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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 6

 巡察士という職業は、緑邦帝国の急激な勃興の所産である。緑邦帝アルヴァの建国戦争から黒剣帝クセルーザの南方戦争に至る百年間は、黎明期の帝国に版図の爆発的な拡大を齎した。創設から間もない警務庁には、旧ボルゼエレ帝国に出没する夥しい罪人を残らず駆逐する能力はなく、相次ぐ外征に疲弊した軍務庁にも、警務庁を支援する余力はない。クセルーザの孫に当たる白獅帝タミュワン・グリイスは苦肉の策として、治安維持の外注という斬新な施策に踏み切った。罪人を捕縛した者に褒賞金を支払う制度を整え、国家の警察機能を補完しようと試みたのである。その制度は警務庁の規模が拡大し、その監視網が帝国全土に行き渡った現代でも、大都市を中心に運用が続いている。

 セファド内郭区、即ち「セファドの城壁」と「アイルレイズの城壁」に囲まれた地域の一角に、国内有数の規模を誇るイルファルタ巡察社は本局を構えていた。雷鳴戦争後、帝国義勇軍憂国隊の隊長であったイルファルタが、春影帝から直々に下賜された敷地である。彼女は広大な土地を無償で譲り受ける代わりに、城壁を隔てたアイルレイズ内郭区の戦犯向けの獄舎を監視し、脱獄や暴動を阻止するよう内々に詔命を享けた。

 春影帝の庇護を受けて成長したイルファルタ巡察社に対しては、嫉視ゆえの中傷を試みる輩も少なくなかったが、憂国隊の英雄の名声に憧れて入社を志望する巡察士は後を絶たない。御蔭で優秀な人材の確保に然したる労力を払わずに済んでおり、それが結果的に堅調な検挙実績を支えるという好循環を生み出し、警務庁や軍務庁の御偉方も彼らに一目置かざるを得なくなっていた。帝政監査委員会同様、帝国義勇軍の残党を礎石として成立した純然たる閣派組織であるにも拘らず、強権的な解散命令の通告を免かれているのも、その為である。

「突然帰って来て、こんな時間に俺を叩き起こすとは、どういう料簡だ、パレミダ」

 巡察部長のヒルガイトは、充血の酷い眼を見開いてパレミダを睨んだ。時計の針は、午前四時を指している。昼夜を問わず犯罪の抑止に努める稼業にとって、ささやかな愉しみである明け方の仮眠を妨げられて平然としていられるほど、温厚な性格ではない。

「緊急の用件なんです」

 答えるパレミダは、涼しい顔をしている。殉国隊の軍長として戦場を駆け巡った経験が活きているのか、ヒルガイトに詰め寄られたくらいでは動じた例がない。イルファルタに憧れ、眼を輝かせて入ってくる若手とは対蹠的な、微塵も愛嬌のない厄介な部下である。

「俺は忙しいんだよ。分かるだろう? 契約部が持って来た犯票がこんなに溜まってるんだ」

 ヒルガイトは卓上に山積みになった書類の束を指して喚き立てた。犯票とは、警務庁や軍務庁が巡察士に向けて公示する犯罪者の情報が記載された帳票のことである。巡察社は犯票に基づいて捜査に着手し、検挙した罪人の身柄と引き換えに褒賞金を受け取って生計を立てる。公示犯票の総数が減れば、限られた案件を複数の巡察社で奪い合うことになり、犯罪者の検挙という本務とは別に余計な仕事が増えることになる。イルファルタ巡察社のように信頼と実績のある大手ならば、担当する業者を指名して布告される内示犯票の件数も馬鹿にならないので、それほど動揺する必要もない。だが、昨今の忙しさは幾らなんでも異常だ。内示犯票を熟すだけでも手一杯なのに、引き受け手の見つからない公示犯票まで契約部が見境なく持ち帰って来るので、巡察部長のヒルガイトは週に一度くらいしか家族の顔を見られない状況が続いていた。

「協力してもらいたいことがあるんです」

 上司の癇癪を黙殺して、パレミダは言った。相変わらず、巡察部長の激務を労わるような殊勝な心掛は持ち合わせていないらしい。ヒルガイトは肩を竦めて、ガーシュに火を点けた。

「何だよ、改まって。頼みごとをする前に、先ず詫びを入れるのが常識じゃ」

「マルヴェとジェリハスが、黒衣隊に拉致されました」

「はあ?」

 ヒルガイトは思わず、煙を上げるガーシュを床に取り落とした。

「二人は帝都治安本部の査問所に監禁されています。彼らを助け出さなければならない」

「随分と急な話だな」

 拾い上げたガーシュの吸い口についた埃を指先で慎重に払いながら、頭の中身を整理する。マルヴェもジェリハスも、殉国隊の幹部として二十年前、雷声帝の虐政に幕を引いた閣派の英雄だ。その身柄が帝都治安本部の「黒狗」どもに攫われたとは、帝国の治安の悪化も愈々末期症状を呈しつつあると判断せざるを得ない。

