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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 2

 警務官に見咎められる前に二人は血腥い喧嘩の現場を離れ、一夜の宿を探して賑やかな通りを歩き回った。酒場や娼館、賭場の犇めくダルメイン地区は、固より東部地方随一の歓楽街として知られ、市域の随所に花街を含むアラルファンの中でも、最も殷賑を極める界隈である。当然ヴィオルの影響力は、官公庁の蝟集するアライシャー地区などとは比較にならない色濃さで、土地に不案内な旅人の塒に相応しいとは言い難いが、警事局の人相書きに怯える二人にとっては寧ろ都合が良かった。

「ダルメイン地区では、警事官はヴィオルの言いなりです」

 囂しい客引きの声が飛び交う路地へ注意深い眼差しを絶えず巡らせながら、フェロシュは靴音を忍ばせて疾風の如く歩いた。到底堅気とは思えない風貌の男女が、酒気を帯びた紅い肌に商家の灯りを受けて通り過ぎていく。

「そんな無法が何故、罷り通るんだ」

 至極尤もなラシルドの質問に、彼女は紅髪を揺らして素気なく答えた。

「無法じゃなくて、司法権の在処が違うんですよ」

 アラルファンは元々、アラール公国の首府として建設され、発展を遂げてきた都市であり、今でも住民の大多数はグリシオン人ではなくアラール人が占めている。緑邦帝の孫に当たる黄駿帝オルダーリ・グリイスが侵略を目的として当地へ攻め込んで来たとき、彼らは勇猛果敢な抗戦を見せ、強力な騎兵を主軸として編制された帝国軍を相手に、十二年の長きに亘って凄絶な死闘を繰り広げた。辛くも勝利を掴み取った黄駿帝は、将来の禍根を絶つ為に自治権の承認を拒み、アラール公国の元首ギヴフォン・アライシャーの一族を残らず誅殺して、その血統を完璧に殲滅した。

 アラルファンがヴィオルと称する犯罪組織の巣窟と化したのは、この「黄駿戦争」が原因であると言われている。アラール公国時代、この地には「闇守(やみもり)」と呼ばれる人々がいて、罪人の処刑や家畜の屠殺、屎尿の処理、葬礼や墓地の管理といった業務へ専門的に従事していた。彼らは都市の地下に築かれた隧道に暮らす権利を公家から認められており、その縄張りへ闇守以外の人間が足を踏み入れることは国法によって禁じられていた。長く続いた戦争に敗北を喫し、由緒ある公家の系譜が途絶した後、地下に潜む闇守たちは物故した君主の遺恨を晴らすべく、地上の占領軍を狙って神出鬼没の奇襲を繰り返し、アラール人の矜持を守り抜いた。アラルファンに蟠踞するヴィオルたちは今も闇守の末裔を名乗り、帝国政府への苛烈な叛意を隠そうとしない。アラール人の古い言葉で「飼い馴らされぬ獣」を意味する「ヴィオル」を自称するのも、遠い昔に地上から払拭された王国の記憶を失わぬ為の自戒のようなものであった。

「闇守を根絶やしにすることは、黄駿戦争から数百年の月日が流れ去った今でも、完全には成し遂げられていません。どれだけ官憲が国威を笠に着ても、彼らは決して従わない。だったら、適当に手を結んで共存共栄を図った方が、互いに得るところが大きいという訳です」

「ガルノシュにとっては目障りな宿敵だろうな」

「それくらい気骨のある相手を飲み乾せないようじゃ、帝国の主は務まりませんよ」

 アイネイシア高原に暮らす遊牧民の一統であったアルヴァ・グリイスの覇業が、六百年の星霜を閲しても未だに衰えぬ威勢を誇っていられるのは、彼らが歴然たる武断派の侵略主義者でありながら、異民族の懐柔ということに並々ならぬ情熱を燃やし、寛容な君主という自画像を描くことに汲々としてきた結果である。表向きは被征服民の習俗に理解を示しつつ、狡猾な手口で相手の権力を骨抜きにする早業は最早、熟練の域に達している。彼らがもっと残虐で強権的で、グリシオン人の血統を至高の栄誉として称揚することに熱心であったなら、此れほど多様な民族と風土を包摂する巨大な国家を建設することは不可能であったに違いない。実際、露骨なグリシオン人至上主義を打ち出した雷声帝は民衆から「昏君」と悪罵され、蹶起した実弟の配下に囚われて首を刎ねられるに至った。「異族への寛容」は今も昔も、累代の緑邦帝国皇帝が踏襲してきた重要な統治の要諦であり、それに叛くことは自壊への道を歩むことと同義なのだ。

