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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十章 重ならない掌 4

創作「刃皇紀」

「お前はラルダドラドの人間か」

 幌屋根の頂から突き出した棟頭(むねがしら)と称する部材に縋りついて、男は懸命に立ち上がった。然し、先刻まで驚異的な脚力を示していた下肢は頼りなく顫え、真直ぐに背筋を伸ばすことさえ難しい様子であった。

「未だ逃げる積りか。止めとけ、下は酷い騒ぎだ」

 カゲイロンは顎を刳って海鳴りのように押し寄せるドラン人たちの罵声へ注意を促した。漸く見つけた下手人への呪詛の叫びは鎮まる気配がない。迂闊に地上へ降り立てば、理性を失った彼らの暴虐を押し留める術は存在しないであろう。警事局の檻へ抛り込まれる方が未だ安全であるに違いない。

「聞こえるだろ。呪いの歌だ。お前たちが犯した罪の報いって訳だ」

 棟頭を掴み、汗ばんだ頬を引き攣らせた男の顔立ちは思いのほか若々しかった。首筋には濃い珊瑚色の奔馬の刺青が刻まれている。詳しい素性は知れないが、ドランの民であることは確実である。

「報いだと」

 荒い息遣いの隙間から滴り落ちるように発せられた男の声は、哀れなほど掠れて聞こえた。

「ふざけるな! 報いを受けるべきは、ドレイナの人間の方だろう」

 肩を大きく揺らしながら、精一杯の力を振り絞って男は叫んだ。

「そういうのを、語るに落ちるって言うんだぜ」

 底意地の悪い笑みを口許へ貼り付けて、カゲイロンは脅かすように一歩前へ踏み出した。

「ラルダドラドから来たんだな。正直に吐いちまえよ。今更、言い逃れを許す積りはねえ」

 己の間抜けな失錯を悔やんでいるのか、男は暫くの間沈黙を守り通した。騒ぎ立てる地上の群衆たちは、松明の光だけでは追い詰めた獲物の姿が捉えられないらしく、小路の交わる四つ辻へ大掛かりな篝火を焚き始めている。愈々血腥い興奮が切迫した殺意に転じつつあることを、カゲイロンは肌身で悟らずにはいられなかった。本当に黒幕がガルノシュなのだとすれば、その悪趣味な手口は虐政を布いた父親譲りであろう。

「お前は、ドレイナの人間じゃないな」

 躊躇いがちな口調で切り出した男は、幾らか落ち着きを取り戻したらしく、澄明な声音を響かせてカゲイロンの双眸を睨み据えた。

「余所者には、俺たちの苦しみなど分かりはしない」

「余所者だからこそ、見えるものだってあるとは思わねえか、青二才」

 男の潔癖な排他性を嘲笑うように、即座に切り返してみせる。ラルダドラドの窮状を実際に目の当たりにしたことはないが、こんな若者が人を殺めたくなるほど追い詰められているのだとしたら、その惨憺たる光景は自ずと眼に浮かぶ。父祖の暮らしてきたタイリン平原の集落から放逐され、エレドール沙漠に程近いラルドー湖畔の罅割れた乾土へ塒を移さねばならなかった者たちの苦しみ。仕えるべき相手を見誤ったが故の冷遇と弾圧の日々。権力から疎んじられ見限られた人々が如何なる非道の餌食となるか、雷声帝の御世を知るカゲイロンにとっては断じて他人事ではなかった。

「名前ぐらい教えろよ」

 人殺しに憐憫を寄せるのは不毛な趣味だと弁えていても、追い詰められた鼠を殊更に鞭打つような真似は自ずと差し控えずにはいられなかった。

「お前を罰することが、俺の目的じゃねえ。真相を知りたいだけだ」

「何の真相だ」

「決まってるだろ。ドレイナで相次いでる殺しの背景を暴きてえのさ」

「お前には何も分からない」

「決め付けるのは止せよ。話してみなきゃ分かんねえだろ」

「話したって通じない。だから俺たちの村は荒廃してるんだ」

 開き直ったように言い放つ若い男の双眸を、カゲイロンは凝と見据えて言った。

「訳を聞かせろよ。名前は?」

「ガルウジアだ」

 何処にも逃げ場がないことは、男の方でも悟っているらしい。篝火から噴き上がる火の粉が夜風に乗って幌屋根の庇へ蛍のように集る。怒号と罵声は幾ら待っても鎮まらず、寧ろ刻々と勢いを増しつつあった。

