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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第七章 叛徒の塒 7

 鏡に映った自分の顔は、随分と老いて見えた。脂の抜けた髪、皺の寄った眦、乾いた唇。思えば宮中に出入りする帝妾たちのように着飾ることもなければ、市井の女のように日々の身繕いを習慣とすることもない半生を過ごしてきた。仕事に没頭し、手入れを怠ってきた結果が、この顔なのだ。肉体の鍛錬なら人一倍重ねてきたから、姿態には自信がある。しなやかに伸びた四肢、引き締まった胴体、これは戦士の役得と呼ぶべきであろうか。だが、この自信も何時まで保てるか知れたものではない。長年酷使された肉体の随所に、癒し難い不調が生まれつつあることも明白な事実なのだ。

(仕方ないわね。自分で選んだ道なんだから)

 戦争が終わって二十年、牽獣の如く巡察士の仕事に熱中しているうちに、齢は五十を越えた。今更、嫁の貰い手も見つかりそうにない。憂国隊の英雄という栄光と、厳格極まりない仕事振りに、大抵の男は腰が退けてしまう。それを何とも思わずに来た所為で、今では恋人の作り方さえ忘れてしまった。未だ父が健在であった頃、北部氷域管理軍の官舎で、雪と氷に閉ざされた幼少期を送りながら、当時の彼女は人並みの幸福に憧れていた。仲の良かった両親のように愛する人と子を生し、平穏な家庭を築いて、静謐に老いていく生活。それは幼女の胸に宿った素朴な信仰であった。少なくとも外在的な権力に、幸福な家庭という偶像が容易に滅ぼされる現実を知るまでは。

 そのとき、扉を控えめに叩く音が聞こえ、イルファルタは束の間の追憶から眼を覚ました。反射的に時計の文字盤へ視線を送る。もう直ぐ午前五時、漆黒の夜空もそろそろ東端を日輪に紅く灼かれ始める頃合いだ。こんな時刻に扉を叩くなんて、随分と無粋な訪問者である。

「どうぞ」

 巡察部長のヒルガイトが、疲労の色濃い顔を扉の隙間から覗かせた。

「夜分に申し訳ありません、社長」

「いいのよ、ヒルガイト。眠れずにいたところだから、丁度いいわ」

 淡々と答えてから、ヒルガイトの背後に佇む人影を捉えて、イルファルタは僅かに眼差しを尖らせた。

「久し振りね、パレミダ。無断欠勤の釈明に来たの?」

 名を呼ばれた巡察士は臆することなく、素直に頭を下げてみせた。

「申し訳ありません、社長」

「帝監委の御引越が忙しかったのね。けれど貴方の本分が何か、心得ていない訳ではないでしょう」

 帝政監査委員会は先月、政府から一方的な解散命令を受けた。民間の政治結社でありながら、国家機密への不法な詮索を繰り返し、帝政を擾乱していると告発されたのである。その背後に、ガルノシュ・グリイスを首魁とする陛派勢力の暗躍があったことは歴然としていたが、誰も庁掌合議会の決定に逆らうことは出来ない。軍務庁の砲戦呪動車が出動し、セファド内郭区の帝監委本部は強制的に接収された。地上から一掃された帝監委の面々が、地下に潜って遽しい巣作りに着手したことは、イルファルタの耳にも届いている。だが、パレミダがイルファルタ巡察社に所属する正規の巡察士であることは明白な事実だ。上長たる自分に無断で課外活動に精励するのは、常識を欠いた振舞いと言わざるを得ない。

「理由はそれだけではありません、社長」

 面を上げたパレミダの瞳は、叱られた部下の殊勝さなど微塵も湛えていなかった。

「マルヴェとジェリハスが、黒衣隊に連れ去られました」

 意想外の答えに、イルファルタは思わず言葉を失った。

「彼らの目的は、殉国隊の残党の殲滅です」

「何故、そんなことになったのかしら」

「ガルノシュ・グリイスは、謀叛の準備として、閣派勢力の退場を図っているのです」

 イルファルタは爪を咬んで押し黙った。殉国隊のジェリハス参謀長が創設した帝政監査委員会は此れまで、イルファルタ巡察社と同じく春影帝の手厚い庇護を賜ってきた。形式や手法は異なれど、何れも陛派勢力の復権に対する防壁としての役割を自ら望んだ組織である。その帝監委に政府が解散を命じた時点で、国政の潮目が変わりつつあることは明白であったが、ガルノシュの毒手が、遠い昔に下野したマルヴェにまで及んでいるとは想定外だ。

