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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第八章 古びた呪刀 3

創作「刃皇紀」

「全く年寄りってのは大したもんだぜ。こんなオンボロの泥舟で、最新鋭の軍艦を振り切っちまうんだからな」

 不覚にも右肩に蒙ってしまった浅い刀創に繃帯を巻いてもらいながら、カゲイロンは舵輪を握り締める老婆の痩せた背中を眺めた。

「何を言ってるんだい。あの頑丈な鋼索を一撃で断ち切ったあんたの馬鹿力にも、こっちゃ溜息が出たよ」

「気味の悪い褒め殺しは止めておけ」

 繃帯をきつく引っ張って締め上げながら、エトルースが冷淡な嘆声を漏らした。軍艦から飛び移ってきた選り抜きの水兵相手に大立ち回りを演じ、瞬く間に全員を叩きのめして甲板へ卒倒させたところまでは良かったが、錨を繋いだ鋼索を腕尽くで断ち切った衝撃で船体が平衡を失い、そこに老婆の手荒な操舵が加わった所為で危うく難破の悲運に見舞われかけたのだ。旧式の呪動機に酷薄なほどの負荷を強いて軍艦の追撃を振り切る際にも、態々濁流の渦巻く暗礁地帯を選んで航走するものだから、船腹に度々毒牙のような巌が擦れて竜骨が軋み、遠い現役時代にも数えるほどしか味わったことのない「肝を冷やすような」経験に何度も背筋を凍らせる羽目に陥った彼の機嫌は、限りなく最悪に近かった。

「何時まで臍を曲げてるんだ、エトルース。あの娘なんか、荒くれ婆の操舵にも構わず、船底で昏々と眠り続けてたんだぜ。立派なもんじゃないか。豪胆振りを見習ったらどうだ」

「余計な御世話だ。大体、お前がイシュマールの警事局で偉そうに殉国隊の名乗りなんか上げるから、追撃が大掛かりになったんだろう」

「おいおい、過ぎたことを根に持つのは男の沽券に関わるぜ」

「喧しい。お前に男の美学を教えてもらう筋合いはないぞ」

 そろそろ見慣れてきた二人の罪のない掛け合いに片耳だけ預けながら、サルファンは綺麗に洗った筈の掌に凝と視線を落としていた。何時もと変わらぬ、火傷の痕がちらほら見える節榑立った自分の手だ。そこには、あの血塗られた格闘の残滓など欠片ほども見当たらない。

「どうしたの?」

 傍らに寄り添うイスナの瞳が、恋人の奇妙な振舞いに敏感な視線を向ける。劇しい乱戦の間、船長室の幅広な寝台で昏々と眠り続けていた彼女の網膜に、獣のように吼え立てる警務官の形相や、斬り伏せられた骸から滲み出る深紅の血溜りが映じる機会は遂になかった。その幸運を打ち砕くような真似は絶対に避けねばならない。静かに拳を握り締めて、普段と変わらぬ穏やかな相貌を意図的に作り出す。

「何でもない。早くヴェロヌスへ着くといいな」

「もう直ぐだよ、安心しな」

 老婆の嗄れ声が背後から野太く響き、イスナの瞳は操舵室の窓越しに広がる海原へ焦点を転じた。日没は刻一刻と迫り、西の空へ身を投げ出しつつある太陽は茜色に染まって燦然と揺らめいている。その足許に横たわる陸地の影が、恐らくはコントラ湾に突き出した海運の要衝、ヴェロナ半島であろう。

 半島の南端に位置する工業都市ヴェロヌスは、国内有数の商港を兼ねている。夥しい数の貨物船が積み出すのは、ヴェロヌスが誇る多彩で高品質な呪工品で、その販路は帝国全土に及ぶ。クヴォール帝国の時代から培われてきた伝統の技術と、半島北部のノルド連峰から運ばれる豊富な呪鉱資源が、工業都市ヴェロヌスの名声を支える礎である。そして、呪工品の輸出が齎す莫大な富は、当地を治めるヴェロナ公家の財政を潤し、その政治的威信を大いに浮揚していた。

「良くも悪くも、役人の船を振り切っちまったんだ。手配書は直ぐに回るだろ。表玄関から、堂々と陸に上がる訳にはいかないね」

 老婆の抜け目ない提案で、船はヴェロヌス港への直行を避け、半島の西側に回り込むべく舵を切った。入り組んだ湾岸線が連なり、大小無数の暗礁が眠る半島西岸のクリーメラ海域は、大型船の航行に適していない。砲門をぐるりと揃えた軍艦の追跡を免かれるには丁度いい環境である。老婆の巧みな操縦で、古びた呪鉱艦は海面に没した巌の牙を易々と避け、日輪が水平線の懐へ九割がた没した頃、鄙びた砂浜に悠然と接岸した。

