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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第八章 古びた呪刀 6

創作「刃皇紀」

「まあ、座ってくれ」

 勧められて腰掛けた継ぎ接ぎだらけの布張りの長椅子は、底無し沼のように深く沈み込み、客人の重みに堪えかねて滑稽な悲鳴を上げて軋んだ。局長室とは名ばかりの質素な部屋は、壁の彼方此方に黄ばみが目立ち、天井には雨漏りの汚点が幾つも残っている。

「汚い部屋だが、我慢してくれ。改装しようにも、予算が足りないんだ」

「冷遇されてるんだな」

「何時ものことさ。俺たちドランの民は、六百年間に亘って、帝国社会の辺境に投げ捨てられたままなんだ」

「だから、道端で白昼堂々、人が殺されるような荒んだ事件が起こる訳か」

 卓上の印籠に手を伸ばし、ガーシュを取り出して銜えながら、ヴァルクリフは疲労の滲む溜息を漏らした。

「今月に入ってから、今日で六件目だ。一昨日も、薬屋の女が首を刺されて路上で死んでいるのが見つかった。その前は、駅前の広場で男が首を刎ねられて死んだ」

「遣りたい放題じゃねえか。この街の警事局長は、お前だろう。ちゃんと取り締まれよ」

 然したる同情も示さずにカゲイロンが無責任な批判を投げつけても、ヴァルクリフは特に腹を立てた様子も見せず、寧ろ哀しいほど弱気な笑みを浮かべた。

「厄介な事情があるんだよ。この街特有の問題だ」

 ガーシュの煙が白々と天井へ立ち昇っていく。警事局長の執務室へ足を踏み入れる日が来るとは一度も思ったことのない若い二人は、好奇心に満ちた視線を部屋の隅々に張り巡らせた。六百年間の冷遇とは気の遠くなるような話だ。こんな見窄らしい執務室を宛がわれ、怒り狂う住人の強訴にその都度取り合わねばならないとは、随分と損な境遇である。

「犯人の目星はついている。ラルダドラドの連中だ」

「ラルダドラド?」

 先刻、警務官と揉めたミランサ氏族の男が同じ単語を口走っていたことを、カゲイロンは直ぐに思い出した。

「此処から東へ半日、馬を走らせると、ラルダドラドという街に着く。ドレイナと同じく、ドラン人が築いた集落だ」

「聞いたことねえな」

「小さな街だからな。ラルダドラドが出来たのは、戦時中だ。簡単に言ってしまえば、あそこは陛派のドラン人が住む街なんだよ」

「陛派の?」

「そうだ。戦争の爪痕という奴だな」

 ヴァルクリフの瞳を、一片の悲哀が掠めた。

「雷声帝時代、ドラン人は差別的な政策の犠牲になっていた。お前も知っているだろうが、雷声帝には、グリシオン人至上主義とでも呼ぶべき思想があった」

「下らねえ思想だ。思想の名にも値しねえ。単なる病気だ」

「まあ、そうだな」

 ヴァルクリフは俯いて灰皿の底にガーシュを押し当てた。

「グリイス王家は、帝国北方のアイネイシア高原で暮らしていたグリシオン人の末裔だ。彼らは勇猛な騎馬民族で、戦いを好む。我々ドラン人も含めて、多くの民族が、その軍門に降ってきた。帝国の栄華は、夥しい人血を吸って咲き誇る、呪われた花なのだ」

 人の血を吸って咲く花という表現に、イスナは思わず身を硬くした。二十年前の戦争すら知らない彼女に、帝国が過去六百年に亘って積み重ねてきた血塗れの罪業を、実感する術などない。然しイシュマールを離れてからの短い時日の間にも、そのような争いと憎しみの世界が醸し出す毒気は、幾度も彼女の総身を浸した。白昼堂々、一番の繁華街で人が刺し殺され、熱り立った住民が警事局へ囂しい怒号を張り上げて押し寄せる街。そんな世界を想像したことは、未だ嘗て一度もなかった。

