サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十章 重ならない掌 1

 市域北端の駅舎と南端の警事局を結ぶイレファバン大路を除けば、ドレイナの街並を縦横に走り抜ける道筋に凡そ計画性といった概念は見当たらない。元々、タイリン平原を転々と移り住む遊牧民であったドラン人たちが、牧草の枯れ果てる厳冬の季節を乗り切る為の野営地として築いた集落が原形であるドレイナに、整然と秩序立った道路網を望むのは御門違いというものであろう。大路を一歩逸れれば、道幅も曲線の描き方も異なる小路が雑然と絡まり合いながら、犇めき合う家並の狭間を這い回っている。

 然し、入り組んだ小路に沿って向きの揃わぬ建物が肩を寄せ合う混沌とした街並みに、如何なる秩序も規則も存在しないという訳ではない。古式床しき氏族社会の掟に基づいて日々の暮らしを営むドラン人たちは、緩やかな血縁で結ばれた「リャーグ」と呼ばれる単位毎に集住しており、その縄張りは眼に見えなくとも厳然たる境界線によって区画されている。異なるリャーグに属する者の立入が禁じられている訳ではないが、間違っても「リアベラ」と称する聖域には足を踏み入れてはならない。ドラン人の古語で「神々の寝間」を意味するリアベラには一族の氏神を祀る祠が安置されており、族長と祭官だけが聖域の境界を跨ぎ越す権利を認められる。異なる氏族のリアベラを侵すことは最大の禁忌であり、族長を束ねる首長と主祭(祭官の長)の裁きに基づいて厳格な処分が下される慣わしだ。

 目当ての男の家は、ドレイナ北西部のミランサ・リャーグにあった。紫の奔馬の刺青を一族の象徴とする彼らは古来、有能な薬師を輩出してきた氏族であり、その縄張りには医者の看板を掲げた家が数多く建ち並んでいる。曲がりくねった小路を歩いて二人が辿り着いた先は、ミランサ・リャーグの中心部に威風堂々と聳え立つ円形の邸宅で、入口の庇に吊り下げられた紫の奔馬の木彫は、この屋敷の主人が高貴な血筋に連なる者であることを誇らしげに告げていた。

「今は何も話したくない。冷静になれない」

 男の名はゼイヴァといった。イレファバン大路で刺殺された女の夫で、ミランサ・リャーグの族長の嫡男である。年の頃は三十を過ぎたばかり、頬髯を丁寧に刈り込んだ繊弱な細面の青年だが、矢張りドラン人の血は争えないのか、隆々たる筋骨の持ち主だ。

「刺した男を、あんたは見なかったのか」

 カゲイロンの問いに、ゼイヴァは虚ろな表情で俯いた。

「見たよ。行商人みたいな服装で、向かいから歩いてきたんだ。擦れ違ったと思ったら突然、アライスの首が血を噴いた。俺は慌てて彼女を抱き寄せた。辺りを見渡しても、既に行商人の姿は見当たらなかった。一瞬で、煙のように消えちまったんだ」

 陰気な口調で訥々と語るゼイヴァの瞳は荒涼たる光を湛え、その指先は胸許に提げた小さな白檀の薬箱を握り締めて小刻みに顫えていた。薬師の聖地であるミランサ・リャーグでも随一の腕利きの家へ担ぎ込まれた彼の妻は既に失血が夥しく、懸命な介抱も消えかかった命の燈火の勢いを呼び戻すには至らなかったらしい。親族の者たちが弔意を示す漆黒の帯を胴へ巻き付けて忙しく立ち働いているのは恐らく、埋葬の仕度であろう。

「犯人に心当たりはねえのか」

「そんなの決まってるじゃないか。ラルダドラドの連中だよ」

 相手がドレイナの風習や事情に明るくない余所者であることさえ失念して、ゼイヴァは憤慨したように語気を強めて吐き捨てた。

「連中は、殺しの標的なんか誰だって構わないんだ。ドレイナの住人だというだけで、万死に値すると信じ込んでるんだからな。逆恨みにも程がある。警事局は頼りにならないし」