「だが、それが様々な犯罪の温床となっていることも確かだろう」

 ラシルドは素朴な懸念を否むことが出来ずに、フェロシュの横顔へ鋭利な一瞥を浴びせた。クヴォール帝国の崩壊後、アラール公国として念願の独立を果たした彼らの尊厳を、黄駿帝の詔命に基づいて立案され、実行に移された傲岸な征旅が無慈悲に踏み躙ったことは歴史的な事実であり、保守派のアラール人が未だに帝国への怨嗟を滾らせていることを、例えば往時の陛派官僚たちのように「偏執的」であると罵るのは公平な態度ではない。然し、そうした事情を忖度したとしても、国家の定めた法規を尊重しない闇守の末裔が、行政局や警事局と対等に渡り合えるほどの強固な権力を発揮し、結果としてアラルファンの街並を帝国随一の危険な犯罪都市へ堕落させている現実には、何らかの掣肘が加えられるべきであろう。

「公族の役割をヴィオルが担うなど、許されるべきことではない」

「それがこの街に根差した古い伝統なんです。勿論、あたしだって、ヴィオルの独裁を好ましく思っている訳じゃありませんよ。唯、揺るぎない現実として、彼らがアラルファンの支配者であることは、認めるしかありません」

「誰も覆せないのか」

「あの傲岸不遜な雷声帝でさえ、闇守の末裔を平らげることは出来なかった。異民族の主権を重んじた春影帝陛下の治下では猶更、彼らの尊大な自負は膨張するに決まっています。今の夏光帝には到底、手に負えないでしょうね」

 冷ややかな口調で言い放ちながら、フェロシュは忸怩たる思いを喉の奥で握り潰した。ラシルドの言う通り、アラルファンにおける社会的秩序の構造は異常なものだ。闇守の子孫という肩書を楯に権勢を恣にし、血讐の論理を駆使して恥じることを知らず、数多の後ろ暗い商売に手を出して暴利を独占するヴィオルの旧家が、国法で定められた庁務機関以上の政治的影響力を揮っているなど、他の地域では考えられない深刻な倒錯である。

 彼らは法律を遵守することよりも排外的な「家訓」に従うことを優先し、目的を遂げる為ならば手段を選ばない。縄張りを侵されれば武力によって報復を図り、敵対者や裏切者の命には砂粒ほどの価値さえも認めずに堂々と捻り潰す。何よりも「血の紐帯」を重んじ、まるで古臭い氏族社会のように近親者同士の婚姻を奨励して、闇守の血統が途絶えないように最大限の配慮を行なう。その精神は確かに独立不羈の矜りに満ちており、民族の伝統を堅持しようとする意志の強さは称讃に値するが、それはグリシオン人の優越を信じて疑わず、異族への苛烈な弾圧を躊躇わなかった雷声帝アイルレイズの「正義」と同型である。誰よりも何よりも、自分自身が最も正しく清廉であると信じ込むことは愚昧な迷妄であり、頭脳を蝕む深刻な疾病に他ならない。彼女が帝国義勇軍へ加わった背景には、そのような排他的正義への不信と嫌悪が伏在していた。

 だが、それも本当は思い上がりに過ぎないのかも知れないと、彼女は時々考える。何らかの正義に固執しようとすれば、人は多かれ少なかれ排他的に振舞うことを余儀無くされる。ヴィオルを憎み、陛派を憎んで剣を振り翳すのも結局は、忌まわしい宿敵の同類に自ら身を擬することに他ならないのではないか。そうした疑問は一旦浮かび上がると、驚くほど強靭な力を以て彼女の精神を繋縛した。無論、そんな煩悶へ毎回律儀に向き合っていたのでは何も行動出来なくなるので、普段は成る可く振り払うように努めている。胸底に巣食う迷いが呪刀の切れ味を鈍らせてしまえば、直ちに致命傷へ発展しかねないからだ。

「世の中には、難解な問題が多過ぎるな」

 深甚な疲労を感じさせる声で呟いたラシルドに何か言い返そうとして、フェロシュは開きかけた唇を静かに閉じた。賑やかな雑踏を刺し貫いて、不快な視線が何処からか飛んでくるのを感じたのだ。表情も歩速も変えずに安宿の連なる界隈を歩きながら、彼女は目顔でラシルドに危険を告げた。

