サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第八章 古びた呪刀 4

 峻険な連峰を踏み越えると、行く手に広がるのは帝都アルヴァ・グリイスを擁するタイリン平原である。グリシオヌス連峰に発する二つの大河、バルクールとデフォルーの恵みを享けた大地は、乾燥した気候ゆえに大規模な農耕の定着には至らず、古くから遊牧民の栖とされてきた。アイネイシア高原に暮らす騎馬民族であったグリシオン人が、当地に王城を構えたのも、平原の風土が彼らの習俗に相応しかった為であろう。

「もう直ぐ、ドレイナに着く。一時間半の停車予定だ。その間に飯でも食おう」

「本当に?」

 カゲイロンの言葉に真っ先に反応したのは、草原の単調な光景に飽きて転寝を始めていたイスナであった。

「良かった。お腹が空いて、死にそうだったの!」

 イスナの切実な感想に、カゲイロンは苦笑した。

「自分の本能に忠実で、羨ましい限りだな」

「それ、馬鹿にしてるんですか」

 唇を尖らせたイスナの瞳に険しい光が宿る。列車に揺られているだけとはいえ、胃袋の生理は押し留めようがない。そう思って眉の端を吊り上げた彼女に向かって、カゲイロンは奇妙に落ち着いた表情で静かに首を振った。

「違う。本当に羨ましいのさ」

 悩み始めれば切りがないほど、行く手には深刻な問題が山積している。四六時中、真面目に眉根を寄せて考え込めば、間違いなく胃袋に穴が開いてしまうであろう。こういうときは頭脳を酷使し過ぎるより、自分自身の単純な感覚に判断の基準を委ねてしまった方が健やかだ。空腹なら空腹だと臆面もなく訴えられる方が、気の滅入る長旅を遣り過ごすのには向いている。

「ほら、着いたぞ」

 年季の入った木造の駅舎に、列車は鈍重な家畜のように車輪を軋ませてゆっくりと進入した。乗降場には生成色の単袍を纏った精悍な面構えの男たちが雁首を揃え、竹筒に汲んだ飲み物を片手に長椅子へ陣取って談論に耽っている。真昼の明るい外光が辺り一面に降り注ぎ、柔らかい風が頬を撫でて過ぎ去っていく。発車時刻まで未だ随分ある筈なのに、こんなに早々と乗降場へ現れて雑談に興じるとは暢気な人たちだと、イスナは素朴に考えた。

「皆、暇なのかしら」

「何が?」

 聞き咎めるように振り向いたカゲイロンの視線を正面から見返して、イスナは長椅子に寝そべり日光浴を愉しんでいる初老の男を密かに指差した。

「だって、列車が来るまで当分時間はあるんでしょう」

「列車が来るまで特に遣ることがねえんだろ。こいつらは帝都やヴェロヌスへ出稼ぎに行く人夫だ。週に一度、受け取った賃金を家族の為に持ち帰って、又直ぐに働きに出るんだ」

「この街で働けばいいじゃない」

「この街には実入りのいい仕事なんか残ってねえのさ」

 声を潜めて気の荒いドレイナの人夫たちに聞こえぬよう注意を払いながら、カゲイロンは呆けたような顔でガーシュの煙を濛々と吹き上げる老年の男を一瞥した。ヴェロヌスのように目立った産業がある訳でもなく、帝都のように市域全体が毎年拡大を続け、日夜大工たちの揮う槌の甲高い音が響いている訳でもない鄙びた平原の街には、逞しい筋骨を持て余した男たちの需要を総て賄えるほどの勤め口はない。

 ドレイナは元々、遊牧民の集落として開かれた都市である。グリシオン人の入植以前からタイリン平原に暮らしてきたドラン人たちが、冬枯れの季節を切り抜ける拠点として石垣を組み、家屋を建て、井戸を掘ったのが原点であった。次第に混血が進み、生粋のドラン人は減少しつつあるが、古色蒼然たる氏族社会の遺制は途絶えていない。ドレイナ警事局の騎馬保安部に属する警務官たちは今でも、遊牧民の伝統を誇示するように馬を駆り、鞭と刀を揮って広大な草原を警邏することを日常としている。

