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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 4

 翌朝、アラルファンの市街地は透き通るような秋晴れの蒼穹に恵まれた。ダルメイン地区の安宿に泊まり、黴臭い毛布を被って中綿の薄い蒲団で寝苦しい一夜を過ごした二人の眼に、乾いた光は神々しいほどの目映さで突き刺さった。

「この街にも、聖堂があるのか」

 官公庁の建ち並ぶアライシャー地区を東西へ貫くように走り抜けるファンセバロ大路は、アラール公国の太祖ファンセバロ・アライシャーが建造を命じた目抜き通りであり、その東端には嘗て歴代の公族が暮らしたシルラ・ファボス公宮の廃址が残存している。五百年以上昔の戦災で焼け落ちた宮殿に往時の壮麗な面影を望むことは出来ないが、辛うじて消滅を免かれた礎石と円柱の残骸は今も、アラール人たちの民族的な矜りにささやかな慰藉を授けている。

「アラルファンにも、敬虔な正教徒がいない訳じゃありません」

 暢気な物見遊山の客のように感嘆して聖堂の門前へ立ち止まり、華美な装飾に見蕩れ始めたラシルドの背中に、フェロシュは冷淡な注釈を投じた。生粋のアラール人にとってターラー正教会の習俗と文物は異教徒の持ち込んだ忌まわしい伝統に他ならないが、侵略から五百余年の月日が過ぎた今となっては改宗者の姿も特に奇異なものとは感じられない。

「折角だ。祈りを捧げていこう」

「相変わらず、信心深いですね」

「揶揄は止せ。神々を信じて損することはない。偶にはどうだ」

「遠慮しておきます。正教会の神々に恩義を感じる謂れもありませんから」

 ファンセバロ大路に面して聳え立つアラルファン聖堂は、黄駿戦争の終結後にグリシオン人の手で建設されたターラー正教会の礼拝所である。緑邦帝国の国教であるターラー正教会は、太祖緑邦帝アルヴァの御世にグリシオン人の祭官であったエクリウシスが開いた創唱宗教であり、幾度も分派を重ねながら順調に信徒の数を増やした結果、国政にも強い影響を及ぼす存在となっている。今も開創の聖人として崇められている初代正教主エクリウシスは、アイネイシア高原北方に屹立するタルラド山の中腹で神帝ターラーから「グリシオンの民を束ねる者が、この大陸を統べる王となる」という神託を授かり、寒冷な高原に点在するグリシオン人の集落を巡り歩いて天啓の指し示す覇王の候補を探し求めた。三月に及ぶ苛酷な放浪の末に、グリイス氏族の暮らす村へ辿り着いた彼は、病死した父親の跡目を継いで族長に推戴されたばかりの若きアルヴァ・グリイスと運命的な邂逅を果たした。

 緑邦帝国を創建し、太祖緑邦帝として即位したアルヴァは、神託を通じて建国の大業を支えたエクリウシスへの褒賞として、タイリン平原に拓かれたばかりの王都に巨大な聖堂を建築することを許した。今も旧都地区に屹立して敬虔な正教徒たちの熱烈な崇敬を集めているエクリウシス聖堂がそれである。エクリウシスはその聖堂を拠点として信徒を集め、伝官と称する宣教師の育成に尽力する傍ら、神交という秘儀を執り行ない、得られた神託に基づいて各地に神宮を築き、その周辺を神領として禁域に定めた。タルラド山、衛霊山、エルナ山などがその代表的な例である。彼の歿後、二代目の正教主に推されたハルヴァールは帝国神務庁を創設し、聖堂の建設や教典の編纂を推し進めて、正教会の基盤を固めることに生涯を捧げた。

