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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 4

創作「刃皇紀」

 木蘭亭の胡桃色に汚れた雨曝しの引き戸を開け放つと、退屈そうにガーシュを燻らしていた老婆の瞳が、狡賢い鼠のように此方を一瞥した。弛んだ瞼が緞帳のように黒眼へ被さっている。相変わらず、客の気配はしない。

「忘れ物かい」

「あんたに訊きたいことがあって戻って来たんだ」

「こんな老い耄れに、何を訊きたいって言うんだい」

「呪鉱船の話さ」

 老婆は唇を窄めて、細長い煙を虚空へ吐いた。脂の抜けた乾いた唇が、枯葉のような笑みを滲ませる。

「何処でその噂を仕入れたのか知らないけどさ、嘘っぱちだね」

「俺たちは船が欲しい。ヴェロヌスまで、行かなきゃならねえんだ」

「イシュマールまで行けば定期便が出てるだろ。態々、こんな辺鄙な島で船を仕立てることはない」

「俺たちは、警事局の連中に追われてる」

 カゲイロンの捨て鉢な告白に、老婆は眼を細めて動きを止めた。

「何だ、堅気じゃないなと思ってたら、やっぱり咎人かい。何を仕出かしたのか知らないけどね、犯罪の片棒を担がされるのは御免だよ。悠々たる余生の最中なんだ」

 僅かな食い扶持を稼ぐ役にも立っていない木賃宿で、朝から晩まで店番をしている老婆の余生に、サルファンは暗澹たる気分を誘われた。将来、イスナがこんな風に皺の寄ったガーシュ臭い年寄りに成り果てても、自分は変わらず愛せるであろうか。いや、そもそもイスナはガーシュの臭いが嫌いだから、古びた香木のような晩年など絶対に選ばないに違いない。

「悠々たる余生を過ごしておられるのは百も承知なんだけどな」

 獲物を捉えた梟のように瞳を炯々と燃え立たせて、カゲイロンは食い下がった。

「イシュマールから這々の体で逃げ出して来た身なんだ。今更、定期船の切符を買いに戻れなんて、酷なことを言うのは止してくれねえか」

「あたしにゃ関係のない話だね。根も葉もない噂に踊らされるのも大概にしときな」

「昔はこの島にも、軍船が沢山出入りしてたんだろ」

 二十年前に御払い箱となった軍船が使い物になるかどうかは怪しいところだが、あの小舟でヴェロナ半島まで泳ぎ切ろうとするのは危険が大き過ぎる。公家の屋敷へ辿り着く前に海の藻屑と化しては元も子もない。

「しつこい男だね。人に物を頼む態度じゃないよ」

「命懸けの旅路なんだ。無理にでも、船を貸してもらわなきゃならねえ」

「一体、何を仕出かしたんだい」

 探るように向けられた眼差しには、欠片ほどの物怖じすら読み取れない。単なる田舎の老婆にしては、肝が据わり過ぎている。海賊の後家という噂が真実なら、素性を明かしても直ちに官船へ突き出される心配はないであろう。カゲイロンは意を決して口を開いた。

「強いて言うなら、二十年前、雷声帝の首を刎ねた」

「何だって?」

 眼を見開いた老女の指先から、ガーシュが音もなく転がり落ちた。勘定台の木目に黒い焦げ目が記されても、拾い上げることを忘れて茫然と息を呑んでいる。

「あんた、殉国隊の残党かい」

「そんなに驚くようなことか」

「そりゃあ驚くさ。あたしの亭主は戦時中、帝国義勇軍の一員として、艦隊を率いてたんだよ。あんたも殉国隊の生き残りなら、東部水兵隊のグリーフの名前ぐらい、耳にしたことがあるだろう?」

「『海神』グリーフか?」

 嘗て東部水兵隊に属し、腕利きの航法士として洋上の戦地を駆け巡った経験を有するエトルースが、素っ頓狂な声を上げた。

「そうさ。『海神』があたしの亭主だったのさ。六年前に、肺の病気で死んじまったがね。若い頃の無理が祟ったんだ」

 海神グリーフ。辺境の海賊から身を起こし、帝国義勇軍の英雄にまで昇り詰めた男。その名声に惹かれ、瞬く間に大所帯と化した水兵隊は、閣派の勝利に大きく貢献した。末端の船乗りに過ぎなかったエトルースは、伝説の水兵長と親しく接する機会を遂に持ち得なかったが、敬愛と憧憬は今でも衰えていない。

「あんたも、水兵隊の生き残りかい」

 落としたガーシュを摘んで銜えながら、老婆は懐かしむように言ってエトルースの顔を一瞥した。

「亭主が世話になったね」

「グリーフの嫁ってことは、あんた、まさか」

「こんな辺鄙な島で、義勇軍の生き残りに今更巡り逢うとは思ってなかったよ。功績を上げた連中は皆、偉くなったんだろ。亭主にも何度か帝都から使いが来て、軍務庁海戦院の院司にならないかとか、錬兵校の教官長にならないかとか、色々と誘いがあったけどねえ。全部蹴っちまった。海賊が役人に伸し上がるなんて、筋が通らねえの一点張りさ。御蔭で手厚い退務官年金に有りつくことも出来やしない。全く融通の利かない、馬鹿な男だよ」

 滔々と語る老婆の瞳に、堆積する時間の彼方へ置き去りにされた日々の記憶が残像を投じていた。東部水兵隊のグリーフ。神格化された英雄の名声。総てが色褪せてしまった今でも、あの精悍な横顔は克明に思い返すことが出来る。

「呪鉱船なら噂通り、山の向こうの入り江に隠してあるよ。亭主の形見さ。誰にも見せたくなかったけど、義勇軍の残党に力を貸さなかったと、死んだグリーフが聞いたら、あたしを許さないだろ」

