サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第六章 海神の妻 6

 沖合に出た船は、黄ばんだ帆を広げ、吹き抜ける潮風を一杯に頬張った。仲間と呼び交わすウミナリツバメの甲高い鳴き声が、青天白日の海原へ響き渡る。

「此処からヴェロヌスまでどれくらい掛かる?」

 カゲイロンが訊ねると、老婆は舵輪を握り締めたまま、天窓を見上げた。

「風神様の御加護が見込めそうだね。不意の嵐にでも襲われない限り、日暮れまでには着けるだろうさ」

 ウミナリツバメが上機嫌に群れを成して飛んでいる間は、風神様が臍を曲げることはねえさ。あの鳥は風神様の化身だからな。生前のグリーフの口癖が耳許に甦る。エルナ島に祀られている神子エルレジュほどではないが、コントラ湾の船乗りたちは、順調な航海を助ける風神パルトラにも畏敬の念を寄せている。嘗ては小規模ながら、風神を祀ったパルトラ神宮がアナトラド島に置かれて巡礼の客で賑わったものだが、雷鳴戦争の混乱で破壊され、今は見る影もないという。

「何か手伝うことはありますか」

 怖々と申し出たイスナの顔を、メイシヴィは黙って一瞥した。老体に鞭打って、船の操舵を買って出た彼女を労わる積りなのであろう。

「特にないね。穏やかな航海になるだろうさ。あたしに任せて、船室で休んでりゃいい。陸へ上がったら、どうせ忙しくなるんだろう」

 老婆の返事を真に受けていいのかどうか量りかねて、助けを求めるようにイスナが此方を一瞥する。サルファンは無言で頷き、大人しく引き下がるべきだと目顔で告げた。今頃、機関室ではエトルースが古ぼけた呪動機の転寝に眼を光らせているに違いない。水兵隊の航法士として苛酷な戦場を生き延びた熟練の船員である彼とは異なり、コントラ湾に面した穏やかな港町で生まれ育ったサルファンには生憎、船乗りの真似事に血道を上げた経験がなかった。来る日も来る日も揚物屋の仕事に明け暮れてきた役立たずの素人が操舵室に居座っては、却って目障りであろう。

「邪魔しない方がいい。甲板へ風を浴びに行こうよ、イスナ」

 躊躇う手を握り締め、連れ立って甲板に出ると、帆柱の向こうに、船室へ通じる扉を見付けた。荒波に揉まれても砕け散らぬように、分厚い樫の板に金属の枠を嵌め込んで補強してある。上部に穿たれた円窓の縁は、青と白の模様で交互に塗り分けられ、船大工の遊び心を感じさせた。

「何だかワクワクするね」

 躁ぎ始めたイスナの横顔に、サルファンは密かに安堵を覚えた。高ぶる感情を抑えられず、彼女に無慈悲な態度で接してしまった昨夜の記憶が、喉に刺さった魚の小骨のように、執拗な悔恨を強いていたからだ。どうしていいか分からず、不安に苛まれているのは、自分だけじゃない。先行きの見えない現実に思い悩んでいるのは、彼女も同じだ。

 重たい扉を開け、幅の狭い木組みの階段を降り切ると、イスナは眼を見開いて感嘆の叫びを漏らした。

「扉が一杯あるよ! 開けてみてもいいかな」

「いいんじゃないか。誰もいないし」

 船室の廊下に沿って古めかしい扉が幾つも並んでいた。円窓の代わりに来訪を告げる為の金具がついていて、その一つ一つが異なった意匠を纏っている。重厚な軍艦が波頭を切り分けて突き進む図案の扉を試しに開けてみると、突き当たりの壁際の粗末な寝台が眼に入った。傍らの卓子には分厚い海図帳と、先端を針金のように尖らせたバッセルという製図用の筆が置かれている。恐る恐る忍び込んだイスナは、太い釘で床に打ち付けられた寝台へ歩み寄り、敷布に掌を押し当てた。草臥れて黄味を帯びた木綿の生地は、きちんと洗濯されて皺一つない。

「此れも、あの御婆ちゃんが洗ってるのかな」

「随分と几帳面な人だな」

「王族の人なんでしょう?」

「王族が宿屋を切り盛りするなんて聞いたことないけど」

「世の中には色んな人がいるのね」

 呟きながら、黒革の海図帳を静かに繙いてみる。黄ばんだ海図に書き込まれた無数の記号や線条はどれも暗号のように謎めいていて、世界の秘密を指し示す貴重な手懸りの如く輝いて見えた。一枚ずつ頁を捲りながら、イスナは見知らぬ海域の壮麗な風景を懸命に想像した。

