サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 4

「パレミダ。無事だったのね」

 落ち着いた飴色の長い髪を後ろできつく束ねた女は、穏やかな声で言った。不安と悲観に満ちた長大な時間を堪え続けた痕跡のように、言葉の端々に安堵の響きが籠っている。

「当たり前だろ。課せられた使命を果たすまでは死ねないさ」

「本当に良かった。最近、悪い報せばかり飛び込んで来るから、心配で堪らなくて」

 散らかった床を踏み分ける女の栗色の瞳が不意に、当惑するようにファジルを捉えた。

「パレミダ。彼は?」

「ファジルだ。マルヴェ副長の御令息だよ」

「本当に?」

「嘘を吐いて何になる」

 女は床に散乱した酒壜や杖や黒い革鞄を跨いでゆっくりと歩み寄り、至近の距離からファジルの顔を繁々と覗き込んだ。見凝められる気恥ずかしさに堪えかねて外方を向くと、女の口許に柔らかな笑みが弧を描いた。

「初めまして、ファジル。私はアルレーン。帝政監査委員会の書記長を務めています。二年前までは、帝国辺境管理軍に在籍していたの。だから今でもこんな恰好をしてるのよ」

「そう。似合ってるよ」

 何と答えていいか分からず、返事は自ずと無愛想なものになった。然しアルレーンは少しも意に介した様子はなく、栗色の瞳を輝かせて滔々と捲し立てた。

「マルヴェ副長には、昔から憧れていたの。何しろ殉国隊の英雄だもの。二十年前、グリイス広場で副長が雷声帝の首を刎ねたときに、歴史は大きく変わった。春影帝陛下が戴冠なさり、帝国は復興の道を歩み始めた。いえ、歩んだなんてものじゃない、走り始めたのよ。その出発点となる現場に居合わせただけでなく、傷つけられた臣民の無念を」

「広場で、首を刎ねた?」

 躓いて傾いだ躰が視界の反転に戸惑うように、その瞬間、アルレーンの声は意味を持たない音の羅列に様変わりした。不穏な夢の記憶が甦り、脳裡を隅々まで急速に蝕み始める。広場の中心に組まれた巨大な櫓。浴びせられる罵声と怒号。縛り上げられ、頭を垂れて跪いた壮年の男。天に掲げられた銀色の大鉈。転がり落ちる首級。顔の見えない、死刑執行人。あの悪夢の意味が今、鮮やかに開示されようとしている。

「親父が、皇帝の首を刎ねたのか?」

 驚愕に掠れた声を整える手間さえ歯痒く、息せき切って詰め寄ったファジルの顔を、アルレーンの瞳が呆れたように見凝め返した。

「貴方、自分の御父さんの偉業を知らないの? 二十年前、殉国隊は雷声帝アイルレイズ・グリイスを捕縛し、グリイス広場で斬首刑に処した。どんな田舎の修学校でも教わる話よ」

 音を立てて血の気が引いていく。あの盆暗の親父が、雷声帝の首を刎ねた。殉国隊の英雄として戦場を駆け巡っていたという話だけでも消化し切れずに胃の腑へ蟠っているというのに、皇帝の死刑を担ったなどと聞かされては混乱の制御など叶う筈もない。そして今、親父は雷声帝の息子に命を狙われている。家を焼かれ、腕尽くで連れ去られ、刻一刻と減り続ける生命の砂時計を黙って睨み据えることしか出来ない境遇に、強制的に縛り付けられているのだ。その発端に、二十年前の刎頸に対する怨念が凝っているのだとしたら、直ぐに殺されることはないというパレミダの保証を信じる理由は一層目減りすることになる。

「復讐の為に、親父は連れ去られたのか?」

 切迫した問い掛けに、今度はアルレーンが顔色を変えた。

「連れ去られた? 一体、どういうことなの、パレミダ」

 縋るような眼差しを静かに受け止めて、パレミダは肩を竦めた。

「文字通り、そういうことさ。マルヴェは黒衣隊に拉致された。ジェリハスも一緒だ」

「二人揃って黒衣隊に連れ去られたって訳? そんな、幾らマルヴェが退役して長いからと言ったって」

「黒衣隊の襲撃はかなり大掛かりなものだった。何しろ、イグナディンまで出張っているからな」

「あの黒狗の悪魔が?」

 眩暈を覚えたように指先で目頭を押さえ、アルレーンは手近な椅子に頽れるように座り込んだ。パレミダは卓子の縁に凭れて膝を組み、懐中から取り出したガーシュを乱暴に銜えた。