「助かるぜ」

 鄭重に葬られた死者の棺を無遠慮に掘り起こすような後味の悪さを、カゲイロンは静かに呑み込んだ。感傷に足許を掬われている場合ではない。如何なる手段を講じてでも、黒衣隊の追撃を振り切らねばならないのだ。

「それにしても、戦争が終わってから二十年も経つっていうのに、殉国隊の英雄が警事官に追い回されるなんて、奇怪な話だねえ。誰の陰謀なんだい」

「あんたには関係のねえ話だ。深入りしない方がいいぜ」

 カゲイロンの素気ない返答に、老婆は椅子の背に反り返って傲然と鼻を鳴らした。

「船を貸してもらう立場のくせして、随分な言種じゃないか。全く失礼な男だよ。あたしを誰だと思ってるんだい?」

「グリーフの嫁だろ」

 老婆は呆れ果てたように溜息を吐いた。

「あんた、『海神』グリーフが誰を自分の嫁に選んだのか、知らないのかい」

「悪いが、知らねえな」

「春影帝の姉貴だよ」

「は?」

「聴こえないのかい」

 老女は底意地の悪い笑みを口許に這わせて、人差し指を立てた。

「春影帝の姉貴さ。あたしは、メイシヴィ・グリイス。雷声帝も春影帝も、あたしの可愛い弟たちだよ」

 

 昼の燦然たる光が、葉叢の映り込んだ水面へ飛蝗のように跳ねている。入り江を囲む岸辺は青々とした草木に覆われ、鳥の囀りや虫の囁きは片時も途切れない。風に乗って運ばれる穏やかな潮騒に耳を傾けながら、イスナは大きく伸びをした。

「綺麗なところね。御婆さんの、お気に入りの場所なの?」

「亭主の墓さ。道が悪くて、なかなか御参りも億劫だけどね」

 曲がった腰を叩いてみせながら、老婆は杖を持ち上げた。

「あれが見えるかい?」

 老婆の指差す先に、一同の視線が集まる。入り江の最も奥まった場所に、暗い洞窟の入口が寒々しい常闇を湛えているのが見えた。

「あそこに呪鉱船を繋いである。裏側から、洞窟に続く抜け道に入れるんだよ」

「グリーフが隠したのか?」

「この島へ来たときにね」

 老婆は齢に似合わぬ力強い足取りで、鬱蒼たる樹林に分け入った。伸び切った枝葉に紛れて、砂利と丸太で均した小径が続いている。時折、小さな獣が行く手を遮り、その度に老婆の杖が唸って、彼らを邪険に追い散らした。

「あんなに海が好きだった男が、この島へ越してからは、一度も船に乗ろうとしなかった。気が向くと、この入り江に来て、釣り糸を垂れるくらいで、後は畑仕事やら、狩人の真似事やら、何だか魂が抜けちまったみたいだったよ。やっぱり、戦争は人を変えちまうんだね」

 戦争。それはイスナの知らない世界であった。兎に角、沢山の人が死んでいくということ以上に、分かることは何もない。然し二十年前、この国を揺るがした内乱の記憶は、今も様々な土地、様々な人の心の中に根深く息衝いている。同じ国に生まれ育った人間として、本当はきっと何も知らないでは済まされない筈だ。

(どうすれば、分かってあげられるんだろう)

 足許の不確かな小径を行きながら、曲がった老婆の背中を見凝めるうちに、死んだ母親の想い出が脳裡を過った。十二年前の残虐な津波の悲劇は、既に切れ切れの記憶でしかない。それでも、闇のような感情に総身を攫われそうになる夜もある。自分でさえそうなのだから、この老婆はもっと多くの陰惨な記憶に苛まれ、苦しめられているに違いなかった。墓参りが億劫なのは恐らく、弱った足腰だけが理由ではあるまい。

「この墓標が、目印さ」

 樹林が途切れ、聳え立つ岩壁が視界を圧した。その一角に、洞々たる闇を孕んだ洞穴が口を開けている。傍らには小さな石碑が建ち、手向けられた酒壜が木洩れ陽を浴びて鈍色に光っていた。

「洞穴は幾つもあるが、船着き場へ通じるのは、この入り口だけさ」

 老婆は墓碑の前に屈み込み、掌を重ね合わせて祈るように眼を閉じた。海神グリーフの死から始まった、六年間の重苦しい孤独。唯でさえ哀切な記憶を背負っているというのに、時間の流れは冷酷だ。老婆の傾らかな肩に、更なる寂寞を積み上げていくのだから。

「何を祈ってるの」

 我ながら愚にもつかない質問だと悔やんだが、紡ぎ出した言葉を取り消す術はない。仕方なく、イスナは唇を咬んで老婆の縮れた白髪に視線を落とした。

「うちの旦那は人殺しだった」

 振り返らずに墓碑へ向けて跪いたまま、老婆は訥々と呟いた。

「平和の為だろうと何だろうと、殺しは殺しさ。神帝様は、何と仰るだろうね」

 緑邦帝国の国教であるターラー正教会は、死者の魂魄が赴く先として「天宮」と「冥宮」の二つを定めている。善徳を積んだ人間は神属(神々の同胞)として天宮へ転生し、悪行を重ねた人間は咎人として冥宮へ幽閉される決まりである。

「死後の世界なんて、大して信じてる訳でもないけどね」

 気不味さに何も言えなくなっている若い娘の困惑を察して、老婆は穏和な笑みを浮かべてみせた。

「冥宮へ堕ちても、酷い目に遭わされないようにと神様へ祈ってるのさ。死に別れても、こんな風に皺くちゃになっちまった後でも、嫁は嫁だからね」