「知らない海が、一杯あるのね。あたしはイシュマールの海しか知らないのに」

「世界は広いからね。別に不思議なことじゃないさ」

「そうだけど、何も知らないって哀しいことじゃない?」

「というのは?」

「世界はこんなに広くて果てしないのに、あたしが知っているのは凄く限られた部分だけなんだもん。何だか、損してるような気がするの」

「そうかなあ」

「そうよ。きっと損してるのよ」

 暫く無言で海図帳を眺めていたイスナは、不意に本を閉じて晴れやかな笑みを浮かべ、サルファンの腕を力強く掴んだ。

「ねえ、サルファン。探検しようよ」

「探検? この船の中を?」

「そうよ。あたしの知らない何かが見付かるかもしれないじゃない」

 声を弾ませて自分の思いつきに高揚するイスナの明るい表情に、サルファンは自然と口許を綻ばせた。突然、住み慣れた土地を離れることになった不幸は、彼女の心にも濃密な陰翳を投じているに違いない。その哀れな胸中を慮る余裕すら失って、己の苦悩に引き摺り回されてばかりであったことに、今更ながら慚愧の念が迫り上がる。

(情けないな。俺がもっと確りしなくちゃ駄目だ)

 自戒の言葉を呟きながら立ち尽くす恋人を尻目に、イスナは浮き立つような足取りで船室の扉を片っ端から開けて回った。安っぽい肖像画の前で貴婦人の優美な表情を真似てみたり、針の動かない置時計の古風な装飾に見蕩れたり、岩礁を避ける為の急な回頭に揺さ振られて派手に転んだりもした。旧式の呪動機の機嫌を損ねないように神経を尖らせていたエトルースと機関室で鉢合わせし、大声で怒鳴られて退散する一幕もあった。

「ねえ、サルファン。あの突き当たりの扉、何だか豪華な感じがしない?」

 二人が最後に辿り着いたのは、船首の地下に設けられた部屋であった。扉の飾りは、白雲と波濤を切り裂くように飛翔するウミナリツバメの図案である。蝶番を軋ませて中を覗き込み、啌気燈の抓みを捻ると、豪華な調度品が視界を領した。

「船長さんの部屋かしら」

 禁じられた聖域へ踏み込むように、恐る恐る忍び込む。壁掛け時計の文字盤は午前四時三十三分を指したまま、凝と動きを止めている。床には柔らかな羊毛の絨毯が敷き詰められ、寝台の生地は滑らかな絹布であった。旺盛な好奇心を抑えようともしないイスナは、卓上の航海日誌を捲って色褪せた癖の強い文字を拾い読みしたり、衣裳箪笥を漁って草臥れた軍服を引っ張り出したり、思う存分に詮索を重ねた揚句、軈て部屋の片隅に黒い木箱が息を潜めているのを偶然見つけ出した。

「ねえ、サルファン。此れを見てよ、何だと思う?」

 黒ずんだ銀色の鋲が、蓋の縁に沿って等間隔で打たれている。屈み込んで純金の把手を引っ張ってみるが、蓋は錆びついたように微動だにしない。

「何処かに鍵はないかな」

「イスナ。他人の持ち物を漁るのは悪趣味だよ」

「いいじゃない。きっと誰も使ってないんだから。鍵を探してみようよ」

 抽斗や戸棚を手当たり次第に掻き回す彼女の奮闘を、サルファンは呆れ顔で見守った。元気を取り戻したのは結構だが、泥棒の真似事に熱中するのは、幾らなんでも御転婆過ぎる。甘やかそうとする自分を奮い立たせ、叱りつけようと口を開きかけた途端、寝台の下に差し入れたイスナの右手が、鍵束の入った革袋を捕まえた。

「あたしの執念、侮れないでしょ?」

 誇らしげに重たい革袋を掲げてみせる彼女の笑顔に、サルファンは肩を竦めた。

「全くだね。尊敬に値するよ」

 鍵束を選り分け、順繰りに鍵穴へ差し入れて反応を確かめる。四番目に差し込んだ鍵が、微かな手応えと共に硬い音を立てると、イスナは斬新な遊びを思いついた悪童のような瞳で振り返り、誘惑するように恋人を手招きした。

