮かべた。

「ラシルドが掛け合って事無きを得たとかいう話じゃないか。東部水兵隊でも、飛んでもない色事師を部下に抱えて大変だと、ラシルドを憐れむ連中が一杯いたぜ」

「よく助かりましたね」

 湯上がりの火照った洗い髪を布巾で拭いながら、イスナが眼を丸くして言った。その眼差しには、幾許の蔑みが滲んでいるように見える。

「シュアラの話を此処で持ち出さなくたっていいだろ。彼奴ももう、キグナシアへ嫁いだ身だ。余計な噂話はキグナス公家にも迷惑を掛ける」

「柄にもなく殊勝なことを言うのは止せ。蕁麻疹が出そうだ」

 追い討ちの手を緩めないエトルースの厭味な性格に、サルファンとイスナは思わず声を立てて笑ってしまった。

 

 藻の浮いた桟橋が、朝陽に照り映える浅瀬に伸びている。港の傍の小さな食堂で、一行はヴェロヌス行きの定期便が出ているかどうかを訊ねた。

「この島からは出てないですねえ」

 太った女の給仕は、洗い物に濡れた手を前掛けで拭いながら、困ったように言った。

「何しろ、取り柄のない、離れ小島だからねえ。定期便を走らせたって、儲からないわ」

「此処へ来るのに使った船で行けばいいじゃないか」

 サルファンの提案は、エトルースに一蹴された。

「ヴェロヌスまでは距離が長いし、沖合に出れば波も荒い。あの船では転覆してしまう」

「もっと頑丈な船が要るな」

 カゲイロンは再び給仕に訊ねた。

「この島の漁師で、ヴェロヌスまで行けるような船を持ってる奴はいねえか」

「此処の漁師は、沿岸でしか仕事をしないから、そんな立派な船は持ってないねえ」

「一人も?」

 カゲイロンが問い詰めると、給仕は厨房に声を掛けた。

「オルビセン! あんたの知り合いで、ヴェロヌスまで行けるような頑丈な船を持ってる人は、誰かいるかい」

「ヴェロヌスまで?」

 給仕と同じく、牛のように肥えた男の料理人が、太鼓腹を揺すって厨房から出てきた。

「この島は、御覧の通り寂れておりまして、村の人間は皆、艀で漁に出ております」

「他の島へ渡ることはねえのか」

「自給自足の慎ましい暮らしで、特段困ることもありませんので。どうしても入用なものがあれば、月に一度、御役人が官船で届けて下さいます」

「そうだ、あんた。官船に便乗させてもらえばいいじゃないの」

 給仕が大袈裟に手を叩いて、自分の思いつきに躁ぐように言った。

「生憎、役人とは、仲が悪いもんでね」

「あら、そうなの」

 給仕の視線がちらりと、カゲイロンの佩刀を掠めた。好奇心と恐懼が綯い交ぜになった瞳を、彼は敢えて黙殺する。老婆の言っていた通り、この島で呪刀士を見掛けることは、皆無に等しいのであろう。

「戦争中は、軍隊の船が引切り無しに出入りしたものですが、すっかり平和になりましたからなあ」

「おんぼろの軍船でも、どっかに残ってねえのか」

 陽炎のような希望に縋る積りで口走ると、オルビセンの瞳に明るい光が瞬いた。

「そう言えば、旦那。この近くに、木蘭亭という宿屋があるんですけれども」

「木蘭亭なら、昨夜泊まったところだ。ガーシュ臭い婆さんが切り盛りしてる宿屋だろ」

「その宿屋の婆さんが、この島の入り江に古い呪鉱船を隠し持っているという噂を昔、聞いた覚えがあります。若しかしたら、その呪鉱船を使って、ヴェロヌスまで行くことが出来るかもしれません」

「あの貧相な婆さんが、何で呪鉱船なんか持ってんだ?」

「婆さんの死んだ亭主が、生前は海賊だったという話を耳にしたことがあります。戦時中は、義勇軍に味方して、帝国の艦隊と熾烈な戦いを繰り広げたとか」

「引退した東部水兵隊の船乗りが、この島に暮らしていたって訳か」

 海神と畏れられたグリーフが創設し、帝国義勇軍の一翼を担って目覚ましい戦果を上げた東部水兵隊には、市井の漁民が大勢参加していた。戦争が終わり、兵役を退いた船乗りが、傷ついた軍船を形見として遺すのは、然して奇異な話ではない。

「口を割りそうにもねえ婆だったが、他に手立てもねえ。掛け合ってみるか」

「荒事は止せよ」

「分かってるさ。俺だって大人になったんだ」

 今頃大人になるようじゃ遅いんだよと呟くエトルースの不満げな顔を無視して、カゲイロンは食堂の暖簾を颯爽と潜り抜けた。