サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第八章 古びた呪刀 2

 徐々に日の傾き始めたコントラ湾の穏やかな海面に、その巨大な艦影は如何にも不釣り合いな無骨さと威圧感を備え、異彩を放っていた。海神グリーフの遺した旧式の呪鉱船とは比べ物にならない体積を持ち、舳先から船尾までの全周を厳めしい艦載砲で飾り立てた黒塗りの船体は、劇しい水飛沫を掻き立てながら刻一刻と肉迫しつつあった。

「航行を停止せよ。我々は帝国沿岸管理軍チェデス要塞艦隊部である。速やかに航行を停止せよ」

 洋上に鳴り響く拡声器越しの警告に、カゲイロンは露骨に顔を歪めて舌打ちした。

「畜生、とんでもねえ大物の御出ましだぜ」

「こいつは分が悪いな」

 白刃の血糊を手巾で乱暴に拭いながら、エトルースも忌々しげに眉を顰める。

「こんなところに、何でチェデスの軍艦が出張してるんだ?」

「俺たちが海路で逃げるのを予期していたのかも知れんな」

「退屈な鼠捕りに、随分と贅沢な玩具を持ち出すじゃねえか」

「それだけ重要な問題ってことだ。堂々と殉国隊の名乗りを上げるから、こんな眼に遭うんだ」

 ヴォルト・アクシアのモレスティン要塞に本陣を布く帝国沿岸管理軍は、セゾルニア洋を主戦場として帝国の海防を一身に担う艦隊戦の精鋭たちの集団である。彼らのもう一つの重要な拠点であるチェデス要塞は、ディラム湾に面した港町カリスタの近在に位置している。元来、帝国東部の沿海州を防備する目的で設立された組織ゆえに、演習もディラム湾以東の海域で実施することが通例となっている彼らの艦隊が、バルフェル地峡を横断する運河を渡ってコントラ湾へ乗り入れることは珍しい。

「繰り返し通告する。我々は帝国沿岸管理軍チェデス要塞部である。速やかに航行を停止せよ」

「うるせえな」

 頬の内側に苛立ちの滲む声を反響させながら、カゲイロンは再び呪刀の柄へ掛けた指に力を籠めた。仰ぎ見る軍艦の甲板には、巡視艇の警務官とは桁違いの重装備で身を固めた本職の殺し屋たちが十余名も雁首を揃えている。管理軍の艦隊部は熾烈な選抜に勝ち残った腕利きの水兵で占められており、劇しい波濤に揺さ振られる船上での白兵戦にも熟達している。有象無象の雑魚と鍔迫り合いを演じるような気分で立ち向かうのは危険な相手だ。負ける気はしないが、操舵室へ狙いを転じた狡猾な警務官の首根っこを捕まえに行く余裕はない。

「国軍の艦艇より発せられた停止命令を黙殺することは、重大なる海洋保安法違反事項である。速やかに航行を停止せよ」

「文句があるなら、あの死に損ないに言ってくれ」

 耳を打つような海風が甲板を吹き抜け、細かな海水の飛沫が襲い掛かる。随分と乱暴な操舵は、あの老婆が帝国沿岸管理軍の圧倒的な威光に膝を屈する意思を微塵も持ち合わせていないことの反映であろう。その命知らずで狷介な方針に、カゲイロンも異論を唱える積りはなかった。

「不審船に通告する。停止命令に服さないものと判断し、此れより海洋保安法に基づく強制収用に着手する」

 燕のように空を駆け抜ける潮風の騒めきを圧して、肩肘の張った最後通牒が哀れな呪鉱船の船縁へ届いた。急激に加速する軍艦の横腹が眼前へ差し迫り、鉄黒色の下地へ鮮やかな黄と目映い白で描かれた帝国沿岸管理軍の紋章が視界の中心を刺し貫く。八方に角の突き出した菱の実のような形の錨が荒々しく投じられ、伸び切った鋼索が耳障りな音を立てて舷側の手摺を削り取った。

「サルファン、そっちはお前に任せるぞ!」

 カゲイロンの大音声が甲板の空気を揺さ振って響き渡り、喉を乾上がらせて夢中で駆けるサルファンの背中へ押し寄せた。開け放たれた操舵室の扉を真直ぐに睨み据えたまま、辛うじて左手を掲げて承諾の合図を送る。何か気の利いた科白でも絡めて、俺に任せておけと切り返す余裕は生憎持ち合わせていない。窮地に立たされる老婆の為に自分の存在が役立つという確信もないのだ。腰帯の金具に結わえた呪刀の揺れる鈍重な感触が膝頭や脛へ触れる度に、刀術の初歩すら身に着けていない己の無力が呪わしく思われてならなかった。

(だが、今更引き返す訳にはいかないんだ)

 イスナの繊弱な寝顔が眼裏へ甦り、頼りなく揺らぎ始めた決意が再び厳冬の湖面のように鋭く引き締まる。握り締めた呪刀が如何に不慣れな異物の手応えを湛えていようとも、戦いの不安に怯えて投げ出すことは許されない。甲板を蹴立てて操舵室の中へ駆け込むと、青筋を立てて罵声を放つ警務官の背中が眼前に現れた。