「だが、彼らは服属した民族に追い討ちを掛けるような真似は好まない。太祖緑邦帝の御世から、帝国は異民族の首長に一定の自治権を認めてきた。今でも、キグナシアやヴェロヌス、ヴォルト・アクシアの公家たちは、民族を代表して、国政に参与する権利を認められている。こうした宥和的な方針こそ、度重なる侵略によって膨張した帝国社会が、民閥による分裂と解体を辛うじて免かれてきた要因の最たるものだ」

 ヴァルクリフの眼差しは自然と、戦争を知らない二人の若者に注がれていた。無垢な瞳を輝かせて聞き入る彼らに、ヴァルクリフは虐げられた民族の記憶を淡々と語った。

「少なくとも雪輝帝陛下の御世までは、ドラン人も草原の民として生きる権利を尊重されていた。無論、各地の有力な公家たちのように、国政に嘴を入れることは許されなかったが」

「何故、ドラン人は仲間外れにされたんですか」

 イスナの素朴な問いに、ヴァルクリフは胸襟へ釘を打たれたような痛みを覚えた。仲間外れ。余りにも簡潔で幼稚な言葉の選び方だが、図らずも本質を射抜いていると言える。キグナシアのキグニム人、ヴェロヌスのヴィアロン人、ヴォルト・アクシアのゴーダル人、レウ・パシニアのバルジク人。皆、帝政の枢要を占めるグリシオン人から見れば同じ「異族」に他ならないが、その「異族」の中にも人種的な階級があり、ドラン人は間違いなく帝国社会の底辺へ縛り付けられた哀れな「賤民」であった。ヴィアロン人の首長は公族合議会の議事頭として世間の崇敬を集めているというのに、ドラン人の首長には誰もが白眼を向け、官袍の袖で口許を覆いながら陰口を叩くのが宮廷の習いとなっている。そうした現状へ忸怩たる思いを懐いているのは、ヴァルクリフだけではない。ドレイナの住民は皆、帝国政府からの隠然たる差別に苛立ち、相次ぐ殺人が容易に収拾されないのも警務本庁の怠慢だと信じ込んでいる。この入り組んだ誤解と不信の網目を解きほぐすのは、容易なことではない。

「我々ドラン人の祖先は、グリシオン人の首長であったアルヴァと干戈を交え、敗北を喫した。爾来、我々はタイリンの草原を治める覇者から、グリシオン人の奴隷に落魄した。ヴェロヌスや、キグナシアや、ヴォルト・アクシアのように、高度な文明を有する民族には、グリシオン人も弾圧を控えた。虐げるより飼い馴らした方が、利益は大きく、損害も少ないからな。だが我々ドラン人は、家畜に草を食ませ、僅かな肉と乳を得る以外に、生きる術を知らない。精々、奴隷として使役する以外に用途がない。要するに皇帝から見下された訳だ。我々は草原を警邏する賤臣としてのみ、生き長らえることを許された。我らの首長が公族合議会に席を持たないのは、そういうことだ」

 それを呪詛したところで、何も変わらない。ドランの民を骨髄に徹するまで犯している根深い絶望に、恢復への転機など有り得ない。数百年間の屈従は、民族の精神を根底から歪めてしまったのだ。

「雷声帝が戴冠してから、事態は更に悪化した。曲がりなりにも、草原の親兵として、王城の聳えるタイリン平原の警邏という御役目を仰せつかってきた我々の矜りは、雷声帝の虐政に打ち砕かれた。グリシオン人に対する露骨な優遇と、異民族への容赦ない排撃の時代だ。俺たちだけじゃない。長年、公族合議会の有力者として権威を認められてきた三公家(ヴォルト・アクシアのセイディン公家、キグナシアのキグナス公家、ヴェロヌスのヴェロナ公家の総称。何れも旧クヴォール帝国の重臣の系譜に連なる名流であり、公族合議会の議事頭を交代で務めてきた)でさえ、劇しい弾圧の対象となった。だが、俺たちには希望の光があった。雷声帝の弟、セファド・グリイス閣下だ」

