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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第九章 闇守の裔 7

 アラルファンで家頭の娘に生まれつくということは、様々な特権に恵まれた高貴な階級の者として生涯を歩むことに他ならない。太祖緑邦帝アルヴァ以来、青雁帝マシヴァ、黄駿帝オルダーリ、黒剣帝クセルーザ、赤蘭帝ヘイルシーと続いた積極的な外征と侵略の時代が終焉を迎え、白獅帝タミュワンの即位から始まったエルター・サルヴォー(内政爛熟)の季節が帝国全土を覆い始めると、それまで地底の暗闇に押し込められていたアラール人たちにも、地上への帰還が認められるようになった。苛烈な抵抗運動を繰り広げ、帝国軍による占領統治を阻み続けてきた闇守十人衆の不撓不屈の精神を懐柔すべく、中央政府が施政方針の転換を図ったことも、アラール人の復権にとっては追い風であった。

 御霊閨の守人であったソルトビル家の一族も、市域東部のシルリーズ地区に豪奢な邸宅を建造し、行政局や軍事局、警事局の役人との間に癒着めいた馴れ合いの紐帯を築いて、憧れ続けてきた地上の栄華をその手に掴み取ることに成功した。彼らは黄駿戦争以来の社会秩序の変動によって生み出された新たな権力者であり、いわばアライシャー公家の後釜のような存在であった。ソルトビル家に限らず、ペンブロードやイストリッターなどの重鎮も含めて、地上へ進出したヴィオルたちは嘗ての公家のように地底の暗闇へ潜む忠実な家来を欲した。グリシオン人の入植者から父祖伝来の土地を奪い返す資力も武力も持たず、闇守の塒に縛り付けられたままの哀れなアラール人たちが、その有力な候補者として挙げられた。

 ヴィオルに雇用された貧困層のアラール人は「影蜘蛛」と呼ばれ、嘗て闇守たちが担っていた地下の仕事を引き受けると共に、主君の間諜となってアラルファン社会の頂点に位置する帝国政府の庁務官たちの動向を探り、機密を掴んで並み居る家頭に供物のように献上した。家頭たちは影蜘蛛が調べてきた情報を庁務官との取引材料に使い、彼らがアラルファンの暗がりに跋扈する反帝主義者への苛烈な弾圧に踏み切れぬように癒着を深めた。今日、地上へ蔓延る有力なヴィオルの旧家が無法の限りを尽くしながら健在でいられるのも、影蜘蛛を用いた長年の政治的工作が豊饒な稔りを齎していることの反映である。

「生き延びているとは思わなかったわ」

 すっかり皺の増えたグルタエの蒼白い顔には、惨たらしい古傷が幾つも走っている。彼の祖先も多くの影蜘蛛と同じく、黄駿戦争の混乱で地底の生活へ追い遣られた不幸なアラール人であり、辛うじて拾った命を守り抜き、一族の血脈を永久に保ち続ける為に、闇守十人衆の手駒として生きる道を選んだ人々である。蒼白い肌の色は、彼らが常に陽光の射さない湿った暗闇の世界で暮らしてきた一族であることの証左であった。

「我ら下々の影蜘蛛は皆、主を変えて闇の世界に生き延びております」

 羨門の前に広がる薄汚れた石畳に跪いたまま、グルタエは感涙に乱れる声を懸命に整えて言葉を紡いだ。

「ソルトビルの一門が担っていた闇の務めを、ペンブロードの影蜘蛛だけで担うのは難しゅう御座います。我々は知識と技倆を買われて、その多くが狼の髑髏の紋章に仕えております」

「そう。苦労を掛けたわね、グルタエ」

「滅相も御座いません、御寮様」

 慌てて面を上げたグルタエの瞳には、驚嘆と恐懼が綯い交ぜになって満ちていた。

「御寮様の御活躍は手前も予てより聞き及んでおります。大変頼もしく心強く思っておりました。何よりこうして御無事でいらっしゃること、闇の守り神ゾイク様へ御礼を申し上げねばなりませぬ」

