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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 1

 長く美しい髪を乱して、女は路上へ派手に倒れ込んだ。口の中を切ったのか、唇の端から血が滴っている。その姿を見て、附き添いの若い男が懐から幅広の匕首を取り出して身構えた。溝の底のように暗く濁った瞳には、噎せ返るような屈辱への怒りが閃いている。

「お前ら、誰の女を相手にしてるのか、分かってんのか」

 劇しい憎悪に息を詰まらせて、若い男は威嚇の言葉を吐いた。然し二人を取り囲むように立ち開かる三人の無頼漢たちは、下卑た笑いを口許に浮かべるばかりで少しも動じた様子がない。首領格らしい、機嫌の悪い野牛のように逞しく肥えた壮年の男が帯刀を抜き放ち、近くの呑み屋から漏れる灯りに白刃を輝かせて唇を捲り上げた。

「後悔するぜ、若いの。俺とお前じゃ、年季が違うんだ」

 背後に控える男たちも首領に倣って腰の湾刀を抜き放った。遠巻きに眺める野次馬の群れから悲鳴が上がり、誰かが警事局へ報せろと怒鳴る声が聞こえても、無頼漢たちは意に介さなかった。血腥い刃傷沙汰を目撃されても一向に構わないと開き直っている。

「止めた方がいいな」

 低い声で呟いたラシルドの野太い腕を、フェロシュの長い指先が静かに抑え付けた。

「関わり合いにならない方がいいと思いますよ。あれはヴィオルです」

ヴィオルなら猶更、加減をせずに殺すかも知れない。黙って見ている訳には」

「隊長。私たちは警事局に追われているんですよ。遠からず警務官が来ます。早くこの場を離れるのが賢明です」

「然し、このままでは」

 熱り立つ若い男の総身に漲っている殺意は、幾らなんでも荒削りに過ぎる。対峙する壮年の男の貫禄と見比べれば、干戈を交えずとも何れに軍配が上がるかは歴然としていた。フェロシュの言う通り、私闘の仲裁を引き受けて衆人の耳目に触れるのは好ましくないが、惨たらしい虐殺が繰り広げられるのを看過するのは性に合わなかった。

「年季なんか知ったことか。殺るか、殺られるか、それだけだ」

 追い詰められた瞳を奮い立たせるように血走らせて、若い男は喚き立てた。啖呵は勇ましいが、握り締めた匕首は平静を失った精神の為に危うく揺らぎ、狙いが定まっていない。女を庇おうと揉み合いになり、殴られた頬は腫れ上がって早くも黒ずみ始めている。そもそも、匕首と湾刀では間合いが違い過ぎて勝負にならない。若者の見開かれた瞳に浮かぶ激情を徴する限り、その不利な現実を理解しているようには見えなかった。

「いい度胸だ。殺るか、殺られるか、はっきりさせようぜ」

 壮年の男が唇を歪めて笑い、片手で掴んだ刀の鋒鋩を若い男の鼻先に向けて構えた。

「来いよ」

 滲む汗に滑りそうになる匕首を双手できつく握り締めて、若い男は狂ったように石畳を蹴り、相手の間合いに踏み込んだ。巨体に似合わぬ機敏な動きで、壮年の男は若者の盲目的な突進を鮮やかに躱し、そのまま無造作に右腕を振り抜いた。擦れ違いざまに斬り裂かれた脹脛から熱い血潮が噴き出し、若い男は敷石道へ頼りなく蹌めいて突っ伏した。

「お前、馬鹿か? 真っ向から突っ込んで、この俺を殺れると本気で思ったのか?」

 飢えた野犬のように挑戦的な眼光を翻して振り向いた若い男の鼻面を、強烈な足蹴が襲った。顎が壊れるような衝撃に脳味噌を揺さ振られ、硬い石畳へ仰向けに崩れ落ちる。背後に控えていた二人が、その脾腹に駄目押しの蹴りを入れて弱らせてから、若い男を手荒く担ぎ上げた。壮年の男は黒い手巾で刃を拭い、路上に蹲る若い女に歩み寄った。女は美しい顔立ちをしていた。深紅の華やかな単袍は、透き通るような薄手の生地で、白く滑らかな素肌を夜の闇に浮かび上がらせている。その胸許には狼の髑髏を模った首飾りが、不吉な光を放って揺れていた。

「相変わらず綺麗だな、ティリア」

 男は屈み込んで、血に汚れた女の頬に指を這わせながら言った。その途端、鋭い平手が飛んで男の横面に吸い込まれる。派手な音が繁華街の薄闇へ響き渡り、巨体を覆う贅肉の鎧が豚の腹のように波打った。女の細い指先を飾る指環の棘が擦れた所為で、男の下顎に小さな掠り傷が出来ている。

「気安く話し掛けないでよ。三流のヴィオルに、名を呼ばれる筋合いなんてないわ」

「愚かだな、ティリア。自分の置かれてる状況が分からないのか? お前は所詮、世間知らずの御嬢様だ。籠の中の鳥に過ぎない」

 男の弛んだ指先が女の手首を掴み、そのまま華奢な体躯を押し倒して馬乗りに組み敷いた。勢いで真珠の耳飾りが外れ、仄明るい石畳へ鈴のように転がる。

「取り巻きがいなきゃ、何にも出来ねえ牝豚のくせに」

 男は片手で女の喉笛を抑えつけ、力任せに締め上げた。その法外な膂力に女の顔は蒼白く歪み、眉間を苦しげな皺が引き裂いた。

「あの生意気な護衛は連れ帰って、気の荒い連中がたっぷりと可愛がるだろう。そしてお前には、この俺が直々に手厚い待遇を約束してやろう」

 呼吸を阻まれて呻き声を漏らす女の瞳から、一条の涙が零れ出た。思わず見兼ねて踏み出そうとしたラシルドの腕を、フェロシュが再び強く掴んで押し留める。振り返ると、鋭利な眼光の奥に一抹の悲哀を滲ませて、彼女は首を振った。

