サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 3

 複雑に折れ曲がった廊下を、ファジルとパレミダは黙々と歩き続けた。壁に埋め込まれた啌気燈の白い光は蝋燭よりも仄暗く、視界を確保する助けにはならないが、眼を凝らし、掌で触れる限り、天井も床も壁も液化岩を噴き付けたように滑らかに舗装されている。こんな地下の暗闇に此れほど広大な人工的空間を構築するのは、容易な作業ではない。そもそも帝都の地盤を掘削することが、一介の政治結社に許可されるのであろうか。

「こんな迷宮を誰が作ったのか、疑問だ。そう言いたげな顔だな」

 パレミダに胸中の疑念を見抜かれて、ファジルは躊躇いなく頷いてみせた。

「地下道なんて、見慣れないからな。インヴォルグの乗降場を思い出すよ」

「此処は大昔に抛棄された、王宮へ通じる緊急避難路だ。敵襲を受けたときに、王族や政府の要人を脱出させる為の備えとして造られたのさ」

「緊急避難路の出口が居酒屋だなんて、ふざけた話じゃないか」

「落盤事故で塞がってから、ずっと使われていないんだ。縁起が悪いから、復旧工事も見送られたままさ。誰かが後始末を怠けて、居酒屋の創業者に払い下げたんだろう」

「あの男は、仲間なのか」

「彼奴も二十年前は閣派の義勇兵だったのさ」

 抛棄された緊急避難路。有事に備えて構築された秘密の絡繰。世界がこんなにも複雑な仕組みで動いているという事実に、ファジルは素朴な嘆声を禁じ得なかった。

「ガルノシュは気付いていないのか」

「そう願いたいものだね。こんなところに見捨てられた避難路があって、そこに帝監委の鼠どもが潜り込んで巣作りに励んでいるなんて、きっと想像もしないだろう」

 だからこそ、万一露顕した場合には恐るべき制裁が加えられるに違いない。獲物を仕留める為なら民家へ火を放つことすら辞さない「黒狗」が再び襲来して、総毛立つような弾圧と粛清の血風が吹き荒れるであろう。

「帝都に唯一残された愛すべき『我が家』とはいえ、こんな湿っぽい窖で暮らすのは息が詰まるよ」

 幾度角を折れたか思い出せないほど、長大な時間を費やして潜り抜けた迷宮の最果てに、観音開きの巨大な鉄扉が聳え立っていた。扉の合わせ目に沿って、鍵穴が蟻の巣のように幾つも穿たれている。

「鍵は十本。総ての組み合わせに正解しないと、扉は開かない」

 不敵な笑みを浮かべるパレミダの指先で、鍵束が蝉の鳴くような音を立てて揺れた。

「万一、鍵束を盗まれて警事官が押し寄せても、正しい組み合わせを発見するには時間が掛かる。その間に返り討ちの準備を整えることも出来るという訳さ」

「そんなに行儀良く正解を探してくれるもんなのか?」

「他に方法はない。この鉄扉を打ち破るには、啌気砲でも担ぎ込むしかないさ」

「腕利きの呪刀士なら、啌気砲に頼らなくても破壊出来るんじゃないのか」

「そんな腕利きは滅多にいないさ。あの戦争で、優秀な呪刀士は大勢戦死したからな」

 ファジルの不安を鎮める為に幾分誇張されているものの、パレミダの回答は全くの出鱈目という訳ではなかった。四年間に亘って続いた総力戦は、国中の呪刀士を苛烈な前線へ動員し、その能力の優劣に関わらず夥しい数の戦没者を計上する結果となった。しかも戦後、春影帝の肝煎りで呪業士への統制を強める為の施策が相次いで実行に移され、修呪印可(修呪館の発行する免状)を持たない呪刀士の活動が処罰の対象とされて以来、在野の呪匠は潰滅し、呪刀士を民間から徴募するという選択肢は事実上、閉ざされることとなった。唯でさえ不足している人材の供給源が狭められたのだから、呪刀術を心得た軍務官の補填が一向に進捗しないのは当然である。

