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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十章 重ならない掌 3

創作「刃皇紀」

 ボルワンの屋敷を辞去する頃にはもう、辺りは一面の夜陰に覆われていた。頭上には大振りの湾刀のような灰色の三日月が浮かび、寝静まった路地には人影もない。

「なかなか根深い問題のようだな」

 エトルースが呟くように投げ掛けた言葉は、不機嫌な表情で口を噤んだままのカゲイロンに素気なく黙殺された。ラルダドラドへの侵攻という過激な決断に傾きつつある現状に、劇しい苛立ちを募らせているのであろう。固より義理堅い男だから、ドラン人同士の抗争という最悪の筋書きを避けるべく齷齪しているヴァルクリフの顔を思い浮かべて、焦慮に身も心も駆り立てられているに違いない。

「腹を立てても始まらんさ。良くも悪くも、あの男がドラン人の首長である事実は動かないんだ」

「そんなことは分かってる」

 分かっていないから、そんな物騒な面構えを崩せずにいるんだろうと厭味の一つも言いたくなるが、唯でさえ血の気の多い野獣の横面を態々張り飛ばして挑発しても無益である。実際、理窟では何もかも分かり切っているのだ。雷声帝アイルレイズが仕掛けた巧妙な罠は今も、ドラン人の精神にどす黒い陰鬱な毒薬を流し込み続けている。緩やかな連合体として纏まっていたドランの民を引き裂く為に、暴君は敢えて誘惑の火種を草原に投じた。総てを焼き払うことは困難でも、一筋の煙すら立たないということはあるまい。恐らくはそうやって冷徹な計算を組み立て、狡猾な手管を弄したのであろう。結果的にワーファドを盟主として推戴した幾つかの氏族はドレイナを去り、ラルドー湖畔にもう一つのドラン人の都を築き上げた。雷声帝は乏しい熾火を紅蓮の劫火へ育て上げる為に、大枚を叩いて惜しみなく油を注ぎかけた。閣派のドラン人と、陛派のドラン人。嘗て存在したことのない奇怪な「派閥」に引き裂かれた人々は、タイリン平原を舞台に骨肉の争いを繰り広げなければならなくなった。

 一旦回り始めた怨念の糸車を押し留めるのは難しい。二十年前、怨敵の遺児であるガルノシュ・グリイスを助命した春影帝セファドは恐らく、軋み続ける糸車の不快な叫びに堪えかねて血讐の連鎖を断ち切ろうと決意したのであろう。結果としてその清廉な処断はガルノシュ一派の跳梁を助長し、国政の足許を支える堅牢な政治的礎石を徐々に蝕むこととなった。寛容な精神が常に氷結した遺恨を融かして宥和へ導き得るとは限らないことが、白日の下に証されつつあるのだ。当然のことながら、同様の理窟はドレイナにも当て嵌まる。相次ぐ事件が本当にラルダドラドの住人による報復であるならば、氏族の同胞を殺された族長たちの動揺と激発を、壮麗な大義名分だけで封じ込めるのは不可能だ。

「犯人を捕らえて、処罰して、それでも問題は収まりそうにないな」

 この期に及んでドレイナの窮状を看過する積りはないが、容易なことでは片付かない難問に首を突っ込んでしまったという後悔は消えていない。ヴァルクリフの右腕となって働くのは一向に構わないが、頭脳である警事局の首脳さえ解決の方途を掴めていない現状を鑑みれば、仕事が長引くことは十中八九確実であった。

「ラルダドラドの闇を暴かねえ限り、埒は明かねえだろう」

 漸く口を開いたカゲイロンの双眸は、燃え立つような決意の光を湛えていた。それを見て思わず、エトルースは口の端を緩めた。昔から厄介な仕事とは相性のいい男である。

「どうするんだよ。ラルダドラドへ乗り込む積りか?」

「ドレイナに放たれた野犬を狩るのは、警事局やリャーグの連中に任せときゃいいだろ」

 不敵な面構えで宵闇に紛れた小路を睨み据えながら、カゲイロンはあっさりと言ってのけた。

「何処かに野犬を調教してる連中がいる。その証拠を掴めば、多少は風向きも変わるかも知れねえ。分からず屋の族長を説得するには、分かり易い材料が要るだろ」

「成程ね」

 ガルノシュの一派がラルダドラドの悪しき変貌に荷担しているとすれば、刺客に仕立て上げられたドラン人たちを、望まぬ任務を強いられた哀れな「被害者」として擁護することも不可能ではない。無論、殺された同胞の無念に固執する族長が現れて、そのような論理を「詭弁」だと一蹴する虞もあるが、投じた賭け銭が総て水泡に帰す話でもない筈だ。