「この近くに、タネスという漁村がある。獣車を借りて、ヴェロヌスへ向かいな」

 舷側から身を乗り出した老婆は、砂浜へ降り立った一行の背中に向けて、潮風に負けぬよう大声を張り上げた。

「精々、気を付けるんだよ。警務官が、腹を空かした犬みたいに嗅ぎ回ってる筈だからね」

「分かってる。世話になったな、婆さん」

「グリーフに良い土産話が出来て嬉しいよ。頑張って生き延びるんだ。あんたらは未だ若いんだからね」

 残照に染まる海原を、呪鉱船の舳が悠然と掻き分ける。その後ろ姿が岩場の蔭に消えるのを見送ってから、一行は冷え込み始めた海辺を離れ、漁村の中心部へ向かった。

「此れからどうする積りなんだ?」

 不慣れな佩刀の重さを持て余しながら、サルファンは先を往くカゲイロンに問いを発した。コントラ湾の洋上で警務官と軍務官を纏めて屠った直後なのだ。鄙びた漁村を経由したぐらいで、熱り立つ彼らの追尾を完全に免がれることは難しい相談であろう。

「俺とエトルースは帝都へ行かなきゃならねえ。ヴェロヌスから山越えの列車に乗るのが手っ取り早いな」

 砂浜から海岸に沿って走る踏み固められた土の道を歩きながら、カゲイロンは潮風に眼を細めて言った。

「俺たちはどうすればいい」

「ヴェロヌスに残っても構わん。但し、揉め事が起きちまったからな。ヴェロヌスも安全とは言えねえだろう。何しろ、警務官殺しの犯人だ」

「ヴェロヌスへ行けば、匿ってもらえるんじゃなかったのか」

「公家に頼めば匿ってもらえるかもしれねえが、危険は危険だ」

「何だよ、それ。前に言ってたことと全然食い違ってるじゃないか!」

 サルファンの突発的な大声に、痩せた耕土へ鍬を振り下ろした農夫が怪訝な顔で振り返った。慌てて黙らせようと、カゲイロンの野太い腕がサルファンの首筋へ大蛇の如く絡みつく。

「目立つ真似は止せ。俺らは御尋ね者なんだ」

「だって、あんたが」

 反駁を試みた途端、頑丈な腕の筋肉が盛り上がり、喉笛を締め付けられたサルファンは息を詰まらせて絶句した。

「政府が腐っても、ヴェロナ公家が健在である限り、ヴェロヌスの秩序は保たれる。此れは所謂『希望的観測』だ。宗教みてえなもんだな。当たり前の話だが、お前が死ぬまでヴェロヌスが、安住の地であり続けられると思うか? 国情は悪化する一方だ。神憑りの強さを誇る俺様だって、明日には路傍の雑草を繁らせる肥しとなってるかもしれねえ」

「俺様って何様だよ、馬鹿馬鹿しい」

 苦し紛れに叩いた憎まれ口の所為で、サルファンは失神する寸前まで締め上げられた。

「とりあえず、ヴェロヌスから列車に乗って北へ向かう。ノルド連峰を越えちまえば、帝都までは半日ぐらいで行ける。ヴェロヌスは産業の要衝だから、列車の本数には事欠かねえ。瞬きする間に帝都へ御到着だ」

 貧相な酒場で知り合った貿易商の獣車に便乗させてもらい、一行はヴェロヌスへ向けて旅立った。タネスからヴェロヌスまでは、獣車で二時間ほどの道程である。月明かりを浴びて静まり返る緩やかな丘陵を幾つも越えて、シカルド峠の頂上まで辿り着くと、宝石を鏤めたように光り輝く市街地の夜景が視界を埋め尽くして、彼らを陶然とさせた。

「凄く綺麗ね。あれがヴェロヌスなの」

 客車の窓から顔を突き出して、吹き抜ける夜風に髪を嬲らせながら、嘆息するようにイスナが訊ねた。

「船乗りどもは『コントラ湾の宝珠』と呼んでるくらいだ。素晴らしい眺めだろ」

 ヴェランデール高原の麓から海岸線に向かって開けた扇状地に街衢(がいく)を連ねるヴェロヌスの中心部には、城壁で囲われたヴェロナ公家の私有地が広がり、その南側には民家や商家が所狭しと軒を連ねている。城壁の北側には工場の群れが濛々たる煙を上げて稼働しており、一行が降り立った北西のラデン門広場にも、その騒音は届いていた。

「帝都行きの最終列車はもう終わっちまってる。とりあえず、適当な宿を見付けて夜を明かすぞ」

 国内随一の呪工品生産高を誇るヴェロヌスには、帝国全土から商人が買い付けに訪れる。そういった客を当て込んで、夥しい数の宿屋が繁盛しており、別けてもラデン門広場の界隈は、北側の工場地帯に程近く、獣車場があって交通の便も良いことから、屈指の競合地域となっていた。

