サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 5

 西部地方の乾燥した大地には四六時中、砂埃が舞っている。帝国辺境管理軍の本拠地スヴァリカン要塞が立地する広大なカシュート平原も、その大半は茫漠たる曠野であり、樹木の類は、西端のティガル河流域まで足を運ばないと見られない。

「一体、その若造は何者なんだ」

 帝国辺境管理長のアルファゲルは、精悍な横顔を苛立ちに歪めて吐き捨てるように問い質した。月華館事件以来、それまで国境の治安さえ考えていれば済んだ彼の立場は、猛烈な激務に圧し掛かられ、破綻寸前の有様だ。訳の分からぬ雑事の為に一々呼び立てられたのでは、躰が幾つあっても足りない。

「分かりません。唯、恐ろしく腕は立ちます」

 ラシルドは簡潔に答えた。機嫌の悪い上官に、長ったらしい返事は禁物である。特にこのアルファゲルという紀兵官は、何事に関しても、迂遠を厭う。殉国隊の創設に際しても、人選に手間取った為に、ラシルドは上官の激昂を招いた。あんな思いは、何度も味わいたくはない。

「閣下への謁見など、とんでもない話だ。素性の知れん小僧の分際で、何を生意気な」

 思うさま罵ろうと開かれた口が、雨に打たれた小鳥の翼のように無言で畳まれた。要塞の中庭にある練兵場へ続く廊下の涯に、真昼の外光が深々と射している。軍服を纏った男が、不思議な身形の少年と、刀を構えて対峙しているのが見えた。驚くべきは、その少年の得物だ。背丈に不釣り合いな長尺の呪刀は、鞘を帯びたまま抜かれる気配もない。練兵場へ出たアルファゲルは、乱闘する二人の周りを見渡した。地面にだらしなく臥せった兵士の数は、既に十を下らない。

「あの小僧の仕業か」

 囁くように訊ねる声に、ラシルドは恥を忍んで頷いた。

「今、マルヴェが立ち合っておりますが、捻じ伏せるのに難渋しております」

「出自は」

「ゲッセナールから来た。それしか申しません」

「呪体士か」

「呪体術はおろか、見ての通り、鞘すら外しておりません」

 アルファゲルは改めて少年の風体を見直した。南部のバルジク人たちが纏う、サダラ麻の単袍(上半身と下半身を一繋がりに覆う衣服。上下が分かれているものは分袍と称する)ではない。帝都地方やクヴォール地方で一般的な分袍だが、手首や足首、腰回りを、鋼線の束で絞っている。生地はどうやら鳥獣の毛織物だ。

「マルヴェ! さっさと叩き伏せんか!」

 湧き上がる屈辱に息を詰まらせて、アルファゲルは怒鳴った。此れから雷声帝との苛烈な争いに打ち克たねばならないというのに、こんな少年に手間取っているようでは先行きが思い遣られる。

「分かってるさ」

 低い声で呟くマルヴェの顔には、大粒の汗が滲んでいた。見守るラシルドは、信じ難い思いを辛うじて喉首の辺りに押し留めていた。奇抜な恰好とは裏腹に、少年の顔立ちは純朴極まりない。手練のマルヴェを、鞘に納めたままの刀で往なせるほどの実力の持ち主には到底見えなかった。

「もう終わりにしませんか」

 不意に少年が口を開き、構えを解いて、刀をだらりと下げた。

「私は帝国義勇軍と敵対する為に来た訳ではありません。雷声帝を討つべく、共に戦いたいのです」

「だったら我儘は止せよ、小僧。閣下は御忙しいんだ」

「生き別れた弟と会う時間さえ、惜しいほどに?」

 その言葉を耳にした瞬間、アルファゲルは眼を見開いて叫んだ。

「マルヴェ、刀を退け! その小僧は」

「訳の分かんねえこと言ってんじゃねえぞ!」

 上官の叫びを掻き消すほどの大声を発して、マルヴェは大地を蹴った。思い切り振り抜いた呪刀の鋒鋩が、風鳴りと共に一閃する。

「ラシルド。お前、軍長の人選に悩んでいたな」

 アルファゲルはその驚くべき光景を凝視したまま、掠れた声で言った。

「あの少年、お前の部隊で引き取れるか」

 地面に立膝を突いた少年の頭上を、高々と撥ね上がったマルヴェの躰が飛び越していった。時が停まったように、誰もが言葉を失い、顔色を変える。砂埃を舞い上げて、背中から練兵場の地面に打ち付けられたマルヴェは、激痛に身を屈めながら咳き込んだ。