「船を停めろ! 大人しく従えば、命までは奪わない」

「騒々しい男だね」

 警務官の突き付ける軍刀の鋒鋩を一瞥しても全く動じた様子を見せず、老婆は舵輪を握ったまま涼しい顔で言ってのけた。

「こんな老い耄れ相手に、刀を振り翳して喚き立てるのかい。警務官は帝国臣民の味方じゃないのかい」

「黙れ、死に損ないが」

 興奮した警務官の耳に、老婆の冷淡な皮肉は余り効果を示さなかった。正眼に構えた白刃は猛り立つように顫え続け、気忙しい蜜蜂のように鋒鋩が右へ左へ危うげに傾ぐ。

「そんなに慌てなくても大丈夫さ。逃げも隠れもしないよ」

 赤児を宥めるような物柔らかな口調で言いながら、老婆は警務官の背後に佇むサルファンへ然り気なく視線を送った。目顔で、この隙に仕掛けろと教唆している。操舵室の外からは劇しい剣戟の音が聞こえ、甲板を踏み荒らす軍靴の苛立たしげな音がそれに混じっていた。叩き伏せるなら、この一瞬の空隙を狙うしかないことは瞭然としている。曲がりなりにも錬守校で本格的な教練を受けた警務官を相手に、素人の自分が万に一つの勝機を見出す為には、威風堂々たる正攻法に固執する訳にはいかないのだ。躊躇いがちな指先を叱咤して呪刀の柄へ手を伸ばし、静かに握り締める。意を決してゆっくり引き抜くと、重厚で滑らかな手応えが肘や肩まで伝わった。鞘も鐔も古びているが、露わになった刃は研ぎ澄まして油を引いたばかりのような美しさを保っている。頭に血の上った愚かな警務官は、背後の敵に気付いていない。

(遣るしかないんだ)

 見様見真似で正眼に構えた呪刀の鋒鋩を、警務官の背筋へ向けて定める。不慣れな決断を迫られて一層酷くなるばかりの逡巡が、指先を冷え切った鋼のように硬く竦ませていた。港町のイシュマールで、血気盛んな船員たちの血みどろの喧嘩は幾度も目撃したし、自分自身、他人と拳を交えた経験は皆無ではない。然し閲してきた歳月の長さを、そのまま折り畳んで一筋の刃に凝縮したかのような呪刀の荘厳な重みに触れると、生半可な気の荒さでは御し遂せない陰惨な暴力の臭気に噎せ返りそうになってしまう。

「坊や」

 そのとき、老婆が総てを見透かすような落ち着いた瞳に、穏和な光を湛えて懶げに言い放った。

「思い切って遣るんだよ。あんた、男だろ」

 振り向いた警務官の血走った眼が、背後に立つサルファンの顔を捉えた。視線が交錯し、膨張した敵意が動脈を斬り捌かれたように堰を切って氾濫する。野蛮な喊声を上げて振り翳した白刃に、硝子窓を貫いて鋭利な陽射しが煌くと同時に、警務官の顔面に縦一文字の影が伸び、驚愕と恐怖に歪んだ哀れな眼球が極限まで見開かれた。その一条の陰翳を辿るように渾身の力で振り抜くと、鈍重な手応えが迫り上がると共に、鼓膜を劈くような凄まじい絶叫が迸り、操舵室の内壁を殴りつけるように響き渡った。

 頑なに引き絞った瞼を恐る恐る開くと、額から鼻梁を斜めに断ち割られた男が操舵室の床へ仰け反って倒れ込み、眩しい鮮紅色の血溜りを押し広げるように悶えていた。両手の指が傷口を塞ぐように鼻筋を押えても、決壊した堤防に土嚢を抛り込むような無力さで、流れ出す血を押し留めることが出来ない。殺戮の手応えに高揚した眼差しがその陰惨な光景を捉えた瞬間、柄を握り締めるサルファンの指先に再び力が漲った。未だ、生きている。仕留めなければ、殺される。迫り上がる恐懼に衝き動かされて踏み込み、操舵室の高い天井へ届かんばかりに掲げた呪刀を逆手に持って、落雷の如く垂直に振り下ろす。鋭利な鋒鋩は柔らかな春泥を突き破るように胸板へ食い入り、瞬く間に分厚い肉と脂肪の層を貫いて床板へ突き刺さった。

(終わった)

 墓標の如く聳え立つ呪刀の柄に縋り、肩を上下させて荒い息を吐く。刺し貫かれた警務官の肉体は暫く蝦のように無惨な痙攣を繰り返していたが、軈て双眸が光を失うと同時にその僅かな身動ぎも鎮まっていった。床板の木目へ染み込んでいく血溜りの鮮烈な色彩が視界の中心を濡らしていく。本当に殺してしまった。俺が、この手で、こいつを殺したんだ。罪悪感より、自分にも人を殺す力が備わっているのだという発見の齎す高揚と驚嘆が勝っていて、暴力の行使に付き纏う筈の当惑や恐懼は奇妙なほど湧いて来なかった。

