読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 5

創作「刃皇紀」

「待てと言ってるだろう、フェロシュ」

 午刻を迎えたファンセバロ大路は、昼餉の物色に出掛ける人々で酷く混み合っていた。アラルファンにおける行政の中心地であるだけに、行き交う人々の過半は高価な官袍を纏った役人で、肌や瞳の色から察するにグリシオン人が多い。春影帝セファドの戴冠以来、雷声帝アイルレイズの御世に行なわれていた差別的な悪弊は積極的に改められ、自治権の拡大が推進されてきたが、その恩恵は広大な帝土に遍く行き渡ったとは言い難い。黄駿戦争の遺恨を引き摺る帝国政府の首脳たちは、反骨の気風を漲らせるアラール人の保守派を警戒して、行政の主役には飽く迄もグリシオン人の庁務官を充てる方針を貫いている。

「待たないか。子供じみた真似は止せ」

 引き締まった肩口を掴んで強引に立ち止まらせると、フェロシュは振り向いて忿怨の滾り立つ瞳をラシルドへ叩きつけた。

「あの聖官は、アラール人の伝統を愚弄しました」

「そうじゃない。彼は正教会の信仰に忠実なだけだ」

「隊長はそう感じますか。それが正教会の横柄なところですよ」

「どうしたんだ。何時もの冷静なお前は何処へ消えた?」

「あたしは普段と何も変わりません」

 獰猛な山猫の瞳は、冷え切った激情を持て余して不安定に揺らいでいた。ヴィオルへの憎しみを有していても、彼女がアラルファンで生まれ育った闇守の末裔であることに変わりはない。その鍛え抜かれた肉体の内側を流れる血潮は、今も郷里を侵した帝国への怨恨を燻らせているのだ。

「彼を憎んでも何も始まらない。正義は玉虫色だ。人によって異なるのは当たり前だろう」

 彼女の内なる葛藤を知悉しながら敢えて、ラシルドは厳しい口調でその短慮を咎めた。アラール人の正義とグリシオン人の正義が互いに相容れないのは、五百余年前の因縁を鑑みれば至極当然の話で、苛烈な宗教心を漲らせた若年の聖官が、ファボスで起きた神官の殺害事件に心を痛めるのも同じく無理からぬ話である。

「春影帝陵下の御心を忘れた訳ではあるまい。出自の違いを理由に無益な争いへ身を投じるのは、考えられる限り最大の愚挙だ。純粋な気持ちで神々へ仕える青年の衷心を疑うのは、幾らなんでも」

「隊長は何も知らないから、そんな風に言えるんです」

 唇を鞭打つように、フェロシュの鋭い反駁がラシルドの言葉を遮った。

「何故、この街をヴィオルが支配するようになったか。彼らがどんな屈辱を生き抜いてきたのか。あたしは確かにヴィオルを憎んでいます。彼らの薄汚い卑劣な遣り口を肯定しようとは思いません。けれど、同じくらい正教会のことも憎んでいます。その無反省な正義感が、堪らなく腹立たしいんです」

 血を吐くような思いで、彼女は刺々しい科白を並べ立てた。尊敬する嘗ての上官に向かって、このような私憤に塗れた文句を投げつけるのは正しいことではないと分かっている。ラシルドの言う通り、春影帝セファドは雷声帝アイルレイズの差別的な優生思想を渾身の力で否定し、歴史の彼方へ葬り去ろうと粉骨砕身の奮闘を示した。帝国義勇軍の系譜に連なる者として、その崇高な理念に唾を吐きかけるような真似は慎むべきであろう。然し止め処なく湧き起こる黒々とした感情に、重い手鎖を結わえ付ける術が見つからない。

「あたしは闇守十人衆の子孫です。家が滅び去っても、その血脈は今もこの躰を駆け巡っています。黄駿帝オルダーリの派遣した官軍によって踏み躙られたアラール人の矜りを、忘れ去ることなんて出来ません」

 路傍に立って険しい顔つきで声を荒らげるフェロシュの姿を、官袍を纏った通行人たちが蔑むような眼で睨み据えていく。燃えるような紅髪は、一部のアラール人だけが持つ身体的な特徴であり、ヴィオルの乱脈と暴虐に普段から煮え湯を呑まされているグリシオン人の瞳に、それは忌まわしい悪魔の徴として映じているに違いない。

「こんなところで議論を重ねても始まらない。警務官に睨まれたら、面倒なことになる」

「だったら、隧道へ行きましょう」

 喧嘩腰の態度を改めようともせずに、フェロシュは鋭く言い返した。

「実際にアラール人の置かれている境遇を、その眼で確かめてみればいいわ」

 底知れぬ暗闇を湛えた彼女の瞳を見凝めながら、ラシルドは二十余年前、スヴァリカン要塞に突如として現れた勝気な紅髪の少女の面影を鮮明に思い返した。当時、十四歳の小娘に過ぎなかったフェロシュは、呪刀士として稀有な資質を備えていた。アラルファンの北東に広がるギラム高地では古くから呪田の開発が盛んで、現在でもアラール・エルザルと称する呪刀が古典的な手順に則って製造されている。愛娘の天賦の才能を見抜いたソルトビル家の家頭ダイアイスは、八歳のときから彼女を知り合いの呪匠の許に通わせ、伝統的な呪刀術を学ばせていた。生前の父親から受け取った厳格な愛情は、生来の豊饒な素質を開花させ、その稔りはスヴァリカン要塞の練兵場で行われた入営試験で衆目を驚倒させた。炎質呪鉱を鍛造した美しい装飾のアラール・エルザルで、彼女は巨大な鋼鉄の門柱を見事に叩き斬ったのである。