 後に春影帝として即位することになるセファド・グリイス軍務庁掌補は、雷声帝の暴虐に喘ぐ諸民族の期待を一身に背負い、帝室に叛旗を翻した。彼は帝国社会の本領が、異民族の協和に存することを訴え、優生思想に染まった兄の政策を強く批判した。

「閣下が兵を挙げ、雷声帝を国家の敵として名指ししたときの興奮を、今の若い人たちが想像するのは難しいかもしれないな」

 ヴァルクリフに見凝められ、二人は無言で頷いた。孤児として嘲りや蔑みを浴びせられたことは幾度もあるが、固より陽気な船乗りの街で、振舞いは粗野だが陰気な虐待を嫌う住民の多いイシュマールでは、ヴァルクリフが語るような苛烈な弾圧を味わったことはない。人や物が遽しく行き交う開放的な港町では、肌や瞳の色が異なる相手と取引するのも日常茶飯事であったし、様々な地方の訛りが飛び交うのも至極当たり前の光景であった。

「雷声帝の虐政に苦しんでいた我々ドラン人は、挙って閣派勢力に加わった。愛馬に跨り、閣派の本陣である西部国境のスヴァリカン要塞まで馳せ参じた連中もいた。当然、雷声帝は激昂した。優秀な騎兵であるドランの民は、帝都を擁するタイリン平原に蟠踞している。陛派の連中にとっては、足許に厄介な火種を抱え込んだようなものだった」

 ヴァルクリフの声は、追憶が齎した高揚に上擦っていた。ドール・ハーシャル(グリイス語で「草原の親兵」の意)として王家に仕えながら、屈辱的な窮境へ追い込まれた怒りを漸く解き放つことが許されたときの、総身が顫えるような高揚の記憶が、眼裏に燦然と燃え上がる。

「我々ドラン人が仲違いせず、力を合わせて戦っていれば、戦争は四年も続かなかったかもしれないと、今でも思うよ。だが、雷声帝は暴君であったけれど、決して愚か者ではなかった。狡猾な頭脳を用いて、彼はドラン人を分断する方法を編み出した。この戦争で、陛派に味方して戦い、勝利を収めたら、ドラン人による独立国家の建設を認めるという詔命状を、ドレイナに住む首長に宛てて送った」

「陰湿な野郎だ」

 カゲイロンの眼が険しくなった。ヴァルクリフは頷き、喉の渇きを癒やす為に卓上の水差しを引き寄せた。

「ドラン人の社会では、各氏族の族長を統べる首長が、大きな権限を握っている。当時の首長は、カルサ氏族に属するネヴァンという人物で、馬術と刺青の腕前に擢んでていた。聡明なネヴァンは、雷声帝の策謀を嗅ぎ取り、詔命状を即座に焼き捨てるよう命じた。然し、ヴェルサ氏族のワーファド族長が、それに猛反対した。彼は、帝都を追われ、哀れな流氓と化した春影帝が、強大な軍事力に支えられた雷声帝の政権を斃せるとは考えていなかった。だから、雷声帝に協力し、その見返りとして、長年の夢であった民族の独立を勝ち取るべきだと訴えた。独立国家の建設が甘い嘘でも、反乱鎮圧の功績を樹てれば、公族合議会の議席ぐらいは貰えるだろうと見込んだ訳だ。複数の族長たちが、ワーファドの意見に賛同した。ネヴァンは粘り強く話し合いを続けたが、交渉はなかなか纏まらない。止むを得ず、ネヴァンは古くからの掟に従い、馬闘式で決着をつけることにした」