「だが、ヴァルクリフが何と言うだろうな」

「双手を挙げて賛成するに決まってんだろ」

「それは甘い期待だろう。彼は抗争が激化することを懼れている。余所者の俺たちがラルダドラドへ乗り込めば、どんな騒ぎを巻き起こして帰ってくるか知れない、と懸念するんじゃないか」

「誰かが乗り込んで黒幕を暴かなきゃ話が進まねえじゃねえか」

「そうやって直ぐに熱り立つのは悪い癖だ。大体、お前の性格を知っている人間なら、こういう入り組んだ問題の解決に起用するのは誤りだと」

 そのとき、凄まじい喚声が静まり返った小路の闇を劈いて響き渡った。女の声だ。二人は口を噤んで顔を見合わせ、眉根を寄せた。

「悲鳴の多い街だな。流行ってんのか?」

「カゲイロン。その冗談は笑えないぞ」

 女の悲鳴が止むと、今度は男たちの荒々しい怒号が谺し始めた。乱暴な靴音が幾重にも連なって響き、徐々に近付いてくる。

「この調子だと、どうやら例の殺しが起きたんじゃねえのか」

「有り得るな。だとすれば、犯人を捕まえる絶好の機会だ」

 物音を頼りに二人は小路の闇を掻き分けて走り出した。月明かりの射す路地は無秩序に折れ曲がり、様々な場所で交差しながら視界の涯まで続いている。薄汚れた幌屋根の民家の窓に次々と灯りが入り、寝床から這い出した氏族の男たちが遽しく着替えて路上へ飛び出してくるのが見えた。

「殺しか! 何処へ逃げやがった?」

「分からん! 眼にも留まらん速さだった」

「あれじゃないのか! ヒルヴェス小路の方だ!」

「見ろ! 彼奴、塀の上を走ってるぞ!」

 口々に発せられる叫び声が仄暗い路地へ折り重なっていく。その混乱を嘲笑うかのように、狭隘な小路に沿って連なる石垣の上を走り抜ける人影が、視界の隅を猛禽のように掠めた。

「追い掛けるぞ」

「ああ。だが、恐ろしく速いな」

 鍛え抜かれた二人の強靭な下肢を以てしても容易には追いつき難い爆発的な速度で、人影は石垣の上を滑るように駆け抜け、軈て視界から外れた。ドレイナの男たちが松明を振り翳して宵闇を払い除け、舞い散る火の粉が頭上から降り注ぐのも構わず、あらん限りの力で小路を直走っていく。誰もが相次ぐ殺人に腸の煮え繰り返るような憤怒と、背筋の凍るような恐懼を溜め込んでいるのだ。漸く姿を現した不届者を八つ裂きにしようと、喉笛から獰猛な罵声を奔出させて、男たちは逃げ惑う曲者を恫喝していた。

「このままじゃ、私刑が始まっちまうな」

「捕まえられんだろう。常人の速度とは思えん」

 遠くで再び荒々しい喚声が轟き、幌屋根の上だと言い立てる女の甲高い叫びが耳を打った。火をつけられたように泣きじゃくる赤児の声も聞こえる。誰もが異様な興奮の渦中に呑み込まれ、狂ったような暴力の臭気に噎せ返っている。

「降りてくるつもりはねえな。おい、エトルース。高いところは好きか?」

「好きでも嫌いでもないが、這い上がるさ」

 手近な石塀に縋りつき、門柱の頭へ蹠を押し付けて、カゲイロンは四方を睥睨した。松明の光に煌々と照らし出された幌屋根の頂に、銅像のように聳え立つ若い男の姿が見える。恐ろしい速度で走り続けた後だというのに、疲弊した様子はない。

