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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 1

創作「刃皇紀」

 帝都アルヴァ・グリイスは、六百年に亘り、緑邦帝国の中枢として栄えてきた壮麗な古都である。太祖緑邦帝の名を冠した王城は、幾重にも連なる環状の城壁で仕切られている。最も中心に位置する「シオルダの城壁」はその名の通り、青雁帝シオルダの時代に建設されたもので、グリイス王家の住まうサルヴァーニュ王宮の広大な敷地を囲んでいる。シオルダの城壁の外側に広がる地域は「旧都」と称され、政務庁を筆頭に国政を管掌する重要な機関が密集する帝政の中心地である。城壁の上には等間隔で監視塔が設置されており、旧都警事局の警務官たちが交代で詰め、昼夜を問わず都心の安寧を見守っている。

 一方、旧都の外郭に当たる「ファリオンの城壁」は、西霞帝ファリオン・グリイスが築造を命じたもので、「ファリオンの城壁」から「セファドの城壁」に至る広範な区画は「新都」と呼ばれる。手狭になる度に市域の拡大を繰り返した結果、新都には民家、商家、工場などが雑然と入り乱れており、強引な屈曲を重ねた路地は迷宮のように紛らわしい。

「ウルベータの城壁」に程近い、国内最大級の鉄道基地である「帝国中央駅」には、日没を迎えても夥しい本数の列車が発着し、旅客と貨物の出入で賑わっていた。地下乗降場から地上へ出た二人は、夕映えのウルベータ広場を行き交う無数の獣車を眺めた。

「凄いな」

 ファジルは嘆息した。キグナシアの雑踏にも圧倒されたが、こうして目の当たりにする帝都アルヴァ・グリイスの殷賑は桁違いだ。市域を区切る城壁の側面には大掛かりな浮彫が施され、グリイス王家の繁栄を祝福する言葉が、古めかしい語彙と字体で刻まれている。城壁の頂に設けられた歩廊にはグリイス王家の御聖旗と、聖鍵紋を染め抜いた正教会の旗が交互に並び、晩夏の風に躍っていた。

「先ず、アジトに向かう」

「アジト?」

「俺の所属する帝政監査委員会の隠れ処だ。地上の本部は、既に軍務庁が差し押さえた。憐れな鼠の黴臭い塒って訳さ」

「何処にあるんだ?」

 ファジルが訊ねると、パレミダは唇の前に人差し指を立てて、声を落とした。

「大声で喋らないでくれ。警務官が巡回してる」

 ファジルは慌てて口を噤み、息を潜めた。猛烈な雑踏に眼を凝らすと確かに、広場の彼方此方に警務官の姿が見える。

「帝国中央駅は、この国の物流の心臓だ。暴徒の襲撃を警戒しているんだろう」

 広場から城壁に沿って西へ伸びるウルベータ大路を、二人は辿り始めた。幅の広い通りの真ん中を、獣車や呪動車(呪動機の力で走る車両)が引切り無しに行き交う。道の両脇には用水路が引かれ、西日にきらきらと輝いている。

 帝都の北東には、グリイス王家の祖霊が眠る衛霊山を中心に峻険なグリシオヌス連峰が聳え、都心を潤す重要な水源地となっている。帝都の東を流れるバルクール河、西を流れるデフォルー河の何れも、グリシオヌス連峰から発してタイリン平原を蛇行し、コントラ湾に注いでいる。これら二つの大河が、王城を縦横に走る夥しい疎水を支えているのだ。

「路地へ入ろう。闇に紛れるには、丁度いい頃合いだ」

 パレミダに促され、ファジルは仄暗い路地へ足を踏み入れた。既に黄昏の空は群青に染まり、疎らな星屑が顔を覗かせている。灯りの届かぬ入り組んだ路地を、前を往くパレミダは慣れた足取りで躊躇うことなく進んでいく。その背中を追って幾度も角を折れるうちに、ファジルはすっかり方向の感覚を失ってしまった。そもそも故郷のアーガセスには、両脇を壁に囲まれた道など存在しない。似通った石壁が延々と連なる小路で、迷わぬように道標を定める術など持ち合わせていないのだ。

「本当にこの道で合ってるのか」

 思わず不安になって訊ねると、パレミダは振り向きもせずに答えた。

「勿論だ。俺はこの界隈で生まれ育った。迷いようがない。君だって、アーガセスの森を歩くときは、立ち止まって方向を確かめたりしないだろう」

 樵が森へ分け入るように、この男は都市へ分け入っているのだ。二十年前のマルヴェも、パレミダと同じように、帝都の迷路を颯爽と駆け抜けていたのだろうか。あの不精髭の樵が? 到底、信じられない。

 軈て路地が途切れ、俄かに視界が開けた。鮮やかな色彩の光が、双眸を射抜くように氾濫する。日没を過ぎたというのに、ウルベータ広場と比べても遜色のない喧噪だ。当惑するファジルの肩を、パレミダが誇らしげに叩いた。