「同じドラン人だからな。厳格な処罰に、躊躇いも出るだろうさ」

 ヴァルクリフの苦渋に満ちた表情が眼裏に浮かび上がる。雷鳴戦争の渦中、腹が立つほど頭の切れる性悪な暴君が仕掛けた罠は、グリイス広場での刎頸から二十年が過ぎた今も、衰えることを知らない強力な効き目を発揮し続けているのだ。亡霊の怨嗟に踊らされ、共通の父祖を有する草原の民が報われない抗争に溺れているのを目の当たりにするのは、気分の好い経験ではない。

「同じドラン人だったのは、大昔の話だ。俺が餓鬼の頃にはもう、ラルダドラドの連中はドレイナの人間を劇しく憎んでいやがった」

 迫り上がる憤怒に歯軋りしながら、ゼイヴァは呪詛に似た言葉を低い声で紡いだ。

「今更、見苦しいんだ。戦争が終わって以来、連中は火が消えたように大人しくなった。雷声帝という後ろ盾を亡くして、自分たちに勝ち目がないことを悟ったのさ。そのまま、時勢に押し流されて滅び去ればいいものを、思い出したように恥知らずの悪足掻きに夢中になるんだから、全く始末に負えない奴らだ」

「勢いを盛り返したということか?」

「さあね。この街の人間は誰も、ラルドー湖には近づかない。ラルダドラドの連中が、どんな暮らしを送っているのかも知らないのさ」

 無関心な口振りで答えるゼイヴァから視線を逸らし、カゲイロンは眉根を寄せて押し黙った。戦時中、雷声帝の支援を受けてネヴァン首長とその同胞への憎悪を爆発させていたラルダドラドの人々が、陛派の敗北と共に勢威を失って衰亡の極みへ追い込まれるのは当然の成り行きである。春影帝政権の樹立後、戦犯として連行された族長のワーファドは非業の死を遂げ、後見人であった雷声帝アイルレイズも同じく斬首刑に処されて常世へ去った。暴君の庇護を失い、見捨てられた集落の人々が今、ドレイナとは比較にならないほどの貧窮を強いられていることは確実である。にも拘らず、彼らが長年の沈黙を破って俄かに立て続けの凶行へ走り出した背景には、何らかの特別な事情が介在していると考えねばならない。残酷な運命に虐げられ、極限の困窮に埋没している筈のラルダドラドのドラン人を衝き動かし、血塗れの犯罪へ駆り立てている不穏な「影」。そこにガルノシュの策謀を照らし合わせるのは、突飛な妄想に過ぎないであろうか。

「嫌な予感がするな」

 ゼイヴァの家を辞去して、黄昏の光に染まり始めたミランサ・リャーグの街並を往きながら、カゲイロンは胸の痞えを吐き出すように静かな声で呟いた。傍らを歩くエトルースも同じ心境なのか、渋い表情で黙って頷いた。

「雷声帝の処刑から、もう二十年だ。長い間、見捨てられて滅びかけてた筈だってのに、今になって次から次へと報復の殺人を繰り返すなんざ、如何にも不自然な話じゃねえか」

「ガルノシュの復権と時期が重なっているのが、不吉な暗合だな」

「暗合じゃねえだろ。どう考えたって、彼奴が手を回してるに違えねえ」

「未だ確証はないさ」

 慎重な意見を表明してみたものの、内心ではエトルースも相棒の見立てに概ね同意していた。具体的な経緯や実情は詳しく調べてみない限り判然としないが、消え残った熾火のようなラルダドラドの陛派勢力に何らかの支援を行なうとすれば、黒幕はガルノシュ以外に考えられない。枯葉に水を遣って束の間の輝きを甦らせたところで大した実益が見込めるとも思えないが、熱心な閣派の多いドレイナの街に内紛の火種を投じることで、足許の不安を少しでも減殺しようという魂胆ならば頷けない話でもない。

「素人が急に熱り立って殺しに走ってるにしちゃあ、幾らなんでも手口が鮮やか過ぎる」

 素直に賛同しないエトルースの態度に水を差された気分で、カゲイロンは語気を強めた。

「通りすがりに一瞬の早業で喉笛を掻っ切るなんて、余程の手練じゃなきゃ無理だろ。ラルダドラドの連中が、そんな黒衣隊紛いの技術に熟達してる訳はねえ」

「攪乱かも知れん」

「攪乱?」

「誰かが、ラルダドラドの仕業だと思い込ませようとしてるんじゃないか」

 エトルースは懐中から一枚の紙片を取り出して広げてみせた。警事局を去るときにヴァルクリフから手渡されたもので、直近の三箇月間にドレイナ市内で発生した殺人事件の概略が書き込んである。