「話し合おうぜ、殺し屋」

 民家の庇を掴んで軋ませながら幌屋根の縁へ攀じ登ると、カゲイロンは両手を広げて大声で呼び掛けた。

「ドレイナの連中は、お前たち殺し屋のことを劇しく憎んでやがる。地上へ降りれば、忽ち袋叩きだ。死にたくなけりゃ、俺を交渉相手に選ぶんだな」

 人影は答えず、屋根の稜線の彼方へひらりと身を翻して消え去った。思わず舌打ちして怒鳴りかけたカゲイロンの肩を、エトルースの掌が諭すように捉まえた。

「聞く耳などある筈がない。彼奴はドレイナの人間を殺しに来たんだぞ」

「そんなことは分かってる。説教好きなのは、お前の悪い癖だ」

 苦々しげに相棒の手を払い除けながら、カゲイロンは再び幌屋根の頂へ眼を遣った。

「そうだとしても、話し合うしかねえんだ。本気で抗争を避けるには、他に術がねえ」

「おいおい、お前らしくないじゃないか」

 嘗て殉国隊の軍長として雷名を轟かせたカゲイロンは、戦前の南方警務院で暴徒制圧局長を務めていた頃の習性が今も残っているのか、咎人を仕留める為ならば如何に強硬な手段も辞さない男である。暴漢を鎮めるのに迂遠な話し合いを選ぶなど、本来の性格から考えれば有り得ない奇蹟であった。

「俺だって偶には、思慮深く振舞うことも出来るのさ」

「気味が悪いぞ。天変地異の前触れでないといいが」

「エトルース。仮に天変地異が起きても、お前のことは助けねえからな」

「御互い様だ。俺も一目散に逃げ延びさせてもらうよ」

 再び走り出した二人の行く手を、俊敏な人影は巧みに駆け抜けていった。不安定な足場にも構わず、驚くべき速度で幌屋根の斜面を蹴立てていく。馬術と風棍の扱いに熟達したドラン人は珍しくないが、あの強靭な脚力は幾らなんでも常軌を逸している。追い詰めるのは至難の業であった。

「エトルース、お前はどう考える?」

 息を弾ませながら、カゲイロンは傍らを走る相棒に問い掛けた。

「どう考えても、裏があるとしか思えないな。単なる訓練で、あれほどの脚力が身に着く筈はない」

「呪草か?」

「有り得るな。仮にガルノシュの配下が黒幕なら、調達に難渋することもあるまい」

 服用した人間の肉体を帯呪状態へ遷移させる呪草は、数千とも数万とも言われる品種に分かれており、含有されている呪子成分の組成に応じて多様な呪象を顕現させる。中には人間の身体的機能を強化する効能を持つものも少なくない。刺客の尋常ならざる脚力の源を呪草の服用に求めるのは、的外れな憶測とは言えない筈だ。

「だとしたら、そのうち効果が切れるに違いない」

「我慢比べだな」

 実際、刺客の逃げ足は刻一刻と鈍りつつあった。唯でさえ踏み締めるのに難渋しがちな幌屋根や石塀の上を猛烈な速度で走り抜けるのだから、呪草の効果に支えられていても疲労の蓄積は甚だしいに決まっている。しかも男は、街中の小路を赫奕と照らし出す松明の群れに怯えているのか、地上の暗がりへ逃げ込む気配を見せなかった。限られた足場を伝って堂々巡りの遁走を強いられれば、遅かれ早かれ気力が萎えてくるのも致し方ない。

「いい加減に観念しろ!」

 何度目の怒号であったろうか。虚空を劈いて迸ったカゲイロンの咆哮に気を取られたのか、男は幌屋根を支える梁の隆起に蹴躓いて、そのまま堪え切れず転倒してしまった。慌てて起き上がろうとするが、酷使された両脚の筋肉が悲鳴を上げているらしく、生まれたばかりの仔馬のように覚束ない動きで這い回ることしか出来ない。

「助かったな。こっちもそろそろ限界だ」

 荒い息を吐いて屈み込むエトルースを尻目に、カゲイロンは佩刀の柄へ指を絡めて、ゆっくりと男の眼前に歩み寄った。