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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 2

創作「刃皇紀」

「いらっしゃい」

 路地裏に面した見窄らしい居酒屋の扉を開けると、板場で魚を焼いていた髭面の男が顔を上げた。バルリの店に比べると随分狭苦しいが、棚に並んだ酒の種類は眩暈がするほど豊富だ。表の喧噪とは裏腹に、客は一人もいない。

「酒なんか呑んでる場合じゃないだろ」

 一刻の猶予もないと口癖のように急かしておきながら、今にも潰れそうな場末の酒場へ暢気に足を踏み入れるパレミダの矛盾に、ファジルは怪訝な想いを禁じ得なかった。毎晩のように浴びるほど酒を呷って寝床へ雪崩れ込む父親の姿が眼裏に浮かび、殉国隊というのは上戸の呪刀士ばかり揃えているのかと厭味の一つも言いたくなる。

「君の親父と一緒にするなよ。此れも任務の一環だ」

 膝を組んで無造作に椅子へ腰掛けると、パレミダは壁の品書きを一瞥した。釣られてファジルも、罅割れた黒板に眼を向ける。白墨で殴り書きされた文字は、翠華帝フィエラの時代に考案されたカイリヴァンという書体で綴られており、不慣れな眼には酷く読み辛かった。キグナシア以東の地域では、クヴォール帝政期の公文書に用いられた正則ザーク文字の流れを汲むドラーセンという書体が一般的であり、ヴィル・アーガセスの林務官へ宛てて手紙を書くときのマルヴェも、我流に崩したドラーセンを使っていた。

「緑色の酒はあるかい」

 壁面の架台にぎっしりと詰め込まれた多彩な酒壜の列に視線を転じてパレミダが訊ねると、板場の男は裏返した魚に粗塩を振りながら答えた。

「生憎、緑色の酒は切らしてますねえ。旦那、買って来てもらえませんか」

「何処で売ってるんだい」

 泡立つような音を立てて次第に焼き色を帯びていく魚を見凝めたまま、男は顔も上げずに素気なく答えた。

「サルヴァーニュで買えますよ」

「分かった。金を呉れ」

 立ち上がるパレミダの手に、男は手許の抽斗から取り出した硬貨をそっと握らせた。たった一枚で十万エナクの価値を持つと言われる緑邦帝金貨である。現物を拝見したことは過去に一度もないが、田舎者のファジルでさえ、柑子色に光り輝く緑邦帝金貨の絶対的な威信には聞き覚えがあった。

「旦那。勝手口から行った方が近いですよ」

 男は親指を突き立てて、背後の小さな扉を示した。古びた真鍮の把手が、鈍い光を放っている。パレミダは無言で頷き、板場の裏へ回り込んだ。

「ファジル。一緒に来いよ」

「本気で言ってるのか? こんなときに酒屋の御使いなんて、どうかしてる。そんなに酒が呑みたいのか」

「いいから黙って附いて来い」

 語気を強めて繰り返すパレミダの高圧的な剣幕に、ファジルは承服し難い想いを堪えて立ち上がった。一体、何を考えてるんだ? 黒衣隊の根城に近付いた途端、怖気付いて不毛な時間稼ぎに走り出したということなのであろうか。

「あの酒じゃなきゃ、我慢ならないのさ」

 囁きながらパレミダが把手を捻ると、濫れ出す黴臭い空気が鼻を衝いた。賑やかな路地の代わりに、洞々たる常闇が先を見通せないほど深沈と続いている。後ろ手に戸を閉め、パレミダは屈み込んで足許の暗がりを探った。拾い上げた啌気燈の光が、冷え切った石畳を蒼白く照らし出す。行く手に、幅の狭い階段が口を開けているのが見えた。

「地下に酒蔵でもあるのか」

 ファジルの純真な問い掛けに、パレミダは声を潜めて苦笑した。

「間の抜けたことを言うなよ。あれは単なる合図さ。酒が呑みたい訳じゃない。見ろ」

 燈光に照らし出されたパレミダの指先で、沈んだ色合いの鍵束が涼やかな音を立てた。柑子色の緑邦帝金貨ではない。

「店主との問答に正解しないと、この鍵束は貰えない。目眩ましの金貨を渡されて、市場への道順を教わるだけだ。あの抽斗には、贋物の鍵が何百と入ってる。自力で本物を探し当てるのは一苦労さ」