(憎まずにはいられないのだろうな。過去を憎み、運命を憎み、人を憎んで、それでも未だ足りないのだ)

 ラシルドは胸の奥底で、研ぎ澄まされた刃のように狷介な彼女の面差しを憐れんだ。その鍛え抜かれた肢体は、総身に染み込んだ無数の黒々とした血痕を、畏怖すべき技倆の源としているのだ。敢えて彼女の不遜な振舞いを窘めるのであれば、せめて隧道に広がる異界の光景を凝視する覚悟は固めるべきであろう。

 

 アラルファン市街の随所に穿たれた竪坑は「土竜孔(もぐらあな)」と呼ばれている。文字通り、普段は地下の世界へ潜んで暮らす人々が地上へ出入りしたり、日光や外気を取り入れたりする為に設けられた設備であり、中には公国期からずっと現役で通している古株の竪坑もある。

 黄駿戦争後、闇守を中心とした住民からの断続的な奇襲に悩まされた帝国軍は、全土から腕利きの呪刀士を募って破格の報酬を与え、新設されたアラルファン軍事局に雇い入れて叛徒の掃討を命じた。栄達の夢想に憑かれた呪刀士たちは、狂った獣のように地下の隧道へ押し入り、グリイス王家への屈服を拒む愚かな異族の殺戮に血道を上げた。無慈悲な弾圧に叛徒たちの抵抗が衰えを見せると、政府は隔離政策の執行に重点を切り替え、嘗て闇守だけが居住を許された地下の聖域に、敗戦国の民であるアラール人を閉じ込めて逼塞を強いた。

 奪われた地上の街並は、帝都から押し寄せるグリシオン人の入植者へ二束三文で売り払われ、父祖伝来の土地を失ったアラール人たちは甚だしい窮迫に追い込まれた。白獅帝タミュワンの戴冠を端緒として始まったエルター・サルヴォー(内政爛熟)の時代に、漸く強権的な弾圧が手綱を緩められるまで、帝国政府に寝返った一部の背徳者を除いて、アラール人は悉く薄明の閉域を這い回る日々を余儀無くされたのである。その残酷な政策は今も禍根を遺しており、現代の地下隧道は持たざる人々の犇めき合う貧民窟と化している。

「陸冥宮よりは随分マシですけどね」

 シルラ・ファボス公宮の廃址に程近い東壱号竪坑櫓(ひがしいちごうたてこうやぐら)の古めかしい威容を仰ぎながら、フェロシュは静謐な口調で言い捨てた。

「少なくとも地下隧道には、厳しい規律があります。ヴィオルが闇守だった頃から受け継がれてきた、様々な規則が」

 巨大な鋼鉄の滑車を収めた石組みの櫓は、午下がりの穏やかな光を浴びて深閑と静まり返っていた。隧道への出入りはヴィオルによって管理されており、迂闊に踏み込めば直ちに捕縛され、惨殺の憂き目に遭うと言われている。堆く積み上げられた生成色の岩石の隙間からは雑草が伸び、櫓が堪えてきた長大な年月の重みを伝えている。石塀に囲まれた敷地の入口では、番人らしき二人組の男が檜の方卓を挟んで向かい合い、カージェという絵入りの札を用いて手慰みの賭博に興じていた。人通りの疎らな午後の静寂の中で、その光景は一幅の牧歌的な絵画のように見えた。

「お前は入れるのか」

 人影に気付いて鋭利な眼差しを擡げた番人の険相を警戒して、ラシルドは低い声でフェロシュに訊ねた。闇守十人衆の家柄に生まれついたとは雖も、彼女がヴィオルの一員であることを辞めてから既に久しい。しかもその生家はペンブロードとの抗争に敗れ、とっくの昔に没落の深淵へ沈み込んだ筈だ。血讐の激情に駆られたソルトビル家の刺客と疑われ、要らぬ揉め事に巻き込まれるのは望ましい成り行きではない。

「ええ。殉国隊は闇守にとっても英雄です。無論、限定的に、ということですけど」

「限定的?」

「殉国隊は、異民族の弾圧に辣腕を揮った雷声帝アイルレイズを斬首刑に処した。その意味では、紛れもない英雄です。然しその華々しい活躍は結局、グリイス王家の覇権を延命することにしかならなかった。それでは根本的な解決にはならないというのが、守旧派ヴィオルたちの見解です」

「何事も一筋縄ではいかないものだな」

 万人に妥当する正義など有り得ないと知りながら、それでも最大公約数の正義を求めて戦うしかないのが、政治的な領分に属する人々に課せられた峻烈な使命である。闇守の直系を自任するヴィオルの旧家にとって、雷声帝を斃し、春影帝に仕えた殉国隊の振舞いは、「グリシオン人の優越」という帝国の宿痾を覆すには至らなかったという点で物足りない功績であったに違いない。彼らは数百年前に滅び去ったアラール公国の復活を夢見ており、帝都から派遣された庁務官への敵意を狼の牙のように尖らせている。異族の自治を尊重する方針を打ち出した春影帝も、例えばペンブロードやイストリッターの家頭に公族権を授与しようとは考えなかった。結局、皇帝の首が挿げ替えられても帝国の政治的構造が革められることはない。そうした絶望と不信が今も、アラルファンの地下に秘められた縄張りを有するヴィオルの暴虐を培い、高ぶらせているのであった。

「行きましょう」

 促されて再び歩き出しながら、ラシルドは竪坑櫓の頂に掲げられた狼の髑髏の紋章を仰ぎ、消え去ることのない記憶というものの重みに総身を拉がれるような気持ちで溜息を漏らした。