「あの小僧、いや、若君は」

 押し寄せる眩暈を振り払うように、アルファゲルは何度も首を振った。荒唐無稽な暴論だと嗤われたとしても、彼は己の見解を訂正する必要を認めなかった。

「恐らく、閣下の御聖弟だ。名はフォン・グリイス。殉国隊の首席軍長に、あの少年を充てろ。いいな、ラシルド」

 

「その男をガルノシュが捜してるのか」

 感心したように訊ねる一方で、突拍子もない作り話に踊らされているのではないかという疑念が胸底を掻き回す。雷鳴戦争の経緯さえも碌に知らなかったファジルの耳に、義勇軍の兵卒たちを十七歳の少年が鮮やかに叩き伏せたという逸話は、粗悪な贋金のように胡散臭く響いた。

「さっきも話した通り、フォンは王家の詔印を持っている。ガルノシュの眼には、雪輝帝が仕掛けた質の悪い罠のように見えるだろうな」

 二十年の星霜を閲して、繊弱な御令息から肚の読めない狡猾な政務官に変貌を遂げたガルノシュの歯咬みする顔を想像して、パレミダは溜まりに溜まった憤懣を少しだけ和らげた。無論、束の間の気晴らしに過ぎないが、行方を晦ましたフォン・グリイスが亡霊のように暴君の遺児の野心を小突き回していると思うと悪い気はしない。

「戦争が終わると、フォンはスヴァリカンへ現れたときと同じように、不意に跡形もなく姿を消した。恐らくはゲッセナールに帰ったんだろうが、あそこは余所者が容易く入り込める場所じゃない」

 レウ・パシニア地方南西部のドゥリガン山脈に広がるゲッセナール自治領は、土着のゲッセン人が支配する閉鎖的な地域で、峻険な岨道で辛うじて結ばれた集落は方々に点在しており、総てを虱潰しに暴いて回るのは骨の折れる作業だ。過去、幾度も軍務庁の精鋭が山間の村々へ侵入し、フォンの行方を突き止めようと奮闘したらしいが、何れも無惨な失敗に終わっている。中には屈強な自治領民に正体を見抜かれて拉致され、それきり消息を絶った者も少なくない。

「ガルノシュは、フォンの力を懼れている。妾腹と雖も王家の裔には違いないし、その剣腕は帝国義勇軍随一の誉れを誇ったほどだ。敵に回せば、此れほど厄介な相手はいない。王位の簒奪を狙って兵を挙げれば、二十年前の戦争と同じように不意に現れて、陛派の野望を砕きかねない。一刻も早く始末したいと思ってるだろう」

「凄い男だったんだな、そいつ」

 ファジルは溜息を吐いた。当時のマルヴェがどれほどの剣客であったのか、今の彼には知る由もないが、殉国隊の副長を務め、雷声帝の斬首さえも任された男が、十七歳の少年に易々と打ちのめされるなど、常識に反した光景であることは疑いを容れない。

「ガルノシュが殉国隊の掃討に着手した背景には、フォンの居所を白状させるという目的が潜んでいるのかも知れない。だとしたら、マルヴェとジェリハスは貴重な証人だ。何の手懸りも得られないうちに殺せば、主君の逆鱗に触れることは間違いない。苛立ちを堪えて、拷問に熱中しているだろうさ」

 命までは奪わないにせよ、苛烈な尋問が負傷した肉体に加える被害は大きい。如何に鍛え抜かれた心身の持ち主であっても、衰弱の極限からそのまま死の奈落へ落ち込まぬ保証はないが、その可能性を今、態々口に出して哀れな少年に告げる必要はない。

