サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 5

「気を付けるんだよ。足許は滑り易いし、尖った岩が天井から突き出してるからね」

 老婆の翳す古びた啌気燈の光が、湿っぽい洞穴を灰色に染める。林の小径よりも更に不安定な足場に苦労しながら、一行は少しずつ闇を掻き分けて慎重に進んだ。暗い洞窟の奥には潮騒も届かないが、流れ込む水音は絶えず鼓膜を濡らし続けた。

「大昔は、きっと此処も船乗りが使っていたんだろうね」

 杖に頼りながら、深い闇を繊弱な燈光で押し退けて歩く老婆の足取りは、不思議と確かなものであった。

「それこそ、ボルゼエレやクヴォールの時代から、コントラ湾の海は、色んな連中の縄張りが鬩ぎ合う境界線だった。漁師の形をした兵隊が、彼方此方の島に、塒を拵えてきたのさ。此処も、その名残の一つだよ」

 バルフェル地峡の西方に広がるコントラ湾は、様々な民族の交差する海上の要衝であり、波濤の合間に散らばる夥しい数の島嶼は、漁師や海賊たちの塒として重用されてきた。嵐を避けるのに適した入り江には必ず船着き場の機構が設けられ、産道のような洞穴が船乗りたちを劇しい荒波や急な雷雨から優しく庇護した。その伝統は今も受け継がれているが、戦争が終わって多くの水兵が退役してからは、抛棄された設備も少なくない。

 時折、苔生した岩場に蹠を滑らせ、倒れ込みそうになるのを辛うじて堪えながら、イスナはじりじりと躙るように歩を進めた。薄暗い洞穴の一面に、磯の香りをたっぷりと含んだ冷気が漲っている。内海に浮かぶ静謐な離島に穿たれた天然の隠れ処に、嘗てはどんな人々が暮らしていたのであろうか。港湾都市イシュマールに生まれ育ち、沖仲仕や水夫で賑わう街並に親しんできた彼女にとっても、普段は離島の洞穴へ船を繋ぎ、有事となれば勇んで沖合へ漕ぎ出していく水兵たちの姿を克明に想い描くのは困難であった。イシュマール港へ稀に停泊する軍艦の船員も厳めしい軍服を纏って異彩を放っていたが、その風体から生々しい「戦争」の臭いを嗅ぎ取るまでには至らなかった。

(戦争は、終わってなかったってことなのかな)

 誰もが口々に二十年前の因縁を宿業のように語り、古びた記憶を鮮烈な現実として生き抜いているように見える。この老婆も、侘しい離島の暮らしを送りながら、心は常に戦場へ立つ亡夫の残影を追い掛けているのかも知れない。それは苦痛に満ちた歳月であろうか。或いは、それさえ生きる糧に換えられるほど、深い愛情で結ばれていたのであろうか。

「そろそろだよ。もうちょっとの辛抱だ」

 冷気と暗闇に覆われた空間だというのに、滴り落ちる汗を拭うのが煩わしいほど疲労が蓄積した頃になって漸く、行く手に小さな光点が浮かび上がった。

「表から、筏で回った方が手っ取り早いんじゃねえのか」

 岩屋の天井から垂れ下がった石筍に、禿げ上がった頭を打ち付けたカゲイロンが、恨みがましい口調で言うのを、老婆は鼻で笑って一蹴した。

「贅沢を言うんじゃない。此処は海神の塒だよ。墓参りもしないで入ったら祟られるよ」

「案外、迷信深い婆さんだな。あんたの亭主は冥宮の監獄で博打でも打ってるだろうさ」

「本当に失礼な男だね。迷信深いんじゃないよ、義理堅いと言っておくれ」

 憎まれ口を叩き合いながら、胸を咬む懐かしさに、老婆は思わず眼を細めた。グリーフも、洋上の兵隊らしく乱暴な物言いが常で、時には勢い余って手を上げることもあった。負けずに殴り返そうとすると、不意に目が覚めたように、自分の蛮行を恥じて素直に詫びてくる。悪かったよ。大事な御姫様を打ん殴るなんて、どうかしてたぜ。