「嘆いたって始まらない。打ちのめされるのは分かるが、戦いは始まったばかりだ」

「此れほど鮮やかに先手を打たれて、そんな風に平然としていられるほど、あたしは強くないわ」

「泣き言は止せ。二人の身柄は、帝都に運び込まれている筈だ。今なら未だ間に合う。何か手懸りは掴んでいないのか」

 猛禽のような光を苛立たしげに滲ませたパレミダの瞳は、今までにない酷薄な威圧感を滾らせていた。その横顔を盗み見たファジルの胸の奥で、心臓が鞭打たれたように鋭く脈打ち始める。戦場を生き延び、帝国社会の暗部に接しながら歳月を重ねてきた者にしか備わることのない剣呑な殺気が、悪夢の続きのように彼の精神を参らせた。

「生憎、そんな情報は掴んでないわ」

 答えるアルレーンの瞳にも刃向かうような、挑みかかるような光が躍っている。軍人上がりという肩書は伊達ではないらしい。

「黒衣隊の情報統制がそんなに甘い筈はないもの」

「その鋼鉄の防壁を抉じ開けるのが帝監委の使命だろ。忘れちまったのか?」

「勿論、黙って手を拱いてる積りはないわ。そういう貴方こそ、何か対策は考えてるの」

「情報が手に入らなきゃ、何も始めようがないさ」

「勝手な言種ね」

 唇を強く咬んで前髪を掻き揚げるアルレーンの顔色は、好戦的な口調とは裏腹に随分窶れて見えた。

「フェロシュとカゲイロンから連絡は入ってないのか」

「今のところは何も。順調に事が運べば、もう到着してもいい筈なんだけど」

 アルレーンの瞳に不安げな光が気忙しく揺れる。アーガセスの山奥にさえ、黒狗の凶悪な毒牙は容赦なく捻じ込まれたのだ。それよりも遥かに交通の便がいいイシュマールに、黒衣隊の禍々しい靴音が響かない理由はない。

「無事を祈るしかないな。隊長の強運を信じるさ」

 ガーシュの穂先を蛍火のように赤々と光らせて、パレミダは静かに呟いた。此処で不穏な見通しに悶々としていても報われることはない。イシュマールへ派遣された黒衣隊士の技倆が如何ほどのものかは分からないが、戦争の影響で優秀な人員の確保に苦労しているのは帝都治安本部も同じだ。イグナディンの部隊よりも腕の劣る刺客が割り当てられていることを期待するしかないであろう。

「とりあえず、長旅で疲れたでしょう。奥で休んだら」

 同じく懊悩が無益であることを悟ったのか、アルレーンが溜息の混じった声で背後の扉を指差した。

「シュダインとエスカルネが、偵察に出てるの。何か情報を掴んで来るかも知れない」

「朗報を期待しよう。戻ったら直ぐに起こしてくれ」

 鍵束をアルレーンに預け、大きく伸びをしながらガーシュを揉み消す。彼是と思い悩むより、休息を取って体力を恢復させることの方が先決だ。此れから暫く、不眠不休で働かねばならない日々が訪れるのだから。

「ファジル。行こう」

 穢されていない方の肖像画が貼られた扉を開け、啌気燈の抓みを捻る。縦長の狭苦しい部屋に、二段式の寝台が八つ、壁に沿って安置されている。手前の寝台の縁に腰掛けて長靴の紐を解き始めると、扉を指差してファジルが素朴な疑問を発した。

「あの落書きされた肖像画は誰なんだ」

「知らないのか。雷声帝アイルレイズ・グリイスさ」

「随分嫌われてるんだな」

「当たり前だろ。俺たちにとっちゃ、死人であっても永遠の宿敵さ」

 それは雷声帝だけに当て嵌まる話ではない。死人の遺恨を受け継いで、その霊魂を慰めようとしているのはガルノシュも同じであろう。虜囚と化したマルヴェに対する扱いが非道なものであることは、現場を見ずとも確実であるように思われた。

「幼稚な真似は止めろと言いたいのか」

「別に構わないけどさ」

「心意気って奴さ。暗君の暴政を再来させない為の記念碑みたいなものだ」

「因みに何の部屋なんだ?」

「便所さ。勝手に使っていいぞ」

 長靴を脱いで寝台に身を横たえたパレミダは、大きな欠伸をした。瞼を擦りながら、立ち尽くすファジルに声を掛ける。

「今は大人しく躰を休めておけ。此れから、忙しくなるんだ」

「親父は、もう殺されてるかも知れないんだぞ」

 俄かに迫り上がった不安が、自然と声を高ぶらせる。処刑台の夢の名残が、眼裏にこびりついて離れない。此れまではマルヴェが襲撃される理由を、巧く呑み込めずにいた。だから、父親が殺されるかもしれないという危惧も、何処か実感を欠いていた。然し今は違う。嘗てマルヴェがその首を刎ねた皇帝の継嗣が、二十年の雌伏を経て、復讐の情熱を燃え立たせているのだ。家に火を放ち、大勢で取り囲んで散々に痛めつけ、拉致した仇の命を徒に存えさせる理由はない。一刻も早く救出に赴かねば、きっと手遅れになる。