「安心しろと、言い切る積りはない。だが、希望を捨てる理由は、客観的に見ても存在しない。可能性に賭けるんだ、ファジル」

 励ましの言葉を重ね重ね浴びせられて、強張っていた感情が少しずつ解れていくのをファジルは感じた。パレミダの見解に一も二もなく賛同する訳ではないが、彼の厚意と気遣いを無下にするのも気が退ける。悪意を以て誑かそうとしているのではなく、飽く迄も絶望の深淵から救い出そうと力強い憐憫の情を発揮してくれているのだ。悲観的な想念に沈み込んでいくのも権利と言えば権利だが、何時までもそんな甘えに溺れたまま、泣き言を垂れ流してばかりもいられない。

「パレミダ」

 そのとき、不意に寝室の扉を押し開いて、眼つきの鋭い一組の男女が姿を現した。駱駝色の外套を羽織った背の高い男と、錆浅葱に染めた麻の分袍を纏った小柄な女の取り合わせである。思わずファジルは上体を屈めて身構え、腰の佩刀に手を伸ばした。呪刀の修錬は一向に進捗していないが、素性の知れぬ相手に丸腰で立ち向かうのは危険だと、徐々に躰が覚え始めているのだ。

「仮眠中に悪いな。今、偵察から戻った」

 口を開いた男の眼差しが、振り向いたファジルの瞳へ静かに突き刺さる。驚きも訝りもせず、淡々とした表情で全身を嘗め回すように眺める男の態度に、彼は若干の苛立ちを覚えた。

「君がファジルか」

 沈黙と観察を経て、男は一歩前に踏み出し、握手を求めて右手を差し出した。節榑立った逞しい指先と分厚い掌、外套を薄らと盛り上げる柄頭の輪郭、何れも市井の庶民ではないことをはっきりと物語っている。

「帝政監査委員会、筆頭書記官のシュダインだ」

「どうも」

 無愛想な声で返事をしながら握り返すと、シュダインは鋭利な眼光を幾分か和らげた。

「君の置かれている境遇には同情するよ。マルヴェ副長の御令息だと聞いている」

「御令息なんて、大したものじゃない」

 アルレーンが最初に見せた大袈裟な反応を思い出して、ファジルは反射的な不快に囚われた。誰も彼もファジルの顔を見るなり、英雄である父親の話を感無量といった調子で忙しなく語り始める。反発は無益だと頭では分かっていても、自分自身の存在を蔑ろにされているような感覚が拭えない。況してや、フォン・グリイスの華々しい武勇伝を聞かされた直後なのだ。何者でもない己を思い知らされて、複雑な感情が渦巻くのも止むを得ないであろう。

「安心してくれ。マルヴェは必ず助け出してみせる」

 力強く請け合うシュダインの言葉さえ、絶望を煽るだけの余計な激励に聞こえてしまう。彼に悪気はないのであろうが、此方としても安直な口車に載せられて頬を緩められるほど、純朴な人間である積りはない。

「何か収穫はあったか」

 気不味い空気を察したのか、パレミダが然り気なく二人の遣り取りに割って入った。生半可な慰藉や叱咤が何の稔りも齎さないことを、既に彼は学んでいるのだ。御蔭でシュダインの関心と眼差しが逸れたので、ファジルは黙って寝台の縁に腰掛け、靴を脱ぎに掛かった。此れ以上、得体の知れない連中と関わり合いになるには、疲れが溜まり過ぎている。パレミダの忠告に従って少しでも眠った方が賢明であるに違いない。

「異臭芬々たる噂を仕込んできたさ」

 シュダインは誇らしげに胸を反らして答えた。ファジルの秘められた反発に気付いた様子もない。英雄の息子ならば父親に深い尊敬の意を表するのが当然だと言わんばかりの態度から推し量るに、繊細な精神とは無縁のようだ。

「軍務庁のファイヴァル主席准掌と会ってきた。二人の拉致と符合する情報だ」

「御手柄だな、シュダイン」

 パレミダは灰皿を手許に惹き寄せてガーシュを揉み消し、直ぐに新しいものを銜えて火を点けた。

「二日前、リーダネン経由で二名の政治犯が帝都に移送されてきた。捕縛したのは帝都治安本部黒衣隊。罪人は直ぐに庁舎の医務室で治療を受けた。半死半生の状態だったらしい」