「馬闘式?」

「古来の風習だよ。民族の命運を左右する重要な問題に関しては、首長と雖も独断で物事を処決してはならない。各氏族の族長たちと話し合い、合意を形成するのが常道だ。但し、どうしても話し合いが纏まらない場合には、馬闘式を行なって、腕尽くで黒白を決する。軍議など、早急に結論を出さなければならない局面に備えた、伝統的な決裁の方法なのさ」

 馬闘式による決議は、ドラン人が千年以上に亘って受け継いできた大切な儀礼であり、政治的な智慧の精髄である。巧言や詭弁を弄して相手を論破するのは、家畜と心を通わし、痩せた大地で太陽の光と河川の恵みに抱かれて生きてきたドランの遊牧民にとっては恥ずべき振舞いであり、騎兵としての技倆だけが総ての権威に優越する崇高な価値として認められてきたのである。

「馬に跨り、風棍と称する、両端を金具で覆った棒状の得物を用いて、一対一で戦う。先に馬上から転落した方が負けだ。敗北した人間は、ドラン人の社会から追放される」

「それで? どっちが勝ったんだ」

 如何にも興味津々といった様子でサルファンが身を乗り出す。その瞳は、未知の世界を覗き込む興奮に他愛なく酔い痴れていた。

「ネヴァンが勝った。彼は雷声帝への抗戦を、民族の方針として宣言した。ワーファドと、彼に従った数名の族長は、ドレイナから放逐された。此れが分裂の発端だ」

 ヴァルクリフの瞳を、憂愁に満ちた陰翳が塞いだ。

「ワーファドは、氏族を引き連れてドレイナを離れ、草原の東に向かった。彼らはラルドー湖の近くに粗末な小屋を立て、暮らし始めた。ラルダドラドの始まりだ。ラルドー湖はエレドール沙漠の西端に位置し、周辺は旱魃が頻発する。牧草が枯れてしまえば忽ち、家畜は飢え、痩せ衰えて死んでしまう。然しタイリン平原に戻ろうとしても、ドール・ハーシャルが巡邏していて、ラルダドラドの異端者どもを斥けるべく、眼を光らせている。苛酷な生活に閉じ込められたワーファドたちは、ネヴァンを憎み、ドレイナの人々を恨んだ。その凄絶な怨念に眼を着けたのが、雷声帝だ」

 イスナの背筋を悪寒が伝った。人の胸底に溜まった粘りつくような汚穢を、己の野望に奉仕させようとする発想に言い知れぬ恐懼を覚えて、彼女は怖々と眼を伏せた。

「雷声帝はワーファドたちに水や食糧を供給し、建務官を派遣して、生活に必要な施設を続々と整えた。皇帝の温情は、効果覿面だった。ラルダドラドのドラン人たちは、雷声帝の忠実な信奉者、要するに奴隷と化した。籠絡に成功した雷声帝は、一人の軍務官を帝都から派遣した。その軍務官はドラン人たちに苛酷な訓練を施し、力の劣る者や反抗的な人間を悉く火刑に処した。そうやって精強なドラン人の騎兵隊を作り上げ、戦争の道具に使おうと算段した訳だ」

「その軍務官の名は?」

 カゲイロンの問いに、ヴァルクリフは束の間、言葉を詰まらせた。

「イグナディンだ」

「何だと?」

 唯でさえ険しく細められていた双眸が一際翳り、唇が汚水を嚥まされたように引き攣る。帝都治安本部黒衣隊に属し、閣派の弾圧に辣腕を揮った悪魔のような男。思い出すだけで、総身が深刻な怒りに戦慄き始めるのを、カゲイロンは抑えることが出来なかった。

「イグナディンはワーファドに命じて、ドレイナを襲撃させた。ドレイナに住むドラン人と、ラルダドラドに住むドラン人との深刻な敵対は、この日を境に始まった。何百年も同じ街に暮らして、力を合わせて生きてきた同胞が、急に憎むべき残虐な闖入者に様変わりしたんだ。戦いは悲惨なものだった。どれだけ多くの命が虚しく散っていったか、考えるだけで胸が痛む」