 雪輝帝コルダウ・グリイスの長女として王宮に生を受け、あらゆる不自由を排され、贅沢な食事、華美な衣服、優雅な寝台、行き届いた躾に囲まれて暮らした日々も、今ではまるで擦り切れ、色褪せた古い絵画のように頼りない追憶の対象でしかない。実母が肺病を患って亡くなった途端、継母から彼是と冷酷な仕打ちを受け、根も葉もない讒謗を重ねられて、二十歳の彼女は止む無く出奔を決意した。幼い頃にはただ美しいとだけ思っていた宮廷の世界が、実際にはどす黒い情熱の吹き溜まりであり、様々な策謀に歪められた剣呑な舞台であることを、大人になった彼女は揺るぎない真実として悟ったのである。王族の証である詔印を返納したとき、父親である皇帝は哀しい顔で、考えを改めないかと言った。トメイカには、皇がよく言い含めるから、と。然し、父の置かれている困難な立場を知らない訳ではなかった彼女は、その思い遣りに甘んじることを嫌がった。私の暮らす場所は、もうこの王宮には、遺されておりません。二人の男児を儲け、世子の母として帝政の頂点に君臨しようと企む安彩后トメイカ・グリイスの権勢が、此れから薄れていく見込みは限りなく低い。気丈を通り越して驕慢な継母の扱いに父王が手を焼く姿も、既に見慣れていた。だったら、いっそ外の世界に出てみよう。高価な人形のように手厚く庇護されて育った自分に、民衆の住まう俗世は酷烈な曠野として立ち開かるかも知れない。それでも、構わないと思った。

 手先の器用な少女であったメイシヴィは、幼少の砌から絵画や彫刻などの手習いに熱心であった。継母に厭われ、王族の身分を自ら廃し、陋巷へ赴かんとする悲愴な覚悟を見兼ねて、ポレインという高名な絵師が彼女に救いの手を差し伸べた。宮務庁から帝室画師の御役目を委嘱され、王族の侍講にも当たっていた彼は、メイシヴィを自分の工房に雇い入れた。高貴な出自を投げ捨て、絵師の見習いとして寸暇を惜しんで働く日々に馴染むうち、彼女は宮廷育ちの繊弱な習慣を忘れ去り、貴人らしい迂遠な言い回しに代えて、粗野で直截な庶民の言葉を躊躇わず操るようになり、顔料の染みついた手が皸に苛まれても、苦痛より寧ろ、職人の矜りが勝るようになった。雛鳥が軈て天空を羽撃くことを学ぶように、彼女は荒々しい現実を泳ぎ回る術を身に着けていった。

 磨き抜いた技倆を認められ、師父から印可を授かった矢先に雪輝帝が崩御し、異母弟のアイルレイズが登極した。二十四歳の若く雄々しい新帝は、文治を重んじた先帝の遺訓に叛旗を翻し、ケムネーク神領の異教徒討伐を名分として兵を挙げた。その長征が、華々しい戦果よりも夥しい損失を目立たせて終息したにも拘らず、雷声帝の武断的な方針が革まる兆しはなかった。芸術に造詣の深かった雪輝帝は、ポレインの他にも数多の職工を召し抱えて、彼らの生み出す多彩な美を愛でることに熱心であったが、泰平よりも乱世を好む覇王は、軍備に回すべき金を画家の食い扶持に充てるのは「奢侈」であると、宮務庁の係官を難詰し、帝室画師の馘首に乗り出した。

 雪輝帝に寵愛され、単なる絵描きの身分を越えて王族から様々な相談事を受けていたポレインに、若き独裁者は好意を持っていなかった。技芸の手腕を梃子に、国政に容喙する狡猾な帝室画師という歪んだ肖像を信じた雷声帝は、ポレインを宮廷から放逐するだけでは飽き足らず、オルダーリ内郭区の工房を閉鎖するように厳命した。その理不尽な詔命に納得出来ず、雷声帝を揶揄する風刺画を描いて抵抗したことが、ポレインの運命を決した。帝都治安本部黒衣隊の刺客が、闇夜に紛れて工房に火を放ち、高名な帝室画師の喉笛に鋭利な刃を突き立てたのだ。数多の弟子たちは散り散りとなり、工房は滅び去った。

 嫌な噂が飛び交った。雷声帝がポレインに過剰な憎悪を向けたのは、その愛弟子であるメイシヴィの存在を疎んじた為である。腹違いの姉が先々、己の覇道を妨げる障礙となることを懼れ、その庇護者である帝室画師を抹殺したのだ、と。揚句の果てには口さがない一部の連中が、二人の絆を、師弟の域に留まらぬ淫猥なものであったと疑い始める始末であった。