「此処はアラルファンです、隊長。ヴィオルの小競り合いに首を突っ込めば、ややこしいことになります」

「だが、フェロシュ」

「あの女もヴィオルの端くれです。無用な憐憫は嫌うでしょう」

「無用な憐憫だと? そんな意地を張ったって何にもならんだろう」

「何にもならなくても堪えるのがヴィオルの矜持です」

 一歩も譲ろうとしないフェロシュの頑強な抵抗に、ラシルドは険しい顔で黙り込んだ。

「どうだ嬉しいか、小娘」

壮年の男はティリアの頬に唇を近づけ、黄ばんだ舌先で流れ落ちる涙を舐めた。

「誰にも渡さず、俺が愉しんでやる。お前の仕える家頭様は、怒り狂うだろうな。それが一層、俺の情欲を高ぶらせるって寸法だ」

 息苦しさが限界に達したのか、潤んだティリアの瞳から光が消え去り、総身の力が流砂のように抜け落ちた。石畳の上にだらしなく広がった女の躰を慈しむように眺めると、その唇に己の唇を重ねてから、男は悠然と立ち上がった。そして、軽々と女の躰を担ぎ上げると、潮が引くように両側へ散っていく野次馬の間を縫って、堂々たる足取りで繁華街の殷賑へ吸い込まれていった。

「女の着けていた首飾り、あれはペンブロード家の紋章です。三人組の男たちは、襟首に断頭台を模った徽章を着けていました。あれはイストリッター家の紋章ですね」

 男の消えた方角を冷然と見据えたまま、フェロシュは静かな口調で言った。釈然としない思いを胸底に蟠らせたままのラシルドは、傍観者に徹すべきだと執拗に言い立てた彼女の横顔へ軽い厭味を投げた。

「よく見えたな。そんな細かいところまで」

「老眼の隊長とは違いますよ」

 平然と切り返すフェロシュの無愛想な面差しに、ラシルドは肩を竦めて口を噤んだ。ヴィオルが立ち去った後の石畳には、生々しい血痕が遺されている。軈て雑踏の背後から権高な怒号が響き渡り、厳重に武装した数名の警務官が息を切らして駆け込んできた。彼らは手近な野次馬を順繰りに捉まえて、事件の顛末を遽しく聴き取り始めた。女が連れ去られた、と誰かが大声で叫んだ。誰が拉致したんだ、と警務官が怒鳴り返す。イストリッターの連中だ、断頭台の紋章が見えた、と野次馬が大声で答えた。今度は別の野次馬が、拉致されたのはペンブロードの女だ、と喚いた。家頭のグラムホールの養女だ、と別の場所から声が上がる。警務官は満潮の如く高ぶっていく周囲の騒めきを制しながら、飛び交う情報を次々と手帳へ書き込んでいった。

「この街の住人は、ああいう光景に慣れているのか」

 血腥い修羅場に怯えた様子もなく、警務官の聴取へ口々に応じる群衆の陽気な態度に当惑してラシルドが訊ねると、フェロシュは紅髪を揺らして頷いた。

「ええ。アラルファンでは珍しくもない光景です。日没を過ぎれば、この街はヴィオルたちの巣窟と化します。どんな無法も、容認されるんです」

 イシュマールの北西に位置するアラルファンは、大昔にアラール人の手で築かれた古都である。その街並は、キグナシアやヴォルト・アクシアのような整然たる秩序とは無縁で、複雑に入り組んだ路地は隅々まで暴力と酒色の喧噪に満ちている。南部地方のモファスと並び称される市内の治安の悪さは、夜陰に紛れて古都の暗部を支配するヴィオルの濃厚な影響力に基づいており、警事局の人間も彼らの権勢には一目置かざるを得ない状況であった。徒党を組んで暴行を働き、賭場を開いたり娼妓を売買したりして暴利を貪るヴィオルは元々、緑邦帝国の侵攻に最後まで抵抗した反帝主義者の組織を起源としていて、未だに帝政を快く思わない保守派のアラール人から根強い支持を享けている。正面から弾圧を仕掛ければ、執拗に燻り続ける火種に態々油を注ぐようなことになりかねないのだ。

「懐かしいと思うか」

 不意に投げ込まれたラシルドの問いに、フェロシュは眉を顰めて外方を向いた。

「懐かしいだなんて思う筈がないでしょう。今も昔も、相変わらず堕落した街です。戻りたいと考えたことは一度もありません」

 フェロシュにとって、アラルファンは紛れもない「故郷」であった。彼女の父親はソルトビル家という中堅のヴィオルの家頭であったが、市内でも指折りの権門であるペンブロード家との抗争に敗れ、容赦なく惨殺された。当時十二歳の誕生日を迎えたばかりであったフェロシュは、ペンブロード家を通じて軍務庁の幹部に幼い妾として売り渡された。爾来、彼女の身を襲うことになった果てしない屈辱の日々の記憶は、今も脳裡へ鮮やかに焼きついている。

「堕落した街だとしても、此処はお前の出発の地だ」

「何が言いたいんです」

「哀しいことだと言いたいのさ。故郷を愛せないというのは」

「悪かったですね。誰だって自分の故郷は選べないんですよ」

「無論、分かっているさ」

 露わな苛立ちと共に、長靴の踵を石畳へ打ち付けて歩き出す彼女の背中を、ラシルドは憐れむように見据えた。

「誰だって運命には逆らえない。小さな掠り傷を刻んで、抵抗の意志を示すぐらいが、人間には丁度いいんだ」