「何処のリャーグだ」

「ヴェルサ」

「ワーファドの一族か」

 ヴァルクリフの昔語りに登場した不幸で愚かな族長の名が、耳鳴りのように鼓膜へ押し寄せた。雷声帝の甘言に釣り込まれ、帝国からの独立という見え透いた夢想への憧れに逆らえなかった哀れな男。その決断から二十余年の歳月が経過した今も、一族の末裔は年々水量の痩せていく湖の畔で苛酷な生活を強いられている。死者を咎人として罵るのは節度を欠いた振舞いだ。リャーグへの忠誠を至高の美徳と信じるドランの民が、非業の死を遂げた族長への呪詛を露わにすることは許されない。然し、胸底を蝕む現状への劇しい憤怒と切実な苦悩を完全に否むことも出来ないのであろう。引き裂かれる魂の陰鬱な嘆声を、ラルダドラドの人々はどんな思いで聞いているのか、想像してみるだけでカゲイロンの心は暗澹とした。

「復讐か。今更、誰がそんなことを言い出したんだ」

「誰でもない。此れは俺たちヴェルサ・リャーグの、いや、ラルダドラドの民の総意だ」

「無辜の男女を殺めることが、ラルダドラドの信じる正義って訳か? 笑わせるなよ」

 反射的に投げ付けられた嘲笑的な科白に、ガルウジアは身を硬くして熱り立った。

「無辜の男女なんかじゃない。ドレイナの連中は、ヴェルサの人間を犬のように追い払った。慣れ親しんだ故郷から、腕尽くで追放したんだ!」

「古の仕来りに則って、正々堂々と決めたことだろう。不満を並べるのは御門違いだ」

「余所者に何が分かるんだ。雷声帝が崩御した後、ドレイナの奴らは、見捨てられた俺たちに救いの手を差し伸べようとはしなかった。どんな窮迫も然るべき報いだと、平然と言い捨てた。同胞の紐帯を断ち切ったのは、ドレイナの連中の方だ!」

「手前勝手な言い分だな」

 顔色一つ変えずに吐き捨てながら、カゲイロンは更に一歩、男の傍へ躙り寄った。

「だから、ドレイナの民を襲うってのか? それが正義だと言い張るのか? 自ら絆を踏み躙ってるのは、どっちなんだ」

「俺たちに、他に生き延びる術はない」

「生き延びる術? 人殺しが生き延びる術だと言うのかよ」

 不可解な発言に眉を顰めて問い返すカゲイロンの眼差しを、ガルウジアは白刃のような瞳で迎え撃った。

「隊長の命令だ。ドレイナの住人を一人殺す度に、一万エナクの褒賞が貰える。見捨てられた俺たちにとっては大金だ」

「どういうことだ」

 眼光が自然と鋭さを増していく。ラルダドラドの生活が如何なる規則によって律せられているのかは知らないが、集落の頭目を「隊長」と呼ぶのは奇異な慣習と言わざるを得ない。

「知らないのか。帝都治安本部蒼衣隊のマドン帥刀官だ」

「何だと?」

 意想外の回答に、驚愕が脳裡を荒々しく駆け巡る。蒼衣隊は「鋸鎌(のこぎりがま)」の俗称で知られる帝都治安本部の内局で、その主要な任務は呪草に関わる密貿易の摘発である。服用するだけで寝たきりの病人も歩き始めたばかりの幼子でさえも凶悪な兵器に変えてしまう呪草は、国家の治安に重大な禍いを及ぼす虞がある為、呪草禁圧令の下で取扱いに厳格な制限が課せられている。取締りには帝国警務庁の薬物管理局も従事しているが、密貿易には狂暴なヴィオルが絡むことも多く、警務官だけでは手に負えない事案に就いては蒼衣隊へ出動を要請することが慣例となっていた。