「ヴァルクリフの話にも出ていた、二箇月前の駅員殺害事件の下手人。こいつは呪草を服用して頭の沸いちまった単なる素人だった。だが、例えば今日の事件はどうだ? 誰も犯人の姿を覚えていない。殺された女の傍を歩いていたゼイヴァでさえ、犯人が何処へ消えたのか見当もつかないような有様だ。そんな手練が混じっているとしたら恐らく、そいつはラルダドラドの人間じゃない」

 エトルースの不穏な憶測を迂闊に一蹴出来ず、カゲイロンは低い唸り声を発して考え込んだ。白昼堂々、大通りで人を殺しておきながら、跡形もなく行方を晦ますことの出来る凄腕の刺客。この二十年間、ラルダドラドの住人がどのような歳月を過ごしてきたのか知らないが、荒れ果てた村落の生き残りが延々と暗殺の技術を錬磨し続けてきたとは思えない。憎しみに凝り固まり、健全な精神を失ったまま、呪草の密売などで辛うじて糊口を凌いでいると想像する方が妥当であろう。そんな腑抜けどもに、傑出した暗殺の技倆が備わる理由はない。恐らくは悪辣な第三者が手頃な奴隷として彼らを使役し、ドレイナへの襲撃を指揮しているに違いない。

「背後の黒幕がガルノシュだとしたら、その証拠を掴んでおく必要があるな」

「おいおい、俺たちの役目は警事局の召使じゃないんだぞ」

「帝都へ舞い戻るだけが能じゃねえ。俺たちの最終的な目標は、ガルノシュの野望を打ち砕くことだろうが」

 眦を決して言い放つカゲイロンの剣幕に、エトルースは改めて相棒の頑迷で強情な性格を思い出し、そっと溜息を漏らした。ドレイナへの襲撃がガルノシュの采配であるなら、その大掛かりな悪企みを挫くのは確かに帝監委の方針に適うであろう。だが、組織の成員として動く以上、勝手な個人技に走って本来の分担を放擲するのは道理に反する振舞いだ。

「ラルダドラドの問題を解決するには、厖大な時間と労力が要る。生半可に首を突っ込める話じゃない」

「誰が生半可に関わると言った? 俺は何時だって本気だぜ」

「本気で関わり合いになったら、帝都への到着は果てしなく遅れてしまう。帝監委の一員である以上は、総裁の指示から逸脱するのは止せ」

「俺はジェリハスの飼い犬じゃねえんだ」

「誰も飼い犬だとは言っていない。いいか、カゲイロン。俺たちは限られた時間と人数で、壮大な戦いに挑んでいる。寄り道なんかしてる場合じゃない」

「此れが寄り道なら、帝監委の使命とは一体何だって言うんだよ」

 見開かれた双眸に泡立つ瞋恚の破片を、エトルースは正面から見凝め返した。直情径行の気質や、純粋な義憤に駆り立てられることを辞さない性格が、時に素晴らしい稔りを齎すことは認めている。だが、ドレイナの問題に拘泥して本務から逸脱していては、それこそガルノシュの思う壺だ。

「お前の誠意を疑う積りはない。帝監委の使命が、不毛な闘争を終焉させることにあるのも弁えているさ。だが」

「だったら、彼是と面倒な御託を並べ立てるんじゃねえ」

 質の悪い酔漢のように立ち開かって、カゲイロンは反駁を遮った。

「ドレイナが揉めれば、帝都にも皺寄せが行く。此れは絶対に寄り道なんかじゃねえ」

 言い返した途端に鉄拳が飛びそうな凄まじい形相に、エトルースは眉を顰めて首を振った。一旦決めたことは意地でも曲げようとしない筋金入りの硬骨漢と手を組むのは、実に骨の折れる作業だ。帝都へ還ったら総裁のジェリハスに、相棒の変更を願い出る必要があるかも知れない。

「仲違いしても始まらないな」

 うんざりした表情で白旗を掲げると、エトルースは顎を刳って次の目的地を指した。

「あれが族長の屋敷だろう。日が沈む前に訪ねてみよう」