「堅苦しい物言いは止してよ。あたしはもう、ヴィオルじゃないんだから」

 苦味を帯びた複雑な感情が胸底から迫り上がるのを、フェロシュは明瞭に感じ取った。二十余年前、ペンブロードの一門に生家を滅ぼされ、帝都に住まう軍務官の幼妾として売り飛ばされて以来、ヴィオルと称する愚劣で残忍な生き物への深刻な憎悪は片時も脳裡を去らず、殉国隊に加わって広大な地上の世界を駆け回れば駆け回るほど、狭隘なアラルファンの暗がりへ閉ざされた過去の生活を呪わしく思う気持ちは強まっていった。戦後、役目を終えた帝国義勇軍が解散しても、故郷へ帰還することを選ばなかったのは、ペンブロードへの抑え難い怨恨だけが理由ではない。春影帝セファドの戴冠と共に生じた新しい帝国社会の胎動を守り抜くことに比べれば、アラルファンに戻ってソルトビル家の名誉と権勢を恢復することに尽力するのは、不毛な営為に過ぎないと思われたからであった。

「御寮様がそのように考えておられたとしても、我ら影蜘蛛にとって、御寮様がソルトビル家の末裔であり、掛け替えのない生き残りであるという事実は揺らぎませぬ」

 グルタエは真剣な表情を浮かべて、取り縋るようにフェロシュの双眸を見据えた。

「無論、御寮様がどのような道を歩まれようと、それは御寮様自身がお決めになること。我ら影蜘蛛が差出口を叩く問題では御座いませぬ」

「だから、あたしはもうヴィオルじゃないし、今更貴方たち影蜘蛛の主人を気取る積りも」

「御寮様」

 非礼を承知でフェロシュの言葉を遮ったグルタエの瞳には苛烈な光が宿っていた。

「私は御寮様に再びこうして御目通りが叶い、大変嬉しゅう御座います」

「グルタエ」

 ソルトビル家に仕える数多の影蜘蛛の中でも飛び抜けて忠義に篤く、なかなか子供の出来なかった家頭ダイアイスの一粒種であるフェロシュに並々ならぬ愛情を寄せていた往時のグルタエの姿は、今も眼裏に赫々と焼きついている。久方振りの再会に興奮する気持ちも分からないではない。だが、グルタエの口振りに入り混じる一条の異物のようなものを、彼女は怪訝な心持で聞き咎めずにはいられなかった。

「何が言いたいの」

 殉国隊に属して帝国全土の戦場を駆け巡り、鬼神の如き勇ましさで畏怖された紅髪のフェロシュの威光が、その声音には明瞭に息衝いていた。

「御寮様。今のアラルファンには『毒蜘蛛(どくぐも)』が紛れ込んでおります」

「毒蜘蛛?」

 フェロシュは眉を顰めて僅かに唇を咬み締めた。どうやら不穏な予感は的外れではなかったようだ。無論、己の眼力を徒に誇り、不吉な推察が正鵠を射抜いたことを歓ぼうとは思わない。「毒蜘蛛」とは闇守の世界で用いられる隠語で「望まれない客」「忌まわしき怨敵」を指している。それがアラルファンに「紛れ込んでいる」ということは、その毒蜘蛛が容易に取り除き得ない厄介な難敵であることを暗示している。

「コートフェイド様の御下命で、我々は毒蜘蛛の素性を暴きに動いております」

「まさか、例のムジークという男のこと?」

「左様で御座います」

「そんなに面倒な相手なの?」

「単に剣腕の冴えた男というだけには留まりませぬ、御寮様」

 羨門の暗がりに溶けて消え入りそうなほどに絞った声で、グルタエは囁いた。

「毒蜘蛛の飼い主は、この国の中枢におります」

「それって」

 問い掛けた唇を塞ごうとするように、グルタエの剣呑な眼差しが閃いた。

「毒蜘蛛の一味が何処へ潜んでおるかも知れませぬ。我ら影蜘蛛の栖へ御連れしましょう」

 