「あの男の企みそうなことだ」

 カゲイロンの抑制された呟きには、氷のように張り詰めた憎悪が隅々まで行き渡っていた。

「帝都が陥落し、雷声帝は斬首され、不毛な戦争が漸く終わった。ラルダドラドは雷声帝という強力な後ろ盾を失い、衰退した。ワーファドは戦犯の一人として帝都に連行され、首を刎ねられた」

 記憶の闇を映したように暗く沈んだヴァルクリフの瞳を、サルファンとイスナは無言で見凝めた。

「以来、ドレイナとラルダドラドとの間には、一切の交流が途絶えていた。同じ民族の暮らす街であっても、ドレイナには鉄道が走り、警事局もあり、農務庁の役人が牧畜技術の改良や灌漑事業の推進に走り回っているというのに、ラルダドラドには誰も見向きもしない。旱魃が起きても、政府は放置している。このままでは遠からず廃村になるだろう。彼らは、そんな現状に納得していない。政府を恨み、ドレイナの人間を心底、憎んでいる」

「それが殺人の背景って訳か」

 余りに根深い因縁に眩暈を覚えて、カゲイロンは掠れた吐息を漏らした。単に殺しの下手人を捕えて牢屋へ抛り込むだけでは片付かない深刻さだ。

「二箇月前に、駅員殺害の嫌疑で、若い男を逮捕した。査問所に連れ込んで調べ上げたところ、そいつはヴェルサ氏族の出身だった。痩せて、青白い顔をしていた。発言が支離滅裂なんで、医務官に頼んで診察してもらったら、そいつは呪草の常用者だった」

「呪草か。誰が絡んでるんだ?」

「ラルドー湖近辺の乾燥地帯には、ハジフェデという炎質の呪草が大量に生えている。俺も南方警務院の捜査統括局にいた頃には、何度か呪草の摘発に携わった。ハジフェデは乾燥に強いから、痩せた土壌でもよく育つ。密売人には手頃な品種だ」

「厄介な話だな。ラルダドラドの連中が自棄を起こして、呪草を浴びるほど服用して殴り込んで来たら、鎮圧するのは簡単じゃない」

「俺たちもそれを危惧している」

 ヴァルクリフは眉間に深い皺を刻んで呻くように言った。禁制の植物である呪草を服用すると、人間の肉体は呪気を帯びる。帯呪した暴漢が闇雲に呪合を起こせば、飛んでもない惨劇が惹起される虞が高い。

「例えば列車の中で、ラルダドラドの人間が呪草を服用して暴れ出したら、大惨事になるだろう。何人死ぬか分からない。ドレイナの警事局は遊んでいるのかと本庁から罵倒される」

「罵倒されるだけで済めばいいさ。死んだ命は、二度と還らない」

 カゲイロンが応じると、ヴァルクリフは俯いて瞼を閉ざした。

「そうだな。確かにそうだ。兎に角、俺は警事局長として、この不毛な因縁に終止符を打たなきゃならない。同じ民族なのに、何時までも啀み合い続けるのは、虚しいことだ。雷鳴戦争は二十年前に終結したというのに、ドラン人の戦争は、未だ終わっていないんだ」

 慟哭とも嗚咽ともつかないヴァルクリフの言葉に、カゲイロンは黙って歯を食い縛り、長椅子の背に凭れ掛かった。雷声帝の処刑から二十年が経っても、戦争の爪痕はドラン人の暮らす草原に刻まれたまま、今も風化を禁じられているのだ。その凄絶な苦しみは、筆舌に尽くし難いものであろう。

「お前の事情はよく分かった」

 重苦しい沈黙に自ら堪えかねて、カゲイロンは口を開いた。

「兎に角、犯人を捕まえなきゃ、列車は走り出せねえ訳だろ。だったら、此処で幾ら文句を並べたって、しょうがねえよな」

 勢いよく立ち上がった相棒の横顔を、エトルースは静かに睨み据えた。

「何処へ行く積りだ」

「決まってるだろう。警事局の捜査に協力するのさ」

「本気か」

「冗談飛ばしてられるような状況じゃねえ。ヴァルクリフ、お前に力を貸してやる。俺だって、今じゃ単なる破落戸みてえなもんだが、戦前は歴とした警務官だったんだ。昔の勘は、腐っちゃいねえ」