「それに、呪刀士なんて今どき流行らないのさ」

 少し不貞腐れたような物言いで、パレミダは呟いた。戦後二十年を経て、修呪館の卒業生は順調に数を増しつつあるとはいえ、彼らは呪刀を雷鳴戦争の遺物と蔑んで恥じず、専ら啌気砲の運用に熟達することに情熱と関心の大半を注ぎ込んでいる。呪刀術の遣い手は既に戦場の花形とは看做されておらず、砲兵を駆使して華麗な戦術を組み立てる砲科紀兵官に憧れるのが近年は主流派だ。

「刀で斬り合うより、遠くから砲弾を撃ち込む方が合理的で簡便だというのが、軍務庁の『現代的方針』なんだとさ。俺には全く承服し難い考えだが、巡察士風情の意見など、蚊の翅音ぐらいにしか聞こえないだろうな」

「殉国隊の威光があっても?」

「その威光が今や、命取りの種に成り下がっているのさ」

 指先で手繰って選り抜いた鍵を一番上の穴へ挿し込み、ゆっくりと捻る。金属の咬み合う硬質な音が響くと、パレミダの口許に誇らしげな笑みが滲んだ。

「正解だ。凄いもんだろ」

「組み合わせは全部覚えてるのか」

「此処で立ち往生したら、便所に間に合わなくなるだろ。指先に完璧に叩き込んであるさ」

 パレミダの言葉に偽りはなかった。一度も躓くことなく、総ての鍵を滑らかな手つきで解き終えると、重厚な鉄扉に掌を押し当てて思い切り力を籠める。錆びかけた蝶番が耳障りに軋み、扉の隙間から仄明るい燈光が漏れ出した。

「此処から先は元々、休息所として造られた空間だ」

 煉瓦を積み上げて舗装した壁に沿って、短い間隔でずらりと燭台が連なっている。如何にも古色蒼然たる意匠だが、使われているのは純金で彫塑も細かく、避難路に逃げ込んだ王族や政府の高官を迎え入れるのに相応しい荘重な雰囲気を纏っていた。

「実際に使われたことはあるのか」

「二十年前、義勇軍が帝都へ入城したとき、官軍の兵卒がこの避難路へ潜伏して遊撃を仕掛けて来た。雷声帝の退路を確保しようとしたのさ。御蔭でこの地下隧道には血風が吹き荒れた。落盤事故が起きても復旧の措置が取られないのは、敗兵の怨霊が彷徨していると専らの噂だからさ」

 敗兵の怨霊とは薄気味悪い言葉だ。実際、地下に張り巡らされた緊急避難路の常闇は物蔭が多く、天宮にも冥宮にも旅立とうとしない頑迷な死者の存念が蔓延るには打ってつけの場所に感じられた。限定された視界の中で殺し合いを演じるのは、背筋の凍るような恐懼を伴う行為であったに違いない。貧しい想像力を発揮しただけでも、地下の暗がりに斃れていく敗兵の絶叫が聞こえるような気がして、ファジルは頬を強張らせて身慄いした。

「早く行こう。怨霊の餌食になるのは御免だ」

「案外迷信深いんだな」

「怖いものは怖いんだ。死んだ祖母ちゃんは、死者の怨念は天空の理を揺り動かす力を持ってると言ってた」

「天空の理、ね。確かに雷声帝の怨念が、今回の騒動に全く関与していないとは言えないな」

 二十年前、帝国の大地は厖大な戦没者に覆われ、戦後に開かれた亡国法廷によって重要な戦犯が極刑に処された。当時の帝国臣民の中に、肉親や知己の死を一度も経験せずに済んだ果報者は皆無に等しかったであろう。身近な人間の惨たらしい死が、生き残った者の精神に何の瑕疵も刻まずに措く筈がない。誰もが二十年来の古びた怨嗟を因縁の鎖として、現在の帝国社会を見凝めているのだ。怨霊が天空の理を揺り動かすという金言は、決して不当に大仰な言種ではない。