「さっさと飯を食いに行くぞ。他人の心配は措いとけ」

 駅舎を出て、埃っぽい往来を歩いて行くと、商家が軒を連ねる界隈へ辿り着いた。昼時の食堂は何処も賑わっていて、筋骨隆々たるドラン人の男たちが好みの献立を探し、勇ましげに肩を揺らして街路を闊歩している。一行が入った食堂も活気に満ちた混雑の最中で、厠に近い席へ案内されたサルファンは、ラシルドの店で働いていた頃の記憶を生々しく想い起こした。

「あの刺青は何だろうね」

 不意に小声で囁かれ、イスナの視線を追うと、隣の卓子で昼間だというのに豪快に酒杯を呷って談笑している男たちの集団が眼に映った。その首筋には、大地を蹴立てて疾駆する奔馬の刺青が鮮やかな色彩を駆使して彫り込まれている。改めて周囲を見回すと、一人の例外もなく男たちは奔馬の刺青を首筋へ刻んでいた。イシュマールの船員にも刺青をしている者は少なくなかったが、誰もが示し合わせたように同じ場所へ同じ図案を染め抜いているのは奇観であった。

「あれはドラン人の古臭い仕来りだ」

 ガーシュの煙を吐き出しながら、カゲイロンが低い声で二人の疑問に答えた。

「ドラン人は十五歳になると、首筋に刺青を彫り込む。男でも女でも関係ねえ。刺青が成人の証明なのさ。しかも必ず、親が彫る」

「親が?」

「そう、親が子供に彫るのさ。それが親の大事な役目なんだよ。逆に言えば、刺青を彫れねえ奴は、ドラン人の世界では子供を持てねえ。親になる資格がないってことだ」

「変なの。そういう世界もあるのね」

 イスナが言うと、それまで黙って茶器を傾けていたエトルースが俄かに口を開いた。

「世界は広い。限り無く広い」

「その通り。ずっとイシュマールで暮らしてたら、死ぬまで知らなかったかもしれねえな」

 カゲイロンの言葉に、イスナは無言で頷いた。慣れ親しんだイシュマールを去ったのは、彼女の望んだことではない。然しあのまま潮風の香る街で、平坦な日々に埋もれていたら接することのなかった世界に、こうして五感で触れられるのは紛れもない歓びであった。

 無骨な顔立ちの給仕が運んできた料理も、イシュマールでは見慣れない羊肉を使ったもので、咬み締めると独特の旨みが舌を浸した。嘗て味わったことのない香辛料の馥郁たる香りが、鼻腔を爽やかに埋め尽くす。

「美味いだろ。ドレイナの羊肉料理は天下一品だ。帝都の饗館(高級料理店)だったら、とんでもねえ値段を請求してくるもんだが、本場は安上がりだし、味も香りも抜群だ」

 訳知り顔に語ってみせるカゲイロンの顔を見凝め、イスナは羊肉の切れ端を呑み込んだ。

「カゲイロンさんはあたしと違って、色んな土地のことを知ってるんですね」

「そりゃあ、生きてきた年数が違うからな」

 香ばしく焼き上げた羊肉を荒々しく咬み切り、咀嚼しながら、カゲイロンは隣の卓子の酒杯へ物欲しげな一瞥を投げた。

「あたしはずっと、自分がイシュマールで暮らすものだと思っていました。だけど、こうして外の世界に飛び出してみると、そういう感覚が不確かなものに変わっていく気がするんです」

 魂の奥底で何が堰を切ったのかは分からない。深く秘めていた感情や思念が俄かに迫り上がり、唇を顫わして言葉を紡ぎ出す。果てしなく遠い日々の記憶。錘に括って沈めた筈の苦々しい惨劇の欠片。