 ヴェイエ石と称する淡黄色の石材を用いて建立されたアラルファン聖堂は、澄み切った碧空から降り注ぐ陽光を一身に浴びて白々と輝いていた。錐体の屋根の頂には神帝ターラーの象徴たる「聖鍵紋」が聳え立ち、賑やかな大路を行き交う人々を見守っている。黄駿戦争の後、キグナシア伝堂から派遣された伝官頭フォルジークの号令で築かれた聖堂は、アラール人に対する布教活動の拠点として用いられたが、異教徒たちの蠢く辺境の砦ゆえに度重なる放火や投石に悩まされ、幾度も再建を繰り返して今日に至っている。古来、この地では夜神ゾイクを崇める土着の自然宗教が盛んであり、アラルファンの東方に位置する聖地ファボスに築かれたゾイキューラ神殿がアラール人たちの敬虔な信仰の拠り所となっていたが、黄駿帝の詔命を享けてアラール地方へ出兵した帝国軍は無慈悲にも、異教徒への劇しい憎悪に衝き動かされて神殿を徹底的に破壊し、地元の人々の宗教的な支柱を打ち砕いた。

 神をも畏れぬ帝国軍の暴虐に対するアラール人の憤怒は凄まじく、闇守による抵抗運動の長期化を招き、アライシャー公家の一族を鏖殺した後も占領統治は難航を極めた。黄駿帝から直々に異教徒の鎮撫を命ぜられた正教主第四世メクリカリフは、消滅したゾイキューラ神殿の跡地にファボス神宮を建立し、一帯を神領に指定した上で、夜神ゾイクを神帝ターラーの眷属として祀り上げた。今日、ファボスに暮らすアラール人を中心として信仰されているターラー正教会ゾイキューラ派の発足は、こうしたメクリカリフの英断に由来している。

 開け放たれた正門を通り、青々と萌える芝生の敷石道を辿って、二人は五百年の歴史を誇るアラルファン聖堂へ足を踏み入れた。アラルファン北方のギラム高地の採石場から切り出されるヴェイエ石は古来「神座石」と称し、聖域の建物を築く場合に限って用いられ、往時はアライシャー公家から特別に任じられた石工だけが触れることを許されたという。

「やはり聖堂は落ち着くな。空気が澄んでいる」

 天窓から柔らかな朝の陽射しが流れ込み、美しく磨き上げられた淡黄色の床へ香油を撒いたような光沢を与えている。拝壇へ向かう深紅の敷布を躊躇いがちに踏み締めながら、ラシルドは礼拝室の奥に飾られた神帝ターラーの豪奢な壁画を見凝めて、深呼吸を繰り返した。貧しい薬屋の倅に生まれ、修学校へ通う金も工面出来なかった少年時代、彼は近所の聖堂へ通い詰め、耄碌してすっかり耳の遠くなった古参の聖官長から直々に読み書きを教わり、算用儀(計算用の器具)の扱い方を習った。長じてからは正教会の基礎的な教理を丹念に仕込まれ、礼拝の作法や太古の神話も熱心に学んだ。恩師である聖官長が胃病を拗らせて亡くなった後も、少年期に培われた神帝ターラーへの敬虔な信仰心が色褪せることはなかった。爾来四十年、彼は一介の正教徒として日々の礼拝の習慣を欠かしたことがない。

 拝壇の傍らに控えていた若い男の聖官が二人の姿に気付き、尖端に鈴を結わえ付けた「信杖」と称する杖を厳かに掲げた。拝壇に向かって跪いたラシルドの頭上に、その漆黒の杖を翳してゆっくりと揺らし始める。軽やかに鳴り響く銀色の鈴は「招鈴(しょうりん)」と呼ばれ、天宮に住まう神々の眠りを覚ます効果を有すると言われている。

「神帝穹下の御導きに恵まれますように」

 穏やかな聖官の声音が鼓膜を優しく撫で、ラシルドは深紅の敷布に額を押し当てながら瞼を閉じた。招鈴の刻む清らかな律動に合わせて、聖官の唱える呪言が堂宇の静寂を少しずつ破っていく。がらんとした拝殿に、他の参詣人の姿は見当たらない。数百年の伝統と典雅な設備を併せ持つ聖堂にしては珍しいほどの静けさだ。