「隊長」

「分かっている。どうやら神帝様は、我々の境遇を憐れんで下さる積りはないらしい」

 間も無く日付が変わろうとしている時刻だというのに、ダルメイン地区を縦横に走る捩れた路地から人波が消え去る気配は微塵もない。商家は軒並み煌々たる灯りを掲げて客を誘き寄せ、煽情的な衣裳で総身を飾り立てた街娼が路傍に幾人も並んでいる。酔漢の叫び声が方々から谺し、呑み屋へ酒樽を運び込む人夫の威勢のいい掛け声が耳を打つ。その雑然たる風景の何処かに、鋭利な視線の源は潜んでいる筈であった。

「何れにせよ、此処では騒ぎになる。路地裏へ入ろう」

「面倒ですね」

「仕方ない。そういう稼業ということだろう」

「商人から足を洗う覚悟、きちんと固めてくれたんですか」

「運命の呼び声に耳を塞ぐ訳にはいかない」

 淡々と答えながら、胸の奥で疼く絶望の蠢動を力尽くで抑え込み、弱音を払い除ける。平穏無事な生活、憎み合い、殺し合うことから遠く隔たった世界。そういうものに憧れて二十年の歳月を踏み越えてきたが、結局は誰かが境界線に立って歩哨の役割を務めねばならないのだ。平和は自然に育まれ、堅牢な外皮を得るものではない。それは絶えず誰かが水を遣り、肥しを撒いてやらねば直ぐに凋み、腐り落ちてしまう繊細な果実である。

「諦めるべきものは、潔く諦めるさ」

 表通りの喧噪から意図的に遠ざかり、灯りの疎らな路地裏へ入り込む。ダルメイン地区の北端には貧民たちの集住する区域があり、そこは昼夜を問わず静まり返っていた。アラルファンは東部地方最大の歓楽街であり、雑多な勤め口が何時でも喰詰め者の訪れを待ち受けている。雇い主のヴィオルから安価な労働力として酷使される彼らの寝床を、地元の人々は「陸冥宮(おかめいぐう)」と呼んで蔑んでいた。

 陸冥宮に暮らす貧民たちにとって、日没から夜明けまでの時間は書き入れ時である。がらんとした路地には人影がなく、屋根の破れた陋屋は何処も灯りを消して沈黙している。

「此れも闇守による支配の産物という訳か」

 路傍には行き倒れと思しき老人が屈めた躰を横たえて、光のない眼を天空へ向けていた。遠からず蛆が湧き出すに違いない。微かに漂う腐臭に口許を覆いながら、二人は立ち止まって哀れな老人に視線を落とした。

「何処から流れ着いたんだろうな」

 深閑とした貧民窟の暗がりに包まれて、ラシルドは悄然たる思いに囚われた。

「憐憫は無用です、隊長」

 上官の感傷を斥けるように、フェロシュが足許へ忍び寄る痩せた鼠を蹴散らしながら言った。

「弱い人間が貧困へ沈むのは、現世の理です」

「酷いことを言うのは止せ」

「それが現実です。嫌なら、戦うべきだわ。違いますか」

 ヴィオルの娘として生を享け、劇しい抗争の煽りを喰らい、年端も行かないうちから軍人の幼妾という境遇に陥った彼女が、血の滲むような苦闘の末に現在の生活を手に入れたことはラシルドも知悉している。弱者への同情よりも冷笑が先に立つのは、過去の経験から引き出した教訓の反映であろう。

「全くその通りだな」

 思わぬ方向から不意に発せられた声音に、二人は口を噤んで振り返った。寂れた貧民窟の古井戸の傍に、狼の髑髏を模した徽章を襟首へ付けた痩身の男が一人、不愉快な微笑を浮かべて佇んでいる。

「報われない弱者に手を差し伸べても時間の浪費だ。正教会の連中が好む『万民の幸福』など、糞喰らえだと思わないかね、フェロシュ」

 呼び掛けられたフェロシュの双眸が、時ならぬ怒りに見開かれる。眉間に刻まれた刀創の痕、長く目障りな前髪、色の悪い、薄い唇。どれも、古い記憶を呼び覚ます不快な警笛のようだ。

「俺の顔に見覚えはないか」

 総てを見透かすような悪意に満ちた問い掛けに、彼女は低い声で答えた。

「あんたの顔を忘れたことなんてなかったわ、コートフェイド」