「帝監委への弾圧も、殉国隊の残党狩りという意味合いを含んでいる訳ね」

「そうです」

「じゃあ、あたしも危ないかしら?」

 小首を傾げて、上目遣いに訊ねるイルファルタの真意を量りかねたのか、パレミダは答えなかった。

「殉国隊が狙われるなら、憂国隊だって同じことだわ。言い換えれば、帝監委が潰されるなら、この巡察社だって危ないということ。そう思わない?」

 何れ、こんな日が訪れるのではないかと思っていた。その不安は過去二十年間、遂に一度も消え去ることがなかった。だからこそ、ジェリハスは帝監委を創設したのだし、イルファルタはセファド内郭区に巨大な巡察社を構えたのだ。その不安が未来を予言していたことに、誇りを持つべきであろうか。いや、違う。分かっていたのに病弊を防げなかった。その無力と怠慢を、今は静かに恥じるべきであろう。

「ガルノシュを殺さなかったのが、最大の手抜かりね。何もかも、根こそぎ滅ぼしてやるべきだったんだわ。骨の欠片さえ残らぬように」

 立ち上がって、暗い窓辺を覗き込む。眼下に見下ろす義勇軍通りの静まり返った暗闇にも、ガルノシュの意を受けた軍務庁の刺客が潜伏しているのかも知れない。あのとき、助命など看過するべきではなかった。崩御した春影帝の御霊を鞭打つ訳にはいかないが、現実にガルノシュの叛意が鮮明になりつつある今、手遅れの述懐だと分かっていても、深甚な悔恨を口に出さずにはいられない。

「それで、何が望みなの、パレミダ。態々顔を出したからには、頼み事があるんでしょう」

「巡察士を全員、貸して下さい。マルヴェとジェリハスを、助け出さなければならない」

「本気で言ってるの、パレミダ」

 振り向かずに、イルファルタは言った。視界の涯に、闇に沈んだアイルレイズの城壁が映じる。あの巨大な城壁を幾つも跨いで、帝都治安本部に殴り込めば、この街並は火の海に変わるであろう。春影帝の善政が甦らせた帝都の繁栄を、再び灰燼に帰せしめるなど言語道断の所業だ。たとえ陛派の悪党どもが物蔭に潜んでいようとも、帝都に暮らす人々の平穏な日々を血に穢すのは、許されざる大罪である。

「本気です。今、あの二人を失う訳にはいかない」

「巡察士を総動員して、黒衣隊に喧嘩を売るのは、幾ら何でも得策じゃないと思いますね」

 見兼ねたヒルガイトが横槍を入れた。イルファルタが情に流されるのを危惧しているのであろう。相変わらず心配性の子分だ。戦場にいた頃から、この関係性は変わらない。

「大丈夫、ヒルガイト。私は冷静よ」

 イルファルタは振り返り、強訴するパレミダの顔を真直ぐに見凝め返した。

「悪いけれど、巡察士は貸せない。勝ち目のない戦いに、大きな犠牲を払う訳にはいかないの」

「社長」

 見開かれたパレミダの双眸に、劇しい怒りが燃え立った。

「マルヴェとジェリハスは、私にとっても大事な戦友よ。だからこそ、言わせてもらう。あの二人は、自分たちが助かる為に、帝都を焼け野原に変えようとは思わない。決して、そんなことは望まない筈よ」

「たとえ、あの二人が望まなくとも、世界はあの二人を必要としています」

「落ち着きなさい、パレミダ。頭を冷やした方がいいわ」

 彼の気持ちは、痛いほど分かる。けれど、今はその想いに寛容に接するべきではないと、イルファルタは考えた。感情に任せて後先も考えず兵を挙げるなど、将帥の倫理に悖る行為だ。

「何故なんですか、社長」

 熱り立つ感情を抑えられず、パレミダは喚き立てた。このまま戦友が黒衣隊の苛烈な尋問に晒され、刻々と衰弱していくのを、指を銜えて見過ごせと言うのか。

「ガルノシュは、春影帝に助命された恩義も忘れて、夏光帝の暗殺を企てています。その意図が、壮大な復讐であることは最早、明白だ。あの恩知らずの恥知らずに、何で救国の英雄と謳われた彼らが、殺されねばならないのか、俺には」