「あんな面倒な芝居を打つ必要があるのかよ」

 改めて思い返せば、如何にも態とらしい不自然な遣り取りであった。世間知らずの自分なら何気なく見過ごすかも知れないが、本職の警事官は素直に欺かれてくれるのであろうか。却って墓穴を掘ることになりはしないか。

「面倒でも、何らかの工夫は欠かせないということさ。この盛り場には、庁務官連中も酒と女を求めて足繁く通って来る。警務庁の下っ端吏員が、安酒を喰らいにこの店へ迷い込むかも知れないだろう」

「バレたら、殺されるのか」

 真剣な光を瞳に湛えて、ファジルは問い掛けた。パレミダとその同志たちは、今の彼にとって唯一の頼りであり、その助力を仰がねば攫われた父親の足跡を辿ることは不可能に等しい。万一、黒衣隊に踏み込まれたら、最後の希望まで残らず摘み取られてしまうことになるのだ。

「帝政監査委員会は、終戦後にジェリハスが作った組織だ。長い戦乱の涯に、瓦礫と焦土の下から雑草のように芽吹き始めた春影帝政権を支える為に、不穏な叛徒の監視を買って出たのさ。表向きは単なる政治結社で、論客の集まりのように聞こえるが、実際には殉国隊の残党も少なからず合流したし、他の義勇軍部隊からも人を募った。完全なる武装集団だ。ガルノシュが眼の敵にするのも無理はない」

 寒々しい石積みの階段を降りながら、パレミダは一語一語を咬み締めるように紡いだ。セファド内郭区に本部を構え、帝都に蠢く有象無象の庁務官たちの身辺を洗い続けるうちに、二十年はあっという間に過ぎ去った。その間、ガルノシュ・グリイスの暗躍を臭わせる材料は少なくなかったが、謀叛の決定的な証拠を掴むことは出来なかった。今思えば春影帝が崩御する前に、幾らか手荒な手段を講じてでも、あの男を疑獄に陥れ、力尽くで外洋の荒波に閉ざされたアメル島の監獄へ押し込んでおくべきだったと悔やまれる。夏光帝の戴冠以後、俄かに活発化したガルノシュの策謀は最早、手の付けられない段階に達しつつある。

「勿論、易々と首を刎ねられる積りはないさ。地下へ潜ったのは、起死回生を果たす為だ。ガルノシュの陰謀を野放しにする訳にはいかない」

 仮にマルヴェとジェリハスが殺されたら、という暗鬱な妄想が脳裡を過る。決して考えたくはないし、ファジルの前でそんな悲観を口にする訳にもいかないが、予測される現実への備えを怠ってはならない。殉国隊の英雄が黒衣隊士に囚われ、虐殺されたとなれば、閣派政権の要人たちは震撼するであろう。ガルノシュの一派が心理的な動揺に付け入り、甘言を囁いて切り崩しに掛かれば、恐懼に衝き動かされて寝返る軟弱な閣派庁務官も現れるに違いない。愈々暗雲が天下を覆いつつある今、輝ける希望の徴を見す見す握り潰されては堪らないのだ。

「親父は、眼の敵なんだな」

 不意に沈んだ声でファジルが呟いた。その横顔を確かめようにも啌気燈の薄弱な光では、感情の微細な襞まで読み取ることは難しい。

「そんなに憎まれてるなら、何時殺されたって不思議じゃないんだろ」

 思わず返答に困って、パレミダは足許の石段を無言で見凝めた。アーガセスの山村で育った世間知らずの少年だが、勘の鋭さは父親譲りだ。難解な政治的文脈を解き明かすことは出来なくとも、マルヴェに向けられる陛派の残党たちの怨嗟に満ちた眼差しには、想像が及んでしまうらしい。

「さっきも言っただろう。直ぐに二人を殺す理由はない。未だ間に合う。現に俺たちは無事、帝都まで辿り着いた。勝負は此れからだ」

 砂上の楼閣のように脆く儚い気休めの言葉を吐くのは、快い経験ではなかった。二人が直ぐに殺されることはないという観測に、恣意的な希望が一片たりとも混じっていないとは言い切れない。情報を引き出すなり閣派政権を揺さ振る材料に使うなり、調理の仕方は色々と考えられるが、二十年来の憎悪が噴き出して理性を蹴散らし、拙速な結論へ一息に辿り着いてしまう虞を、完全に排除することは不可能だ。助命される代わりに、仇敵が敷いた針の筵へ端坐することを半永久的に強いられたガルノシュは恐らく、春影帝の慈悲さえも忌々しい屈辱の記憶として魂に刻み込んでいるに違いなかった。