サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 6

 鋼鉄の滑車が重々しい音を響かせて回り、樹幹のような太さの縄が張り詰めながら、隧道の暗闇へ少しずつ昇降機を沈めていく。今でこそ滑車の操作には呪動機を用いているが、往古は逞しい闇守の人夫が手動で上げ下ろしの作業に従事していたという。

「この辺りはペンブロードの縄張りです」

 薄明るい啌気燈の光が暗鬱な竪坑を静かに照らし出していた。焔を思わせるフェロシュの紅髪には艶がなく、瞳には冷たい輝きが瞬いている。櫓の入口で賭事に興じていた二人組の草臥れた分袍の背中にも、ペンブロードの紋章である狼の髑髏が染め抜かれていた。闇守の故地とも言える地下隧道の縄張り争いは恐らく、地上におけるそれとは比較にならない劇しさであろう。

「コートフェイドは、あたしたちの技倆を見込んで犯罪の片棒を担がせようとしています。回答を保留している間は、ペンブロードの人間も余計な手出しは控えるでしょう」

「片棒を担ぐ積りなのか」

 昇降機が停止し、地底の闇を払うように到着を告げる警笛が鳴り響いた。男の番人が訝しげな眼差しを此方に向けている。地上の番人から先に報せは届いている筈だが、不意に現れた殉国隊の残党という珍客に警戒心を煽られるのは止むを得ない反応であろう。

「いいえ。あたしは隊長に、アラール人の窮状を理解してもらいたいだけです」

「ペンブロードとイストリッターが抗争を始めれば、アラルファンの秩序は崩壊する」

「だから何だと言うんです。滅びるなら滅びればいいし、何れにせよ、あたしたちに彼奴らの抗争を阻止する力はありません」

 刺々しい口調で言い返すフェロシュの横顔に、ラシルドは遣る瀬ない眼差しを注がずにはいられなかった。アラルファンへの切実な郷愁と、故郷を支配するヴィオルへの抑え難い憎しみの狭間で、彼女の精神が千々に乱れていることは明瞭であった。鳴り止まない苛立ちも恐らく、二つの極点へ引き裂かれる己の心を持て余していることの反映に違いない。

「必要悪、という考え方もある」

「必要悪ですって?」

 振り向いた彼女の瞳に燃え立つ憤怒は余りに鮮やかで、息詰まるような迫力を湛えていた。

ヴィオルによる支配が正当性を欠いていることは認めよう。然し、彼らが血塗れの抗争に雪崩れ込んだとき、事態を収拾出来る人間がアラール人の中にいるとは思えない」

「政府に蚕食されると言いたいんですか」

「ガルノシュ・グリイスは、それぐらいの智慧は回る男だ」

 或いはもっと悪辣な謀略の構築に励んでいるかも知れないと、ラシルドは考えた。劇しい抗争でペンブロードとイストリッターが著しく疲弊したところへ、いわば傀儡を操るように末流のヴィオルを支援して隧道の新たな覇者を捏造するという手もある。庁務官による支配ではなく、飽く迄もヴィオルによる統治の体制を保持することで、彼らの悪名を隠れ蓑に様々な非道を行ない、揺るぎない虐政の牙城を築き上げるかも知れないのだ。祀り上げられた矮小なヴィオルは、犬の餌の如く投げ与えられた権勢を手放そうとはしないであろう。そうなれば、アラール人の相互的な忿恨は益々蓄積され、帝国政府の隠然たる圧制は質の悪い腫瘍の如く根を生やして膨れ上がっていくに違いない。