「ガルノシュにとって、春影帝は父親を殺した罪人よ」

 パレミダの吐露する切々たる情念を突き放すように、イルファルタは言い切った。

「陛下だけじゃない。雷声帝の斬首に携わったマルヴェとジェリハスも、彼の眼には極悪非道の大罪人と映るでしょう」

「随分と肩入れしますね」

 呪詛に似た言葉が、パレミダの口を衝いて出た。この期に及んで、ガルノシュの境遇を慮る義理などない。

「彼の気持ちが、私には分かるわ」

 激昂するパレミダとは対蹠的に静謐な口調で、イルファルタは呟いた。

「私の父は戦前、軍人だったの。北部氷域管理軍の管理長で、名はオヴェイク」

 閉ざした眼裏に、少女であった頃の記憶が甦る。うんざりするほど長く続く氷雪の冬。練兵場で行われる勇壮な軍事教練の掛け声。食堂で汗臭く屈強な軍務官たちに混じり、物怖じもせず懐いて戯れ合った、昼餉の時間。鋼鉄のように鍛え抜かれた筋骨を軍務のみならず、官舎の庭に並び立つ果樹へ、娘の華奢な指先を届かせる為にも、病弱な妻の歩行を助ける為にも用いた、背の高い父。もう随分と遠くなってしまった日々に、感傷を寄り添わせても無益だと知っている。だが、その風景が憂国隊の隊長として、或いはイルファルタ巡察社の社長としての自分を、今でも支えていることは確かであった。

「当時、北方のジルクラフ公国で、巨大な呪田が発見された。雷声帝は軍備増強の為に呪鉱資源を欲していて、国王のフィストリカ・ジルクラフに、呪田開発への協力を申し出たの。けれど、国王は首を縦に振らなかった。雷声帝の野心が見え透いていたんでしょう。それでも諦められない雷声帝は、北部氷域管理軍にジルクラフ公国への侵攻を命じた。呪田諸共、ジルクラフの国土を奪い取ろうと考えたのよ」

 幼い娘であったイルファルタには、呪田の利権を巡る政争や策謀など理解出来る由もなかったが、ジュレオ要塞の空気が一変したことは明瞭に覚えている。偏執的な野心に蝕まれた雷声帝の軍令を拒めば、血塗られた制裁は避け難い。然し穏健派であったオヴェイクは、雪輝帝の時代に帝国とジルクラフとの間で結ばれたキシルスカ相互不可侵協定への抵触を頑なに避けようとした。

「父は反対した。無闇な侵略行為は、国軍の理念に反すると言って抗命したの。直ぐに帝都への出頭命令が来て、父は黙って列車に乗り込んだ。母は泣いていたわ。夫が二度と家に帰って来ないことは、世事に疎い彼女にも分かったんでしょうね。父は、刑務庁本部の地下で、首と両手両脚を切断されて死んだ。雷声帝を恨むなと言われても、困っちゃうわね」

 パレミダは何も言わなかった。こんな話を聞かされたら、彼の立場では何も言えなくなるのが当然だ。そう思うと己の卑怯な手口が、急に気恥ずかしくなった。

「まあ、あたしの昔話は措いといて、本題に戻りましょうか。ガルノシュは、閣派への恨みを晴らそうと考えている。その為に、色々と不穏な策動を続けている。アブワーズを軍務庁掌に就けるなんて、露骨な遣り方で吃驚したわ。それぐらい、夏光帝の権威が衰退してるってことなんでしょうけど」

「ガルノシュの謀略は筋金入りですからね、若い夏光帝では抑え切れない。メレスヴェルが死に、アルファゲルが辺境へ追放されたのは、明らかに謀叛への布石です。帝都から、徐々に閣派勢力の幹部たちを排除しつつある。軍務庁をアブワーズに仕切らせて、帝都治安本部まで抑えてしまえば、夏光帝を殺すのは、技術的には簡単なことですね」

 ヒルガイトの分析に、イルファルタは無言で頷いた。

「そして、マルヴェとジェリハスが捕縛された。今頃は、どんな扱いを受けているのかしら」

「笑い事ではありません」

「茶化した訳じゃないわ。黒衣隊の残忍さは、あたしだって知ってる。憂国隊にいた頃から、彼らの汚い手口は何度も見てきた」

 イルファルタの翡翠色の瞳が、諭すような光を湛えた。

「貴方の焦りはよく分かる。けれど、軍務庁がガルノシュに抑えられている以上、帝都の真ん中で刃向かっても、勝ち目はない。見せしめに、可能な限り残酷な方法で処刑されて、グリイス広場に晒されるのが落ちだわ。それでは、ガルノシュの私怨を満足させるだけ」

 イルファルタの言い分は、尤もであった。帝国随一の巡察社と雖も、官軍を撃破するには圧倒的に規模が足りない。政府の命令に叛いて帝都を擾乱する逆賊と指弾され、斬首されるのは確実だ。感情が鎮まるに連れて、そうした現実の重みが、パレミダの総身に行き渡っていった。悔しいが、この切迫した状況を一挙に覆す方法は、どうやら見当たらないようだ。

 窓に眼を遣ると、東天の縁が僅かに白み始めていた。夜明けまで議論を重ねても、現実は何一つ変わらない。だが、語り合わなければ、この変わらない現実に一石を投じることさえ覚束ない。もう一度、イルファルタを振り返る。落ち着いた彼女の表情は、抑え難い憎しみに錘を結んで沈めろと、無言で告げているように見えた。