「見て。如何にも宝物っぽいと思わない?」

 取り外した蓋の蔭から現れた白い麻布の包みを、彼女は両手で慎重に持ち上げた。

「何だと思う?」

「さあね。箒でも入ってるんじゃないか」

「サルファンって、そんなに夢のない人だったっけ?」

 大袈裟に残念がってから、丁寧に紐を解き、麻布を剥ぎ取る。その途端、イスナの表情が膠で塗り固められたように強張った。

「刀?」

 肩越しに覗き込んで確かめると、それは確かに一振りの軍刀であった。随所に罅の入った鞘は深い群青色で、海豚を模った銀色の鐔は手入れを怠った為か、すっかり黒ずんでいる。見てはいけないものを見てしまったという顔で慌てて手を引っ込めるイスナの肩を、サルファンは静かに掴んで落ち着かせた。

「誰の刀なのかな」

「グリーフの遺品だろ」

「何か、怖いね」

「さっきまで、あんなに躁いでいたくせに」

 華奢な肩の輪郭が、極めて微細に顫えている。先刻の興奮は何処へ消えたのか、血の気を失った頬は蒼白に染まっていた。

「大丈夫か、イスナ」

 額に脂汗を滲ませて、彼女は無言で頷いた。どう考えても、愚かな質問だ。潤んだ瞳を見凝めるまでもなく、その精神の平衡が崩れ去ったことは瞭然としている。

「どうしたんだよ」

 正面に回り、双眸を見据えて訊ねると、イスナはサルファンの首に腕を回して縋りついた。

「ねえ。あたしたちも、殺されちゃうのかな」

「何を言い出すんだ」

「サルファンは見たんでしょう。人が殺されるところを」

 血色の悪い唇を咬み締める彼女の瞳は、追い詰められた仔羊のように臆病で、赤児のように繊弱な光に覆われていた。「さっきまで、あんなに躁いでいたくせに」。自分は、何て無神経なことを口走ったんだろう。彼女は、強がっていただけだ。陽気な恋人を演じていただけだ。仲間を殺されて絶望の淵に沈み込むサルファンの煩悶を少しでも和らげようと、健気に虚勢を張っていただけなのだ。

「兎に角、気持ちを鎮めるんだ。その寝台へ、横になるといい」

 顫える躰を抑えつけるように、船長室の広い寝台へ横たわらせると、疲労が溜まっていたのか、イスナは直ぐに浅い寝息を立てて眠り込んでしまった。傍らに寄り添い、彼女の繊弱な寝顔を見凝めながら、サルファンは総身を灼き焦がす悔恨に低い呻き声を漏らした。同じ孤児院で兄妹のように育ったこともあり、彼女のことは充分に理解している積りであったが、どうやら根本的な勘違いであったらしい。幼くして母を津波で亡くし、天涯孤独の少女となったイスナが、強く生きる為に拵えた仮面の奥に潜む素顔を、自分はきちんと見凝め、労わってこなかった。そのくせ、一端の恋人を気取ってきたのだから、我ながら情けない限りだ。

「もっと、女心を勉強しなきゃ駄目だな」

 懺悔する敬虔な正教徒のように、彼女の頬へ躊躇いがちに指先で触れたそのとき、天井に据え付けられた伝令器から、カゲイロンの喚声が虚空を引き裂くように響き渡った。

「エトルース! 警事局の船だ!」

 思わず、背筋が一瞬で凍りつく。懸念されていた事態が、遂に到来してしまった。イシュマールで警事官から受けた屈辱的な仕打ちが、脳裡へ克明に甦る。薄らと瞼を開いたイスナの瞳が、不安げな光を瞬かせる。

「どうしたの、サルファン。何かあったの」

 憔悴した眼差しに、胸の奥で何かが目覚めた。名状し難い情熱が、吹き零れるように迫り上がる。半ば無意識に、彼は黒い木箱を開いた。包みを解き、掴み出した刀は、数多の生き血を吸ってきた所為か、残酷な宿命のように持ち重りがした。

「大丈夫だよ。イスナは休んでいて」

 彼女の冷え切った手を掴んで励ましながら、静かに覚悟を固める。大丈夫かと問い掛けるのが、自分の役目ではない。絶対に大丈夫だよと、請け合ってやるのが使命なのだ。イスナが再び瞼を閉じるのを見届けてから、サルファンは焦躁に衝き動かされるように船室を飛び出した。劇しい靴音に振り返ると、抜き放った呪刀を翻して、エトルースが甲板へ駆け上がっていくのが見えた。