「雲行きが怪しくなってきたな」

 御霊閨の羨門を去り、再び入り組んだ隧道の闇を進みながら、ラシルドは苦笑を交えて呟いた。

「お前の同胞は、姫君の帰還を待ち侘びていたようだ」

「アラルファンに、影蜘蛛の眼が届かない場所はありません。本当なら、さっさと通り過ぎてしまう予定だったのですが」

「放っておく訳にはいかないんだろう」

「御迷惑でしょうね」

 フェロシュが帝政監査委員会の総裁であるジェリハスから命ぜられた任務は、イシュマールに暮らすラシルドを連れ帰り、暗躍するガルノシュの野望を挫く為の戦列に加えることであり、本来ならばアラルファンの揉め事に容喙する時間などない。ラシルドにしても、影蜘蛛たちの懇請に応じて佩刀を抜き放つ義理はない。グルタエを振り切って帝都への旅路を急ごうとしないのは単なる彼女の我儘なのだ。それを後ろめたく思う気持ちは確かにある。だが、フェロシュはどうしても切迫した様子のグルタエを見捨てて地上へ戻る決断を下せずにいた。

 ペンブロードの毒牙に襲われ、囚われの身となった十二歳のフェロシュが売り飛ばされた相手は当時、帝国軍務庁陸戦院の用兵局長を務めていたゾレスタスという高官であった。生粋のグリシオン人として生を享け、軍略の才能に恵まれた彼は雷声帝政権下で着々と頭角を現し、陸軍における戦術部門の総責任者として絶大な権勢を誇っていた。コートフェイドが幼いフェロシュの身柄をゾレスタスに売り渡したのは、異族の弾圧に血道を上げる雷声帝政権の重臣と密通することで、官兵の矛先をアラルファンから逸らす為であったらしいが、成熟した女体よりも幼女の未熟な躰を好むゾレスタスの個人的な性癖に捧げられた本人からしてみれば、そのような政治的経緯は悲痛な屈辱を堪え忍ぶ理由にはならなかった。セファド・グリイスが蜂起し、猛り狂った雷声帝アイルレイズが軍務庁に逆賊征討の詔令を発すると、用兵局長であったゾレスタスは臨時に編制された征旅の幕僚に選ばれた。出征の前夜、酒に酔った主人から普段にも況して嗜虐的な性交を強いられたフェロシュは、寝室の抽斗から盗んだ軍刀でゾレスタスの喉笛を掻き切り、首を斬り落とした揚句、壮麗な邸宅へ火を放って帝都を脱出した。

 爾来、殉国隊の一員として雷声帝政権の転覆に奔走し、戦後は帝政監査委員会に加わって忙しく働くうちに、二十年の歳月は瞬く間に過ぎ去った。無論、一度も故郷の命運を想わなかった訳ではないが、踏み躙られた一族の骸と対面するのは古傷を自ら抉るようで気が進まなかったし、ゾレスタスの一族を殺戮した以上、妾の売主であるコートフェイドが帰還したフェロシュを快く歓待する筈もなかった。帰る理由などない、待ち人は誰もいないのだから。そう自分に言い聞かせ、眼前の任務に精励することで、彼女は徒労に似た回想の機会を押し潰すようにして走り続けてきた。

「迷惑ではない。過去の因縁から、何時までも逃れられる訳もなかろう」

「何だか立場が逆転してしまいましたね」

 イシュマールへ強盗のように押し入り、平和な日々に牙を抜かれたラシルドを許そうとしなかった数日前の自分が、とても野蛮で残酷な存在のように思えてならなかった。過ぎ去った日々の翳りから眼を背けたくなるのは人間の情というものだ。現に自分は、世話になった影蜘蛛たちの末路を想像しようともせず、離散した郎党の消息を確かめようともしなかった。殺された父親の葬儀さえ、未だに営まずに済ましているような有様だ。幸いにも生き長らえた影蜘蛛たちは、殉国隊の英雄として活躍するフェロシュの華々しい名声を耳にしながら、どのような心境で果てしない屈辱と慚愧の日々を堪え抜いてきたのであろう。どれだけ主君の帰還を待ち侘びたことであろう。この期に及んで猶、グルタエの象徴する過去の因縁から眼を背ける訳にはいかない。

「アラルファンの命運など構わないと、グルタエに向かって言い放つことは出来ません」

 フェロシュの正直な告白に、傍らを往くラシルドは前を見据えたまま笑って答えた。

「御互い、筋金入りの苦労性のようだな」