「外の世界だけじゃない。あたしは過去の出来事も何も知らない。二十年前の戦争のことも、エルナの大津波のことも、きちんと学んでこなかった。今まで、そんな自分に満足していたことが、何だかとても愚かで、哀しいことのような気がして」

「エルナの大津波か。ありゃあ、大変な騒ぎだったな、エトルース」

 カゲイロンの言葉に、炙って串刺しにした羊肉を黙々と齧っていたエトルースが頷いた。

「あたしの母は、エルナの大津波で亡くなったんです。定期船が、海に沈んで」

「イスナ」

 サルファンの瞳が気遣うように揺れる。急に深い傷痕を白日の下へ晒し始めた恋人の変貌に戸惑っているのであろう。実際、我ながら不思議な心境であった。此れまで母に関する断片的な記憶はずっと、胸の奥底に秘めて極力思い出さないように努めてきた。尤も身近な存在であるサルファンにさえ、内なる想いの総てを語り尽くしたことはない。五歳のときに失った母親の面影は、追憶を重ねる度に美しく塗り替えられ、今となっては事実と乖離した幻想と化している虞さえあったが、それが苛烈な真実を甘く包んでくれるなら、それで一向に構わなかった。イシュマールでは行政局や修学校に限らず、巷間にも当時の記録が夥しく残っており、津波の経験者も存命のまま大勢暮らしている。あの災厄が齎した無数の痛憤を、学ぼうと思えば幾らでも学べたのだ。然し彼女は津波の記憶から、成る可く遠ざかるようにして生きてきた。母の死に様を、生々しい現実として受け容れるのが恐ろしかったのだ。

「あたしは、それを忘れたいと、ずっと思って生きてきました。けれど、一度だって、その試みが成功した例はありません。本当は、忘れることなんて出来ないと、知っていました。知っていたのに、眼を背けていた」

「忘れたいことほど、忘れられねえもんさ」

 カゲイロンが、新しいガーシュに火を点けながら呟くように言った。

「忘れられねえことが、人生で一番大事なことさ。俺も、色んな思い出に、息が詰まりそうになったこともある。だけど、それを忘れちまったら、俺が俺じゃなくなるんだ。人間は常に遺物なのさ。過ぎ去った日々の、残響という訳さ」

「詩人ぶるなよ。誰の受け売りだ?」

 エトルースの揶揄に、カゲイロンは苦笑した。

「さあな。思い出すのは止しておくよ」

 

 遽しく食事を終え、駅舎へ戻る途次、市内を南北に縦貫するイレファバン大路へ差し掛かると、常軌を逸した叫び声が、一行の鼓膜を劈いた。

「誰か医者を呼んでくれ!」

 男の太い声が響き渡り、騒ぎを聞きつけた人々が、通りの中ほどに続々と集まっていく。

「喧嘩か?」

 カゲイロンが眉根を寄せて、騒ぎの起きた方角へ鋭利な視線を飛ばした。その肩を素早く掴んで、エトルースが低く抑えた声音で囁きかける。

「分かってるだろうな。俺たちには時間がない。他人の厄介事に嘴を突っ込んでる暇はないんだ」

「うるせえな。俺だってそんなことは分かってるさ」

 荒くれ者の風貌とは裏腹に、旺盛な野次馬根性を持ち、過度の世話焼きという難点を備えている相棒の性格を、長い付き合いのエトルースは充分に知悉している。イシュマールの警事局で暴れ出したサルファンの窮境を看過出来ず、助け出す為にアスタークと一戦を交え、揚句の果てに余計な人相書きなど抱え込む羽目に陥ったのも、その度し難い性向の所産である。この上、更に赤の他人へ救いの手を差し伸べようものなら、全力で阻止してやると、彼は密かに心の中で誓っていた。