 幾ら抗弁しても、誰も耳を貸してくれない孤独の渦中に彼女は沈み込んだ。有力な弟子たちは都落ちの末に、ヴォルト・アクシアやキグナシアへ流れ着き、彼の地を治める公族たちの屋敷へ潜り込んで露命を繋いだが、嫌われ者のメイシヴィに手を差し伸べてくれる同輩は皆無であった。ティゴールに住まう王家の傍流エスペルディ公家を頼っていくことも考えたが、仮にあの不快な噂が真実であるとすれば、亡命先にも迷惑が掛かるであろう。進退窮まった彼女は素性を伏せ、路傍の絵描きとして放浪の日々に飛び込んだ。

 幸いにして彼女の腕前は衆に擢んでていた。盛り場の片隅に床几を置き、端金で肖像を描いてやると客を呼ぶと、そんな物好きな絵描きは他にいないから、物珍しさも手伝って案外旨みのある商売となった。様々な異郷の街を巡り、朝から日暮れまで絵筆を滑らせているうちに、少しずつ評判も広まった。時には地元の有力な庁務官から、本格的な肖像画の制作を依頼されることもあり、そういう幸運を掴んだときは優に一箇月、寝食の心配を忘れて仕事に打ち込む幸福を味わえた。

 闇の世界から思わぬ声が掛かることもあった。ヴィオルの頭目が、自分の誕生日に立派な肖像画を所望し、高い報酬も用意しているというのに、それなりに評判の絵描きたちは誰も陋巷の悪党どもと関わり合うのを嫌がって請け負ってくれない。そんなとき、路傍の画師たる彼女は一番の適任者であった。誠意を篭めて絵筆を揮うと彼らは大いに歓び、盛大な酒宴に招いて労ってくれた。そうやって人脈を広げていくうちに彼女はとうとう、コントラ湾を根城に暴れ回る札付きの海賊、グリーフと知り合ったのであった。

 

「此処が船着場さ」

 灯りに照らされた仄暗い水面に、巨大な陰翳が蟠っていた。入り江に面した洞穴の出口から外光が射し込み、蒼白い光の泡がきらきらと揺れている。岸辺の杭に結わえた纜は大人の胴回りほどもある太さで、闇に封じられた船影に続いていた。

「此れがグリーフの遺品か。随分と古びてるな」

「現役を退いて、もう長いんだ。持ち主は常世を離れちまったしね」

「ちゃんと動くんだろうな」

「文句があるなら、貸さなくたっていいんだよ。あんた、ちょっと手伝いな」

 老婆は杭の足許に啌気燈を置き、カゲイロンを壁面の窪みに招いた。二つに畳んだ長い梯子を抱え上げ、息を切らして岸辺まで運ぶ。真直ぐに伸ばして船縁へ立て掛けると、老婆は啌気燈をサルファンに手渡して言った。

「あんた、此れを持って、照らしておくれ」

 言われるがままに啌気燈を掲げると、その乏しい光を頼りに、老婆は齢に似合わぬ敏捷な身の熟しで軋む梯子に取りつき、するすると舷側まで昇り詰めた。

「さあ、おいで。時間がないんだろう」

 一行が順番に梯子へ縋りつくのを尻目に、老婆は操舵室へ向かった。入り江から射す光の泡沫が、懐かしい感覚を呼び覚ます。この船で、終の棲家となったハーディラー島へ辿り着いたのは、二十年近くも昔の晩夏の一日であった。互いに未だ若く、長い戦争から解き放たれた心は、安らぎと悲哀に引き裂かれていた。常勝と謳われ英雄視されたグリーフにも、悔恨すべき失策の記憶は幾つもあり、完璧な紀兵官たり得なかった己への憎悪は、平和な日常の水底に錘を抱いて沈んでいた。帝都から押し寄せる数え切れない仕官の誘いに彼が一度も頷かなかったのは、錘を結わえて葬った往時の光景が波間に浮き上がるのを懼れた為であろう。

「他に灯りはないのか。こんなに薄暗くちゃあ、船を動かしても直ぐに座礁しちまうだろ」

 何時の間にか操舵室へ現れたカゲイロンが、手持ちの啌気燈を揺らして、その儚い光に不満を漏らした。舵輪を掴んだ老婆は、肩を竦めて鼻を鳴らした。

「入り江の光だけで充分さ。素人じゃあるまいし、躰が覚えてるよ」

 船底から呪動機の口籠り声が轟き始めた。機関室へ向かったエトルースが、錆びついた旧式の機械を長い眠りから揺り起こしたのだ。

「案外、腕利きじゃないか、あのチンピラ漁師」

 計器の表示を確かめて、老婆は嬉しそうに口の端を撓めた。

「さあ、出発だ。船酔いしたら、海に向かって吐くんだよ。船の上で吐いたら八つ裂きにするからね。大事な旦那の形見なんだ」