 半死半生で済んだなら、寧ろ有難いと思うべきなのかも知れない。アーガセスで目の当たりにした黒衣隊の手口は、防帝特権を笠に着た残虐なものであった。あのような乱行が罷り通ること自体、帝政の忌まわしき病変を暗示していると言える。

「身元の確認は?」

「取れていない。最近は准掌の耳にすら、帝都治安本部の内情は届かなくなっているらしい」

「秩序も何もあったものじゃないな」

 パレミダは眉間に指を押し当てて深い溜息を漏らした。ファイヴァルは戦時中、帝国義勇軍の砲兵統括本部長を務めた人物で、閣派の系譜に連なる重鎮だ。本来ならばアルファゲルの後釜に据えられるべきところを、ガルノシュの豪腕に引き立てられたアブワーズに攫われてしまった。その不条理な人事に危機感と憤懣を募らせていることは、パレミダも何度か本人から直に聞かされていた。

「二人の身柄は帝都治安本部庁舎内の査問所に閉じ込められたようだ。あそこがどんなに酷い場所か、聞いたことはあるだろう?」

「私設の刑場みたいなもんだろ」

「連日の拷問だ。殺されるよりも辛いだろうとファイヴァルは言ってたぜ」

「ファイヴァルの権限で差し止められないのか」

「無理だ」

 シュダインは苦渋に満ちた表情で大きく首を振ってみせた。

「防帝特権の詔印が効いている。主席准掌が異議を唱えても、アブワーズが頷かなければ取消を申し立てることすら覚束ない」

「何もかも連中の思う壺って訳か」

 思わず手近な壁に拳を叩きつけ、パレミダは呪詛に満ちた呟きを吐き出した。二十年前、春影帝が下した御聖断を、今更悔やんでも詮無いことだ。然し助命するならせめて、詔印を取り上げるくらいの措置は講じておくべきではなかったか。濫用される防帝特権の為にガルノシュの野望を阻むことが一層難しくなっている現状に、迫り上がる瞋恚を禁じ得ない。

「エスカルネ。そっちは何か掴めたか」

「あたしは、宮務庁帝兵隊のラムウスト帝兵長に話を聞いてきたわ」

 麻の分袍を纏った女は、明るい鳶色の瞳に真剣な光を湛えて言った。

「軍務庁に不穏な動きが出ているらしいの。スイアム宮務庁掌から帝兵隊に警戒命令が出てるわ」

「警戒命令? 具体的に、どういうことだ」

「サルヴァーニュ王宮に、退役した軍務官が数名、忍び込んだらしいの。大事には至らなかったけれど、宮務庁は大騒ぎだって」

「暗殺が目的か?」

「分からない。幾らなんでも、手口が御粗末過ぎるとは思うけれど」

「ガルノシュとの繋がりは?」

「それも確かな証拠は掴めていない。でも、ガルノシュが夏光帝陛下の暗殺を企てているという噂は、宮中にも知れ渡っているらしいわ」

 エスカルネの言う通り、二十年の蔑視と冷遇に堪え抜いて力を蓄えてきたガルノシュが、退役した軍務官を刺客に用いた揚句、帝兵隊に検束されるような愚挙に走るとは思われない。無関係な反乱分子の暴走と考えるのが妥当であろう。然しながら常時、厳重な警護が布かれている筈の王宮に不埒な暴徒の闖入を許してしまうとは、帝兵隊の怠慢を咎めるべきか、それとも帝都治安本部紫衣隊の謀略を疑うべきか、判断に苦しむところだ。

「何れにしても、宮務庁掌が陛下の身辺警護を強化するように帝兵長へ命じたことは事実よ。黒幕が誰であろうと、王宮の治安が乱れていることも間違いない」

「愈々、始まりそうな気配だな」

 シュダインの乾いた笑みに無言の同意を示しながら、パレミダはガーシュの煙を濛々と立ち昇らせて、思索の泥濘に少しずつ嵌まり込んでいった。