「聖官頭のロシールと申します。貴殿の頭上に、穹下の御加護が輝きますように」

 奇異な感想を懐きながら、礼拝を終えて立ち上がったラシルドに、若い聖官は深々と腰を折って挨拶した。額に刻まれた聖鍵紋の刺青は、彼が俗世の生活を抛棄した本職の神僕であることを明瞭に物語っている。

 信徒の額に聖鍵紋の刺青を彫り込む「銘額」は、創教主エクリウシスの時代から継承されてきた慣習である。対象者は神官、聖官、伝官など、俗世を離れて求道の日々に生きる「内寓」の正教徒に限られており、世俗の職業や家庭を持ちながらターラー教を信仰する「外会」の正教徒には、銘額の栄誉に与る資格が認められていない。外会の信徒が内寓の道を志して銘額を望む場合には、あらゆる財産の寄進、妻子との離縁などが求められる。

「随分と空いておりますな」

 呪言の詠唱が止むと共に再び甦った堂内の閑寂に、ロシールは眉間を曇らせて頷いた。

「最近はめっきり、聖堂を訪れる方の数が少なくなりました」

 夜を司る神子ゾイカスの偶像が祀られた拝壇を、憂愁に満ちた聖官の眼差しが捉える。神宮の置かれているファボスに比べて、アラルファンは正教会に対する敵意の根強い土地柄である。壮麗なアラルファン聖堂の偉容も、保守的なアラール人の眼には帝国による圧政の象徴として映じることが避け難い。

「十日ほど前、ファボスで神官が一人殺されました。地元のヴィオルに金で雇われた呪刀士が、手を下したという話です。実に嘆かわしい事件です」

ヴィオルの人間は、ターラー教を嫌いますからね」

 冷ややかな口調で相槌を打つフェロシュに、ロシールは透き通った紺碧の瞳を向けた。

ヴィオルたちの間では、禁制となった夜神ゾイキューラへの信仰が、未だに堅持されていると聞きます。昔ながらの異教を奉じることが、彼らの矜持を保つ為には必要なのでしょう」

 闇守の末裔を任じるヴィオルの無頼漢たちが、正教会の手で改竄されたゾイキューラ派の教義に敵愾心を燃やさぬ筈はない。彼らにとってはファボスの神官こそ、呪われた異教徒に他ならないのだ。五百年が過ぎても、両者の断絶は一向に埋まっていない。

「然し、諦めてはなりません。血に飢えた異族の魂にも何れ、穹下の御声が届く日が訪れるでしょう。我々内寓の信徒は、血腥い恫喝に屈するほど臆病ではありませんから」

 澄み切ったロシールの瞳には、聖職者としての純粋な信念が漲っていた。その臆面もない宗教的な自信に、ざらついた軽蔑の感情を誘われて押し黙る。どれほど巧みな言葉で取り繕ったとしても、清楚な神僕袍を血に濡らして異族を虐げてきた正教会の歴史が塗り替わることはない。総ての争いが終息した世界、即ち下界天宮の到来を希求する正教会の熱烈な信仰は恥知らずにも、その理想を叶える為であるならば性急な暴力も異教徒の誅殺も辞さないのだ。何と歪な、矛盾した思想であろうか。闇守の非道を是認する積りはないが、生粋の正教徒たちが懐く宣教への情熱は余りにも無垢であり過ぎる。この躰を流れるアラール人の血は、そのような無垢の信仰心を憎まずにいられぬであろう。

ヴィオルは、正教会の言いなりには絶対になりませんよ」

「フェロシュ」

 咎めるように眉根を寄せるラシルドの声に耳を塞ぎ、神子ゾイカスの偶像が祀られた拝壇へ刺々しい眼差しを叩きつけたそのとき、アラルファン行政局の時鐘が緩慢な調子で鳴り響いて、賑やかな市街地へ正午の到来を告げた。