「安心しろ。あの扉の向こうは『生者』の領域だ」

 行く手に分厚い樫の扉があり、上部に掲げられた銘板に「帝国の平穏と繁栄の為に」という緋文字が刻まれているのが見えた。怨霊の妄想が尾を引いている所為か、その緋文字さえも血塗られた死者の指が描いた断末魔の叫びのように感じられる。

「解散を命じられた俺たちの、最後の秘密の砦だ」

 一本だけ色味の異なる黄銅の鍵を挿し込んで、パレミダが扉を開け放つと、現れた光景にファジルは思わず嘆息した。固より面積も体積も限られざるを得ない地下室の空間に、整然たる秩序を嘲笑うかの如く、様々な物品が所狭しと並べられ、犇めき合っている。金具と荒縄で強引に壁へ繋ぎ留められた棚は、詰め込まれた書物や冊子の重みに堪えかねて、馭者の手綱を食い千切ろうとする奔馬のように前方へ傾いている。堆く積まれた木箱は、側面に「危険物注意」の札が貼られたものから、拙い果実の絵が描かれたものまで、種類に応じた弁別の恩恵を享けることなく気儘に混在している。恐らく外套を掛ける為の壁の把手には、鞘に納まった長尺の軍刀と薄汚れた雨傘が並んでぶら下がり、天井から垂れた得体の知れぬ紐には角張った軍帽が逆さに吊るされ、その窪みにペンやら定規やら塵紙が何の敬意も遠慮も表さずに無造作に抛り込まれていた。

「呆れたか?」

 唖然と立ち尽くすファジルの横顔を覗き込んで、パレミダが悪戯好きの少年のような薄笑いを口許に閃かせた。

「軍務庁の出動に備えて、大急ぎで地上の本部を引き払ったからな。荷物を整理する時間なんてなかったのさ」

「贅沢を言う積りはないけどさ。引っ越したのは先月の話なんだろう?」

「君の親父を迎えに行くのにも、時間が必要だった。それにどうせ、束の間の仮住まいだ。熱心に床を掃いたり便所を磨いたりしても報われないだろ」

 殉国隊の残党を中心に結成され、陛派勢力の復権を阻む為に日夜暗躍する政治結社のアジトがこんな醜態を晒していては、帝監委の活動に期待を寄せる閣派の市民たちも幻滅せざるを得ないであろう。他人事と言えば他人事だが、彼らに父親の生死を委ねている立場として、このような秩序の著しい紊乱は看過し難い怠慢に思えた。

「少しは整理したらどうなんだ。落書きまでしてあるじゃないか」

 正面の突き当たりに扉が二つあり、大きな絵が画鋲で留めてある。何れも華麗な衣装を纏った貴人の肖像画だが、片方には眼を覆いたくなるような落書きと、聞くに堪えない乱暴な罵言が書き殴られている。単に掃除や仕分けが追いつかないといった次元の問題ではない。

「リケイムの研究室より酷い眺めだ」

「そりゃ光栄な評価だ。リケイムだって言ってただろう。『雑然たる混沌の渦中から時折析出される一粒の宝珠の燦めき、それが知性であり、創造というものだ』ってね」

「あんたはその科白に呆れ返ってたじゃないか。自分のことは棚に上げるんだな」

「坊や。大人になるってのは、そういうことさ」

「何だよ、それ」

「物事は何でも自分に都合の良いように考えなきゃ駄目ってことさ」

「あんた、やっぱり親父の仲間だな。考え方がそっくりだ」

 ファジルが呆れ顔で吐き捨てたそのとき、無傷の肖像画が貼られた方の扉がゆっくりと開き、軍服に身を固めた背の高い女が姿を現した。