「驚いたか。ようこそ我が故郷、シャルフェイト通りへ」

 ファジルは唖然とした。無数の啌気燈が照らし出す街路は、夜の帷を拒むように燦然と燃え盛っている。笑い声や嬌声が飛び交い、時折、剣呑な罵声や怒号が耳を刺す。通りに面した建物は悉く商家で、民家は一軒もない。酒場、賭場、娼館が限られた敷地を奪い合うように犇めき、客引きたちが商売敵に負けぬよう、互いに野卑な大声を競っている。

「此れが故郷? とんでもないところで育ったんだな」

「俺の親父は、賭場の胴元だった。結構な高給取りだったんだぜ」

 シャルフェイト通りは、不夜城と謳われる帝都随一の歓楽街である。白獅帝タミュワンから、橙牙帝オブロン、風龍帝ノシュト、金鷹帝リウェルク、銀鷲帝マラベックを経て、東雲帝ウルベータに至る「エルター・サルヴォー」(内政爛熟)の時代に形成された、この由緒正しき花街にパレミダが生を受けたのは、グリイス暦五八〇年の夏のことであった。

 有名な賭場を経営していた父ブレキューダは商売柄、地元のヴィオルと付き合いが深く、反帝主義的な思想に傾きがちであった。雷声帝アイルレイズが戴冠し、賭博や買春を「風紀の宿敵」と目して厳しく取り締まり始めると、彼の反骨精神は一層の高揚を示した。同業者や知り合いのヴィオルと手を組み、賭場の稼ぎで築いた富を切り崩して、雷声帝の暗殺を企てたのである。

 帝都アルヴァ・グリイスで、用心深い暴君の寝首を掻く為に密議を重ねるのが如何に危険か、ブレキューダは理解していなかった。市中の闇を跳梁する帝都治安本部の悪名にも、高を括っていた。軈て彼は、営業中の賭場に踏み込んだ黒衣隊士に身柄を拘束され、劇しく抵抗したことを理由にシャルフェイト通りの路上で惨殺された。未だ十歳の少年に過ぎなかったパレミダは、血塗れの父親の屍を踏みつける黒衣隊士の軍靴を、黙って睨むことしか出来なかった。

「俺は思ったね。この世に絶対なんて有り得ないと。金に飽かして、遣りたい放題だった親父が、或る日突然、得体の知れない軍人に道の真ん中で打ち殺されたんだ。こんなに不条理な話はない。強くならなきゃヤバい、と思った。そうでなきゃ、生きていけない。それが世界の掟なんだと」

 語られる陰鬱な過去とは裏腹に、パレミダの表情は哀しみや怒りと無縁に見えた。極限まで高ぶった激情が、そのまま凝固して仮面と化したかのように平坦な形相である。

「別に君のことを脅してる訳じゃないよ」

 何と答えていいか分からずに黙り込んだファジルの顔を見て、パレミダが取り繕うように早口で付け加えた。

「マルヴェは必ず助け出す。彼奴はガルノシュの野望を打ち砕く為に欠かせない人材だ。勿論、君にとって掛け替えのない肉親であることも承知している」

 励ましの言葉は却って、パレミダの悲痛な境遇に惹きつけられた心を、眼前の現実へ引き戻す結果を齎した。父親を黒衣隊士に殺されたパレミダの経歴に、マルヴェの窮境を重ね合わせるのは容易いことだ。未だ安否の結論は出ていないにせよ、冷酷な黒狗が生殺与奪の権利を掌握しているのは厳然たる事実なのである。

「気休めは、聞きたくないよ」

 慰められると余計に、先行きが不安になるのは何故だろう。アーガセスの惨劇の印象が、余りに酷薄なものであったからだろうか。父親に特段の敬愛を寄せていた覚えはないが、非業の死を遂げられて平然としていられる自信もない。母と祖母を失い、更に父親まで亡くしてしまえば、この地上に頼れる人間は誰もいなくなってしまう。

「黒衣隊は、直ぐに二人の命を奪おうとは考えないだろう」

「何故、そんなことが言い切れるんだよ」

「利用価値があるからさ」

「利用価値?」

「ああ。マルヴェとジェリハスは、閣派にとっては英雄だ。政府は、二人の生死に関心を払わない訳にはいかない。人質として使うには、最高の適役だ」

「それを聞いて、俺の心が安らぐと思うのかよ」

 ファジルは肩を落として溜息を吐いた。人質として価値があるから殺さない筈だというパレミダの見立てを、全面的に信頼する気にはなれない。相手が誰であろうと、権力者には眦を吊り上げて食って掛かるのが習い性のマルヴェが、模範的な虜囚として振舞うとは思えない。黒衣隊の瞋恚を自ら購って首を刎ねられる虞も充分にあるのだ。

「君が思うほど、彼奴は馬鹿じゃない」

 ファジルの懸念に一頻り耳を傾けてから、パレミダは大袈裟に嘆息してみせた。

「曲がりなりにも殉国隊の副長を務めたほどの男だ。態々余命を縮めるような愚挙には出ないさ」

「親父の性格、知らない訳じゃないだろう」

「だから、此れは気休めだよ」

「おい、喧嘩を売る積りか」

 思わず眼を剥いて声を荒らげたファジルの肩に、パレミダは掌を置いた。

「絶望に沈むよりは、熱り立つぐらいの方が丁度いいのさ。それより早く、アジトへ向かおう。救出の具体的な算段を練り上げなきゃならない」