「駅へ行くには、イレファバン大路を通るしかねえだろ」

「俺たちの目下の本務は帝都へ向かい、ラシルドたちと合流することだ。それを忘れるな」

「分かってるって言った筈だ」

 口煩いエトルースに嫌気が差したように、カゲイロンの双眸が剣呑な光を宿して窄まった。そのまま大股で通りへ踏み込んでいく後ろ姿を見凝めて、生涯で何度目か分からない深甚な溜息を細長く吐き出し、エトルースは首を振った。

「人間は変わらない。何度も何度も、同じ過ちを繰り返す」

 唯でさえ人通りの多いイレファバン大路の真ん中に、黒山の人集りが出来上がっていた。分厚い人垣の向こうで、警務官が声を張り上げて見物人を追い払っている。逞しいドランの男たちの躰を強引に押し退け、首を伸ばして覗き込むと、路上に一人の女が斃れているのが眼に入った。その首筋から胸許へかけて、裾の長い伽羅色の単袍が深紅に黒々と濡れている。

「殺しか」

 思わず呻くように呟くと、知らぬ間に傍らへ忍び寄ってきたエトルースが鼻梁に皺を寄せた。

「昼間から物騒だな」

 犯人が取り押さえられた形跡はなかった。動かない女の躰を抱えて、慟哭するように叫んでいるのは屈強な体躯の男だ。その首筋には矢張り、紫色の奔馬の刺青が彫られている。

「今月に入って何件目だ」

「警事局は何時まで手を拱いている積りだ」

 小声で囁き交わされる男たちの会話には、煮え滾った怒りが泡沫のように表面へ浮いている。刺された女の生死を気遣うよりも、齷齪と立ち働く警務官たちに咎めるような眼差しを突き立てることに夢中になっているらしい。

「何だか、奥のありそうな話だな」

 騒ぎの顛末へ視線を固定したままカゲイロンが言うと、エトルースは露骨な敵意に満ちた瞳を相棒へ向けた。

「奥なんか覗き込まなくていい。本務を忘れるなと何度も言った筈だ」

「聞こえてるさ」

 軈て警務官が近所の家から戸板を借りて来て、担架の要領で女の骸を担ぎ上げ、医者の家へ運ぶ為に立ち上がった。附き添う男は湧き出る涙を拭おうともせず、劇しい憤怒に燃え上がる大声で執拗に喚き続けた。女の骸が運び去られ、警務官と慟哭する男の姿が消えた後の路上には、生々しい血溜りが罅割れた石畳の上へ黒々と残り、野次馬たちは皆、地面へ釘で打ち付けられたように何時までも動かなかった。

「何で、あの女の人は刺されたのかな」

 再び歩き出しながら、声を潜めてイスナが意見を求める。その顔色は、刺された女と道の血溜りを目の当たりにして蒼白い。問い掛けられたサルファンは首を傾げて、返答に詰まった。こんな昼間から、しかもドレイナ随一の繁華街で強盗を働く奴がいるとも思えない。だが単なる喧嘩にしては、刃物まで持ち出すなど、随分と気合が入り過ぎている。

「痴情の縺れって奴じゃないか」

 先に立って歩くエトルースが突慳貪に言い放ち、イスナは小首を傾げて問い返した。

「チジョウノモツレ? 何ですか、それ」

「男女の間に生ずる様々な悪天候のことだ。台風やら、雪崩やら、落雷やら、色々さ」

「それで女の人を刺しちゃうの?」

「そりゃあ、よっぽど腹が立てば刺すだろうさ。色欲は人を狂わせる」

「経験豊富なんですね」

 的外れなイスナの言葉に、エトルースは黙り込み、カゲイロンは天を仰いで哄笑した。

「経験豊富とは光栄だな、エトルース。お前の下半身の華々しい遍歴が、若い娘に感銘を与えたようだぜ」

「もう直ぐ列車が出る時刻だ。急ぐぞ」

「逃げるなよ、下半身」

「ちゃんと上半身もついてる。見て分からないか」