「前後の文脈がよく分からないが、要するに何を貸して欲しいんだ」

「巡察士を全員、借りたいんです」

「お前、戦争でも始める積りか」

「その覚悟は出来ています。二十年前と同じ危機が、この国を蝕みつつあるのですから」

「落ち着けよ」

 ヒルガイトは苦り切った顔で煙を吐き出した。戦争なんて、二度と御免だ。砲弾の飛び交う荒れ果てた戦地に枕を延べて眠るくらいなら、徹夜で犯罪者を追い回している方が遥かに気楽であるに違いない。

「お前だけが先走って覚悟を固めたって、どうにもならんだろ。先ずは事情を説明しろ。貸すも貸さないも、話はそれからだ」

 パレミダが語り始めた事件の概略は、ヒルガイトを暗澹たる心境に追い遣る内容であった。何度も新しいガーシュに火を点け、煙を濛々と舞い上げる。猛然と頭を働かせても、導き出される答えは悉く、亡国の危殆を告げていた。

「それで、慌てて帝都に舞い戻ったという訳か。だが、戦争を仕掛けるのは流石に、拙速と言うべきだろうな」

「時間がないんです。怪我を負ったマルヴェとジェリハスが、黒衣隊の苛烈な尋問に何時までも堪えられる筈がない。救国の同志を、見す見す獄死させるんですか、部長」

「何度も言わせるな。落ち着くんだ。その滾り立つ脳味噌を、少しは冷ませ」

 無論、パレミダの焦躁は理解出来る。メレスヴェルの病死以来、帝都では陛派勢力の復権を匂わせる出来事が相次いできた。犯票を読んでいても、説明のつかない事件に出喰わすことが増えている。帝都の闇に紛れて、とんでもない悪事を算段する連中を、巡察士として放置する訳にはいかない。

「謀叛の動きがあるという噂は、俺も初耳じゃない。曲がりなりにも、帝都で一番デカい巡察社の巡察部長を務めてるんだ。不穏な空気は、肌で感じてるさ」

 ヒルガイトは分厚い書類の束に掌を載せた。近年、軍務庁や警務庁から届く犯票の数は右肩上がりだ。その背景に政情不安が控えていることは確かであろう。然し真因はそれだけではないのかも知れない。内なる権力抗争に脳天まで浸かった役人どもが、街頭の人殺しや盗人に関心を失っている可能性も、一概には排除し得ないのだ。

「だが、パレミダ。巡察士を全員動かして、帝都治安本部に殴り込むなんてことが、現実に可能だと思うか? そんなことしたら、軍も警察も黙っちゃいない。イルファルタ巡察社は破滅だ。お前だって分からない訳じゃないだろう?」

「軍も警察も、ガルノシュの手で骨抜きにされています。早晩、彼らと対決することは必至です」

「簡単に言ってくれるねえ」

 此れほど強情に、不合理な幻想に固執するパレミダを見るのは初めてであった。嘗て戦場で共に死線を潜り抜けた同胞の危機に、平静を保てなくなる心情は分からないではない。帝国義勇軍憂国隊の軍長としてイルファルタを支え、閣派の勝利の為に奔走した己の経験を顧みても、そのときに築いた強固な紐帯は今でも人生の樹幹として息衝いている。

 だが、心情と現実は区別して考えなければならない。雷鳴戦争から二十年が経ち、疲弊の顕著であった国軍も充分に再建された。彼らを相手取り、市井の巡察社が兵を起こすのは正気の沙汰ではない。掲げた大義が何であれ、公共の秩序を擾乱する逆賊の汚名を着せられ、討伐されるのは眼に見えている。そのような愚挙は却って、謀叛を企む陛派勢力を利することになるであろう。

イルファルタは何と言うだろうな)

 冷徹な合理主義者の仮面を被りながら、その胸底に諫めようのない直情を滾らせている憂国隊の英雄が、ヒルガイトの常識的な見解に与するとは限らなかった。こんな話を彼女の耳に入れるのは、危険な博打なのだ。だが国情の趨勢、そしてパレミダの切迫した胸中を思えば、巡察部長の権限で握り潰す訳にもいくまい。厄介な仕事がまた一つ増えたことに、彼は深い溜息を禁じ得なかった。もう直ぐ六歳になる娘は益々、薄汚い髭面で明け方に帰ってくる父親のことを「機嫌の悪い熊さん」として敬遠するようになるであろう。

「先ずは社長に相談だな。俺の一存では決められない」

 こうなることは予見していたのであろう。彼の答えに、パレミダは黙って頷いた。