「気持ちは有難いが」

 威勢のいい客人の申し出とは裏腹に、ヴァルクリフは煮え切らぬ態度で語尾を濁した。

「はっきりしねえ奴だな。何か気に入らねえことでもあるのかよ」

「そうじゃない。一つ、勘違いしてもらいたくないことがあるんだ」

 慎重に言葉を選んで語ろうとするヴァルクリフの瞳に宿った苦衷を、カゲイロンは訝しげに眺めた。

「俺は職責として、住民に対する暴力行為を摘発し、根絶しなければならない。然し、問題はそれだけに留まらない」

「はっきり言ってくれ。遠回しな物言いは嫌いだ」

「犯人がラルダドラドの連中だということは、殆ど確実だ。然し、そうであったとしても、犯人を捕まえて罰するだけでは、この事件の病根を切除することは不可能だ」

「何が言いたい」

「俺はラルダドラドの連中と和解したいんだ」

 ヴァルクリフは長い間、胸の奥底に秘めていた感情を吐き出すように言った。

「本当のことを言えば、犯人がラルダドラドの連中だとは、信じたくない。此れ以上、ドラン人同士で争って血を流すのは、俺にとっては堪え難いことなんだよ」

「そんなことを言ったって、お前、埒が明かねえだろうが」

「俺が若かった頃、好きな女がこの街にいた」

 ヴァルクリフは卓子の木目を凝と見据えたまま、絞り出すように言葉を紡いだ。

「個人的な話だから、聞き流してくれて構わない。俺は、その女と愛し合っていた。十六歳のときだ。女が身籠ったことが分かって、そいつと所帯を持つことに決めた。だが、手厳しく反対された。女はヴェルサ氏族の人間で、俺はファイサ氏族の人間だった。ヴェルサ氏族のワーファド族長と、ファイサ氏族のグルガール族長は、昔から仲が悪いことで有名だったのさ。ワーファドの家まで直談判に行ったが、駄目だった。それどころか、勝手に氏族の娘を妊娠させたってことで、滅茶苦茶に殴られたんだ。女も腹を殴られて流産した。それが原因で、女は狂った。俺は何もかも嫌になって、ドレイナを飛び出した。帝都に行って、警務官募集の張り紙を見掛けて、錬守校に入った。卒業して、南方警務院に配属されて、其処でお前と知り合った」

 ヴァルクリフは古い羊皮紙のように擦り切れた微笑を、怖々とカゲイロンに向けた。

「好き合った同士でも氏族が違えば、一緒になれない。そういう馬鹿げた仕組みが忌々しくて、吐き気がするほど、腹立たしかった。俺は二度と故郷に戻らない覚悟で、我を忘れて働いた。捜査統括局で情報部長に任じられた半年後に、帝都で政変が起きた。時代が劇しく移り変わろうとしていた」

 カゲイロンは歯を食い縛り、ヴァルクリフの回想に耳を澄ませた。飛び交う罵声、啀み合う双眸、繋がれることのない掌。対立と葛藤の時代。俺たちが、命懸けで潜り抜けてきた、長い洞穴の、果てしない暗がり。

「ドレイナは、帝都の御膝元だ。動乱の影響を直に蒙るだろう。心配になった俺は、転属を願い出た。久々に故郷に戻ってみると、総てが破綻していた。ドラン人同士で、憎しみを遣り取りして、殺したり殺されたり、そんなことばかり繰り返していた。ワーファドのことは嫌いだったが、殺し合うことが正解だとは信じられなかった。皆、気が狂ってるように見えた。辛かったよ。本当に辛くて哀しかった」