 コントラ湾に突き出したヴェロナ半島は、大まかに言って、二つの文化圏に分かれている。首府ヴェロヌスを中心とするレウ・ヴェロナ地方と、半島の付け根にあたるノルド連峰を中心としたノルダーテン地方である。嘗てヴェロナ半島は、漁撈や交易に長けた海洋民族である南のヴィアロン人と、鉱業や林業に従事する北のノルディス人に分有されていた。ゴーダル人の建国したクヴォール帝国が半島に侵略の牙を剥いたとき、ヴィアロン人の首長は恭順を示したが、ノルディス人たちは徹底抗戦を貫いた。ゴーダル人とヴィアロン人の連合軍に攻め立てられ、北の民が服属を強いられた後、帝国はヴィアロン人の首長に半島の自治権を認めた。現在のヴェロナ公家は、その首長の末裔である。

 ヴェロナ公家は、ノルディス人たちの採掘する豊富な呪鉱資源を収奪した。固より海路の要衝であったヴェロヌスには、大陸各地から多様な人材が流れ込んでおり、ゴーダル人やバルジク人の齎した技術の集積を下地に、呪工学の研究が進んでいた。そこへノルダーテン地方の良質な呪鉱石が供給されることで、当地の呪工業は爆発的な発展を遂げた。

 ラデン門広場に程近い安宿で一夜を明かすと、彼らは城壁の真北に位置するリガン門広場へ向かった。ラデンもリガンも共に、ヴェロヌス草創期の首長の名である。ノルディス人を抑え込んで、半島の王者になった歴代のヴィアロン人首長たちは、クヴォール帝国を治めるゴーダル人の支配階級に憧れ、その洗練された文化を模倣した。城門の、直線を多用した剛健な装飾も、ヴェロヌス駅の屋根に施された波形の優美な装飾も、当時のヴォルト・アクシアで流行した様式を取り入れたものである。首長の子弟はヴォルト・アクシアへの遊学を自慢し、流麗なザーク語で政治を論じ、芸術を語ることを好んだ。

 リガン門広場に聳え立つヴェロヌス駅には十本の乗降場があり、そのうちの八本が貨物、残りの二本が旅客に充てられている。駅舎の地下にある三本の乗降場は、軍用鉄道の所有である。駅前のリガン門広場には、ラデン門広場と同じく獣車の発着場があり、馬の嘶く声が朝焼けの空を飛び交っていた。軒を連ねる屋台から流れ出す食べ物の匂いが、初秋の涼風に乗って、人々の胃袋を蠱惑的に擽る。運務官たちの権高な指示に基づいて、逞しい人夫たちが、貨物線の乗降場に届いた荷物を獣車に積み込んでいく。その大半は、ノルダーテンから運ばれた呪鉱石であり、四頭立てのバラファ(呪鉱石を運搬する為の軌道用獣車。巨大な箱型の荷車を、複数の牽獣で動かす)が、大きな車輪を軋ませながら、街路の中央に敷設された軌道を辿って、市内の工場へ搬入して回るのだ。

 四人は切符を買い、改札を抜けた。彼らが乗り込んだのは、ヴェロヌスを出て、北のノルド連峰を越え、帝都アルヴァ・グリイスの帝国中央駅に向かう列車であった。物売りからヴァルフム茶を買い、列車の出発を待つ間、カゲイロンとエトルースは絶えず車内の様子に眼を光らせ、乗降場を行き交う人の流れに追手が紛れていないか、警戒を続けた。

「警事局の連中に見つかる前に此処を出ねえと、面倒なことになるからな」

 幸い、警務官に見咎められる前に列車は定刻を迎え、ヴェロヌス駅を離れた。サルファンとイスナにとっては、初めて経験する鉄路の旅である。緩やかな丘陵地帯を越え、半島中部のグリモール平原に入ると、広大な牧草地が開けた。バラファの牽獣に用いられる牛馬たちが、朝の陽射しを浴びながら、黙々と草を食んでいる。イシュマールで生まれ育った二人には、新鮮な光景であった。平原を抜けて、北の呪田地帯に入ると景色は一変し、採掘した呪鉱石を精錬する工場が、荒涼たる大地に林立していた。

「この呪田地帯が、ヴェロナ公家の権威の源という訳だ」

 車窓に頬を寄せて、濛々と煙を吐く工場の威容に見蕩れる二人に、カゲイロンが言った。

「ノルダーテンで採掘された呪鉱は、この列車で南へ運ばれ、色んな呪工品に化ける。それを売り払って稼いだ金で軍備を増強し、兵士を養って、公家は自治を保ってるのさ」

 列車は徐々に高台へ登っていき、アルツール峠を越えた。ノルド連峰の頂には早くも冠雪が見られ、吹き降ろす寒風が叩きつけるように車窓を軋ませる。「ノルドナ・フェガ(ノルドナの吐息)」と称されるこの北風は古来、ノルド連峰に住まう冬の神々の目覚めた合図であると信じられ、樵も狩人も、祟りを懼れて入山を控えるのが慣わしであった。今でも保守的なノルディス人たちは、冬場の入山を禁忌としており、山間でしか採掘されない稀少な呪鉱石も、出荷が停止される。実際、神の怒りを懼れずとも、雪の降り頻るノルド連峰の岨路に踏み込むのは命知らずの無謀に他ならず、呪鉱石を欲するヴィアロン人も、ノルディス人の鉱夫たちの敬虔な慣習に態々異を唱えようとはしなかった。