「鋸鎌の頭目が、お前らの雇い主ってことか」

 不吉な予測が概ね正鵠を射抜いていたことに、カゲイロンは眩暈を覚えた。半年前、軍務庁の機密資料をヴォルト・アクシアの財閥へ売り払った廉で拘禁され、軍法訴訟院へ突き出されたマドン帥刀官は元々、兵器開発局長の要職にあった技官畑の軍人である。庁務官資格の剥奪という致命的な処分は辛うじて免かれたものの、呪草の管理に携わる蒼衣隊への転属が紛れもない懲罰人事であることは誰の眼にも明らかであった。嘗て呪合弾の発明など華々しい業績を上げ、行く行くは工務庁掌への異例の抜擢も有り得るのではないかと噂されていた大物の失脚に、世間は冷笑と当惑の双方を纏めて浴びせかけた。カゲイロンも、雷声帝政権下で着々と血腥い新型兵器の開発に血道を上げていたマドンの没落を聞いて、大っぴらに快哉を叫んだものだ。

 そういう曰くつきの男が、幾ら豊富に自生する呪草の為にヴィオルの蝟集を招いている土地柄であるとはいえ、ラルダドラドに住まうドラン人たちの飼い主という地位へ横滑りしているのは、如何にも不可解な成り行きであった。

(やっぱり放置する訳にはいかねえな)

 カゲイロンは呼吸を整えてから再び口を開いた。

「金の為なら、人殺しも辞さねえのか。仲違いしたとはいえ、お前らにとっちゃドレイナの人間は同胞だろ」

「綺麗事を並べたって飯は食えないのさ」

 ガルウジアは乾いた口調で答えながら頬を歪めた。

「もう疲れてるんだ。自力じゃどうにも脱け出せない蟻地獄に落ち込んじまった俺たちにとっては、マドン隊長は救世主みたいなものなんだ」

「その考えは間違ってるぜ」

 追い詰められた刺客の切実な告白を遮って、カゲイロンは毅然たる態度で言い放った。

「ドレイナの民を殺すのにラルダドラドの人間を金で雇い入れるなんて、下種の極みだと思わねえか。刺青を狙って首筋へ斬りつけるのも、マドンの指示なんだろう」

 ドラン人の矜りの象徴である刺青を毀損させることで、恐らくマドンとその背後に潜む陛派の重役たちは深刻な内紛の惹起を図っている。嘗て巧みな言葉で丸め込んだヴェルサ・リャーグの人々の窮迫に、彼らは微塵の痛痒も覚えていないのだ。己の野心の為ならば、ドラン人たちの不幸など安上がりな代償ぐらいにしか考えていないに違いない。

「そうやってお前らは戦後二十年が過ぎても未だ、陛派の悪党どもの掌の上で狂ったように踊り続ける積りなのかよ。いい加減に馬鹿馬鹿しい話だと気付いたっていいんじゃねえのか」

 青年に回心を迫る積りで投じた言葉は、予期せぬ効果を齎して虚空に散じた。

「分かってるさ。そんなことは言われなくたって、誰もが心得てるんだ」

 覇気の失せた声で、ガルウジアは悲痛な胸中を雨垂れのように一滴だけ漏らした。

「だけど、もう始まったんだから仕方ない。マドンは独裁者だ。俺たちはもう、彼奴の支配から逃れられない。何処にも逃げ場なんかないんだ」

 絞り出された苦鳴のような言葉に不吉な胸騒ぎを掻き立てられて、カゲイロンは低い唸り声を上げた。

「止せ、早まるんじゃない」

「何処にも逃げ場がないなら、生き延びたって意味がないよな」

「おい!」

 渾身の力で駆け出したカゲイロンの喚声など全く耳に入らぬ様子で、ガルウジアは幌屋根の縁へ躙り寄り、構えた匕首を闇雲に翻しながら虚無的な笑いを口の端へ浮かべた。

「あんたが本当に、ラルダドラドの現実を批判する積りなら、あの男を斃してくれよ。冥宮から、見守ってるから」

「止めろ!」

 野獣のような咆哮は如何なる手応えも無縁のまま、篝火に照らされた夜空へ吸い込まれ、青年の肉体は磔刑に処された哀れな咎人のように幌屋根の彼方へ滑り落ちていった。