「上出来だよ。根性あるじゃないか」

 顔を上げると、穏やかな老婆の微笑が眼に入った。生々しい殺戮の光景にも一向に動じた気配を見せないのは流石の貫禄と言うべきであろう。

「軍艦の錨に引き摺られちまって、舵輪が勝手に回るんだ。年寄りのひ弱な手で押さえつけるには、限度があるよ」

 老婆の背後で、舵輪が右へ左へ速度を増したり緩めたりしながら自在な回転を続けている。呪動機の性能が段違いである以上、鋼索で繋がれた飼い犬のようなグリーフの形見に抵抗の余地はない。すっかり操舵を諦めた老婆は、天井を仰いだまま無惨に事切れた若い警務官の骸に屈み込み、枯れ枝のような指でその瞼を閉ざしてやった。

「若い者が死ななきゃならない世の中ってのは窮屈だし、不憫だね」

 杖に縋って、曲がった腰を慎重に持ち上げた老婆の眼差しが、サルファンの掴んだ呪刀へ触れた。

「抜いておやりな。どんな罪も死ねば消え去るもんさ。骸を辱めるのは戦士の道徳に反することだよ」

 悪い夢から不意に目覚めたように、サルファンは慌てて男の胸板を貫いた呪刀を引き抜いた。撚れた筋肉と尖った肋骨に刃先が引っ掛かり、暫く格闘を強いられたが、その間も事切れた肉体は何の抵抗も示さず永遠の沈黙の暗がりへ沈み込んだままであった。

「船長室へ入ったんだね。あんまり家探しなんかするもんじゃないよ」

 時間の彼方へ消えかかった記憶の名残を懐かしみ慈しむように、老婆の指先が呪刀の刃文を優しく辿った。余程の名工が鍛造した逸品なのか、厚手の警袍(警務官の制服)と人の生身を刺し貫き抉り抜いた後でも、滑らかな輪郭には微塵の刃毀れも見当たらない。

「これは、あたしの旦那の使ってた呪刀だよ。ヴェロヌスの腕利きの呪工士が、無償で作ってくれたのさ」

 矢張り、海神グリーフの形見だったのか。サルファンは血塗れの刃を改めて見凝めた。窓から射し込む光を浴びて、それは淡い青色に輝いて見えた。

「あんた、自分の刀は持ってないのかい」

「持ってない」

「丸腰じゃこの先、不便だろう。その呪刀、あんたに呉れてやるよ」

「この刀を?」

「何だい、不満なのかい。海神に捧げられた特注品だよ。百万積んだって買えない代物なんだ。拵えた鍛冶屋も、今じゃ棺桶の中さ」

「不満じゃない。でも、大切な形見なんだろう」

「刀は飾りもんじゃない。誰かに使ってもらわなきゃ、錆びちまうだろ」

「だけど俺は、人殺しなんか本当は」

「したくないんだろう。そりゃ言われなくても分かってるよ。だけどね、あんた。あの娘が誰かに殺されそうになっても、手を拱いて見物するのかい?」

 魂の奥底まで見透かすような底意地の悪い視線が、サルファンの顔を舐め回した。御節介な老婆に態々確かめてもらわずとも、イスナを守り抜くという決意は既に固まっている。本職の警務官を斬り伏せた血腥い手応えも、その決意を更に鍛え上げ、磨き抜く為の恰好の材料であった。淡い青色に輝く刃は、きちんと拭った訳でもないのに何時しか血糊を払って、艶やかな輝きを取り戻していた。此れほどの名刀を、流氓の身の上となった哀れな孤児が手に入れられる機会は、金輪際巡って来ないに違いない。

「あたしも先は長くない。遠からず、冥土でグリーフと所帯を構えるだろうさ。形見を惜しんで暮らすのは、もう充分だよ。あんたが使いな。少しは役に立つこともあるだろう」

 紺碧の海洋に呪鉱船を駆り立て、血塗れの刀を揮って多くの人間を殺し、自分自身、何度も殺されかかった英雄の黒々とした影絵が眼裏に浮かび上がった。誰かに襲われたとき、丸腰のまま、何の抵抗も示さずに屠られていく俺の姿を見たら、イスナはどう思うだろう。きっと底知れぬ絶望の泥濘に呑まれ、冥宮の眷属に心まで犯されてしまうに違いない。俺が死ねば、イスナは愈々本当に天涯孤独の窮境へ陥る。そのような惨劇を回避する為には、このグリーフの形見は力強い援軍の役割を担ってくれるであろうと思われた。

「大切な人を守る為に、この刀、貰い受けます」

 覚悟を決めて申し出たサルファンの真摯な表情を愉しむように、老婆は静かに微笑んで頷いた。

「グリーフみたいに素敵な男になっておくれよ。冥土で愉しみにしてるからね、坊や」