「ムジークという呪刀士が総てを掻き乱し、事態の混迷を招いているのならば、速やかに病根を切除する必要があると思うが」

「コートフェイドの言い分を鵜呑みにするのは馬鹿げています。彼奴は私利私欲の塊です。アラルファンの未来を憂慮するような男ではありません」

 濫れ返る憤りを処決する術が思い浮かばず、フェロシュは感情の迸るままに吐き捨てた。幼い頃、彼女が見聞きしたヴィオルの悪行は何れも己の野心や私欲を満たす為の非道に過ぎず、その狡猾な絡繰に巻き込まれて魂を損なわれた者は数知れない。フェロシュ自身、コートフェイドの媒で帝都に住まう陛派軍務官の屋敷へ妾に出され、不本意な虐待を蒙った。ヴィオルがアラルファンの自治に固執するのは、アラール人の歴史と伝統を愛するからではなく、強大な権力を失うのが惜しいからに過ぎない。

「アラール人の大半は、ヴィオルの暴虐に翻弄されて息苦しい暮らしを余儀無くされています。闇守を英雄視するなんて、時代錯誤の偏見です」

「だがお前も、己の五体に流れる闇守の血を矜りに思うのだろう」

「だからと言って、闇守の支配を擁護する気にはなれません。ヴィオルは民族主義者を名乗ることで、甘い汁を吸っているに過ぎないんです」

 何処まで突き進んでも決して交わることのない平行線のような議論に倦んで、二人は自ずと口を噤み、仄暗い隧道の小径を歩き始めた。頑丈に補強された天井には夥しい数の啌気燈が延々と連なり、往来の頻繁な四つ辻などは真昼のような明るさに浮かび上がっている。

「此れがアラール人たちの住いなのか」

 隧道の壁面に穿たれた横穴を塞ぐように、擦り切れた更紗や葭簀が垂れ下がっている。洞穴の入り口に掲げられた灯りは古めかしい油燈が大半を占め、隧道の天井を支える梁の木肌には煤煙が染みついていた。

「貧民窟です。地上に暮らす恵まれたアラール人は『土竜屋(もぐらや)』と呼んで馬鹿にしていますね」

 累代の貧困ゆえに地底の生活から脱け出せない同胞に「土竜」という蔑称を投げつけるのは、何百年も続くアラルファンの悪しき慣習である。堅実な生業を持たない彼らの大半はヴィオルによって使役されており、それが益々地上への脱出を困難にさせ、黴臭く湿っぽい土竜屋の薄闇へ縛り付ける要因となっている。

「古来、アラルファンでは土葬が一般的です。隧道の奥には『御霊閨(みたまねや)』という大きな玄室があって、昔気質のアラール人はそこへ棺を納めます。墓場の管理は闇守の大切な生業の一つですから」

 地下の隧道には数百年の長きに亘って積み重なったアラール人の屍が永遠の眠りに沈んでいる。その想像はラシルドの総身に薄ら寒い戦慄と、崇高なものへの畏敬の念を呼び覚ました。玄室の中には黄駿戦争で戦火に斃れた人々の亡骸も無数に埋まっているという。その供養を任された闇守の人々が、民族の集合的な記憶に執着するのは当然の反応だと言えよう。

「あたしの生家は元々、御霊閨の守人(もりゅうど)でした」

 煌々と輝く四つ辻を幾度も通り抜けて隧道の深部へ進みながら、フェロシュは平淡な口調で呟いた。

「一族の塒は、玄室へ通じる羨道(えんどう)の壁に沿って連なっていました。闇守十人衆の末裔として、ヴィオルの一党を名乗るようになった後も、歴代の家頭は御霊閨の守人という職責を果たし、その伝統を末代まで受け継いできたのです」

 そもそも公国期の闇守たちが、地上へ暮らすことを許されぬ一種の賤民であったことは殆ど疑いを容れない。彼らは地底の闇に紛れて課せられた使命に営々と取り組み、アラール公国の社会を辛抱強く支え続けてきた。隧道を闇守の聖域と定めた公家の免状は今も昔も、地底に暮らす人々の矜りであり、尊厳であったに違いない。