「何度も言ってるだろ。単なる報復なら態々、帝都まで身柄を移送する必要はない。アーガセスの山奥に遺体を埋めた方が、後腐れがなくていい」

「ガルノシュが直々に、恨みを晴らす積りかも知れないだろ」

「廷臣の筆頭たる政務庁掌補自ら、その清らかな御手を、罪人の血に穢すとでも? 馬鹿を言っちゃいけない。あいつの野心は、もっと壮大なものだ。殉国隊の始末など、些事に過ぎないさ」

 父親の生死を「些事」の一言で片付けられるのは我慢ならなかったが、パレミダを罵っても仕方ない。ガルノシュの野心が、或いは復讐の情熱が、マルヴェの命を奪うだけで満たされるほど底の浅いものでないことは理解している積りだ。

「単に人質としての利用価値だけを根拠にしている訳じゃない」

 ファジルの内なる不安が根深いことは、パレミダも充分に承知していた。殺戮だけが狙いなら、二人の身柄を帝都へ移送する必要はない。状況から考えて、この推測は不合理なものではないし、単なる気休め以上の説得力を持った見立てだと言える筈だが、それだけでファジルの感情が鎮まらないのならば、別の薬を処方してやるしかあるまい。

「帝都治安本部が、いや、厳密にはガルノシュ・グリイスが、血眼で行方を追っている男がいる。誰だか分かるかい」

「俺に分かる訳がないだろう」

 勿体ぶった言い方に苛立って、ファジルは語気を強めた。

「弟さ」

 水辺で拾った小石を川面へ滑らせるような口振りで、言葉を投げる。意味を量りかねたファジルの眉間が、一層険しく歪んでいく。

「弟?」

「春影帝陛下の、腹違いの弟だ。名はフォン・グリイス。嘗て、殉国隊の首席軍長を務めた男だ」

「王族の人間が?」

「そんなに興奮するなよ。フォンの母親は、宮殿の厨房で働くカシュールという女中だった。雪輝帝コルダウが、身分違いの女に手を出して孕ませたのさ。皇帝はカシュールを深く愛したが、廷臣たちは当然猛反対だ。由緒正しきグリイス王家の血統に卑賤の民の血を混ぜるなんて、祖霊に対する裏切りだと諫めたのさ。結局、帝国の威信を損なうってことで、カシュールとフォンは王宮から追放されることになった。それでも諦め切れず、二人を不憫に思った雪輝帝は、とんでもない餞別を用意した」

「何を贈ったんだ?」

 思わず釣り込まれ、先刻の苛立ちも怒りも忘れ去って、ファジルは好奇心に瞳を輝かせた。アイルレイズとセファド、対立する二人の王族の為に、嘗て帝国は巨大な動乱に揺れた。その壮大な悲劇の幕間に皇帝の私生児が関わっていたなど、まるで絵に描いたような英雄譚ではないか。

「雪輝帝は、グリイス王家の詔印を授けたのさ」

「詔印って、軍用鉄道のおっさんが話してた奴か」

「軍用鉄道のおっさんとは、随分と雑な覚え方だが、まあいい。詔印は、王家の血統に連なる者であることを示す宝物だ。王宮を逐われていく二人を庇護する為に、雪輝帝は詔印を贈ったのさ」

 パレミダは起き上がって寝台に胡坐を掻き、ガーシュに火を点けた。

「雷鳴戦争が始まると、フォンは何の前触れもなく、スヴァリカン要塞に姿を現した。十七歳の田舎臭い餓鬼の分際で、帝国義勇軍に加わりたい、ついてはセファド・グリイス閣下の謁見を賜りたいと言い出したんだ。そんなの、普通は罷り通る話じゃない。帝都を逐われた身とはいえ、閣下は歴とした帝子様なんだ。下々の人間が直に顔を合わせていい相手じゃない」

 地下の窖に身を置きながら、パレミダは瞼を閉じて遠い日の光景を思い浮かべた。国境地帯の乾いた西風が吹き抜ける、追い詰められた若君の唯一の城砦、スヴァリカン要塞。

「駄目だと突っ撥ねても、強情に謁見を求め続けるフォンに業を煮やして、誰かが管理長のアルファゲルを呼びに走った。それが、壮大な運命の始まりという訳さ」