「闇守十人衆の末裔はいわば、この隧道における公族のようなものです。黄駿戦争に敗れ、多くのアラール人が地上の栖をグリシオン人の入植者に明け渡し、地下隧道へ幽閉されることになったとき、従来の階級制度は崩れ去りました。苛烈な反帝主義者として活躍した闇守たちはアラール人社会の頂点へ君臨するようになり、嘗ては地上で闇守たちを賤民扱いしていた人々が虐げられるようになりました。ヴィオルが土竜たちを蔑むのは、公国期の怨念が今も消えていないからです」

 複雑に入り組んだ忿恨の底知れぬ強靭さに、ラシルドは眩暈を覚えた。長い間、地底の賤民という不幸な境遇に呪縛されてきた闇守の末裔が、無法と呼べるほど絶大な権勢に固執するのは人の性である。

「此処が御霊閨の羨門(えんもん)です」

 どれだけの距離を歩き続けてきたのであろう。貧しい横穴の暮らしに倦んだ人々の覇気の失せた瞳に見凝められながら、果てしない隧道の薄闇を潜り抜けるうちに、二人は厳めしい柵門に辿り着いた。

「この先には羨道が伸びていて、御霊閨へ通じています。昔はソルトビル家の闇守だけが立ち入りを許されていました。今はペンブロードの管轄下に置かれています」

 古びた柵門の前で二人は暫くの間、沈黙を貫いて立ち尽くした。冷たい風が羨門の彼方から吹き寄せるのは錯覚であろうか。或いは冥宮に通じる玄室の闇から漏出する亡霊たちの静かな騒めきが、暗い羨道を伝って押し寄せているのであろうか。

「隊長。此処にはアラール人の歴史が凝縮されています」

 不意に破られた静寂の中で、フェロシュの面差しは影絵のように頼りなかった。

「あの若い聖官は、あたしたち闇守の末裔を『血に飢えた異族』と呼びました。それを根も葉もない中傷だと言い張る積りはありません。実際にヴィオルは、血に飢えているとしか思えないような振舞いにも平気な顔で踏み切りますから。けれど、それはとても一面的な見方です。夜神ゾイクへの信仰は、地底の世界へ封じられた闇守たちにとって切実な祈りのようなものです。闇の中で孕まれ、闇によって育まれた者にとって、夜神ゾイクを信じることは己の尊厳を信じることに等しかったんです」

 こんなに饒舌な彼女を見たのは初めてかも知れないと、ラシルドは密かに舌を巻いた。それだけアラルファンの命運は彼女にとって重要な問題であるということであろう。コートフェイドと名乗ったあの男が信頼に値する人物かどうかは分からないが、ムジークを抹殺することで抗争の火種を摘み取れるなら、それはフェロシュにとっても望ましい未来であると言えるのではないか。

「フェロシュ、お前は」

 口を開きかけて直ぐに、不審な人影に眼差しを奪われて彼は黙り込んだ。痩せた野良猫のように肩を丸めた小柄な男が一人、覚束ない足取りで歩み寄ってくる。羨門の弱々しい燈光に照らされたその姿は、如何にも貧民窟の住人に相応しい風体であると言えた。擦り切れた褐色の分袍に、ジャーラと呼ばれる厚手の麻布で頭部を覆っている。藍染のジャーラは古来、闇守の象徴として用いられてきたもので、今日ではヴィオルの手駒である影蜘蛛たちが好んで身に着けている。

「御寮様」

 嗄れた声で呼び掛けられたフェロシュの瞳に、当惑と驚嘆が同時に宿った。

「無沙汰を御許し下さい。影蜘蛛のグルタエで御座います」

「グルタエ」

 思わず我を忘れて、彼女は見窄らしい影蜘蛛の男へ駆け寄り、その蒼白い頬の実在を確かめるように掌で触れた。

「御寮様。大変懐かしゅう御座います」

 声を顫わせ、弛んだ眦に涙を滲ませる男の肩を優しく抱いて、フェロシュは耳許で囁いた。

「戻ってきたわ、グルタエ。御願いだから、子供みたいに泣きじゃくるのは止して」