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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十章 重ならない掌 5

「早く野次馬どもを下がらせろ!」

 胃の腑から突き上げるような大声で、ヴァルクリフは付き随う騎馬保安部の警事官たちを叱咤した。急報を受けて馳せ参じた彼らの行く手には、すっかり頭に血を上らせたファイサ・リャーグの人々が狭い路地に犇めき合って、口々に野蛮な喚声を響めかせている。老いも若きも無関係に、見開いた瞳に底知れぬ怨嗟を渦巻かせて罵声を連ねているその光景は、一目見ただけで胸糞の悪くなるような醜怪な光景であった。幌屋根に追い立てられたラルダドラドの刺客と思しき男に注がれる眼差しは何れも、どす黒い殺意に凝り固まり、沈着な理性など欠片ほども残っていない。

「公道に篝火を焚くのは防務庁掌令(ぼうむちょうしょうれい)違反だ! 直ちに撤去せよ!」

 荒ぶる民衆の熱狂を圧迫するように拡声器を通じて発せられた警告も、半ば濁流と化した人々の鼓膜を打つには力が及ばない。四つ辻に聳え立つ急拵えの篝火は夜風に煽られて火の粉を無限に吐き出し続けている。唯でさえ空気の乾いた索漠たる平原の都市だというのに、見境もなく街中で火を焚くとは言語道断の横暴に他ならない。無論、その程度の凡庸な常識さえ保てなくなるほど、彼らの憎悪が根深いものであることは知悉しているが、如何なる状況においても、残虐な激情に理性の箍を攫われてしまうのは恥ずべき態度に決まっている。

「撤収せよ! 罪人の捕縛は私人の務めではない!」

 額に青筋を立てて声高に叫ぶ馬上の警事局長を、ファイサ・リャーグの人々は怒りの籠った眼差しで睨みつけた。

「お前ら役人が頼りにならんから、こうして自力で片付けようとしてるんだろ!」

「偉そうな口を叩くなら、さっさと人殺しを検挙してみろ!」

「腰抜けは庁舎へ帰れ!」

 次々に押し寄せる苛烈な糾弾の叫びに、日頃は権柄な態度で市内の巡邏に当たっている警事官たちも尻込みを余儀無くされた。暴徒と化した住民を腕尽くで抑え込めば、古色蒼然たる氏族社会の首魁たちは猛烈な反発を躊躇わないであろう。リャーグ同士の対抗意識が根強いドレイナの街に、中央政府の傀儡と陰口を叩かれている警事局の威信が通用する余地は極めて限られている。

「お前たち、怯むなよ」

 険相を露わにして、ヴァルクリフは立ち竦む馬上の部下たちの尻を叩いた。たとえ反発を招こうとも、この見苦しい騒乱を看過する訳にはいかない。

「彼らを鎮めなければ、あの罪人は酷い目に遭うことになる。此れ以上、憎悪の輪廻を許す訳にはいかない」

 警事局長の内なる想いを、騎馬保安部の精兵たちは充分に理解していた。殺人が起こる度に警事局の庁舎へ押し寄せ、あらん限りの罵言を叩きつけてくる民衆の無慈悲な態度に辟易しているのは、彼らも同じだ。身内を殺された住民たちの無念を軽んじる積りはないが、ラルダドラドへの敵意を剥き出しにする浅慮には疑問を禁じ得ない。対立を深め、野獣のような闘争に踏み切ったところで、ドラン人の社会を蝕む問題が終幕を迎える見込みはないのだ。

 だが、同胞の宥和を希うヴァルクリフの理想が美しく気高いものであることは認めるものの、警事局の精鋭で構成される騎馬保安部の成員の中にさえ、そのような崇高な意志と眼前の現実との乖離に苦しむ者が現れるのは避け難い成り行きであった。同じ氏族の人間をラルダドラドの刺客に殺害された者も少なからず存在している。彼らの眼に、民衆の溶岩流にも似た怨恨の炸裂が正当な憤怒として映ることも稀ではない。

「見ろ! 彼奴が落ちたぞ!」

 誰かの金切声と共に、唯でさえ混乱の極みに達していた小路は紛れもない阿鼻叫喚の修羅場へと変貌した。堰を切ったように人波が小路の奥へ吸い込まれ、幌屋根から滑り落ちた男の躰を飢えた狼のように銜え込もうとする。艶やかな黒鹿毛の牡馬に跨った騎馬保安部長のヴェルメタスが喉笛を潰すほどの大声で制止しても、耳を貸す者は一人もいない。

「身柄を確保しろ! このままでは殺されるぞ!」

 警事局長の苛烈な叱声に背中を突き飛ばされて、漸く騎馬保安部員たちも覚悟を決めた。中央政府の傀儡、帝政の奴隷、ドランの民の矜りを忘れ去った裏切者。その他、保守派の連中から吐き捨てるように浴びせられる無数の誹謗を懼れていては何も出来ない。たとえ汚名を着せられようとも、課せられた使命を成し遂げるべく奮闘するのが警事官の尊厳というものであろう。

「命令に従え! 局長令に叛く者は残らず拘禁する! 自ら進んで穢れた囚袍(囚人用の制服)を纏う積りか!」

 ヴェルメタスの露骨な恫喝と、早足で狭い小路を押し通ろうとする逞しい馬体に気圧されて、数名の暴徒が転落した男の躰へ群がるのを諦めたが、所詮は少数派に過ぎなかった。殆どの者は刺客を捕えた興奮に酔い痴れて、脇目も振らずに幌屋根の軒下へ駆け寄っていく。手綱を掴む指先に怒りと哀しみの双方を滾らせて、ヴァルクリフは馬の尻に鋭い鞭を呉れた。

「分からないのか! そいつを殺したところで、我々の問題は解決しないんだ!」

 渾身の咆哮さえ、響めく夜空に虚しく掻き消えていった。民家の垣根に沿って群衆は濁流のように果てしなく連なり、篝火の放つ不吉な光が影を投げる。馬を駆り、大地を蹴立てて四つ辻へ辿り着いたヴァルクリフは、汗を散らして辺りを睥睨した。絶対に殺してはならない。殺意の応酬に耽溺する悪趣味とは手を切るべきだ。本気で事態の解決を望むなら、あの刺客と思しき男は生きたまま連れ帰って尋問に掛けねばならない。

「局長!」

 先頭を切って銛のように人波を掻き分けていたヴェルメタスの呼び声が、不意に鼓膜を打った。巡らせた視線の行く手に、奇妙な空間が開かれているのが見える。群衆は転落した男を遠巻きに眺めるばかりで一向に近付く様子がない。怪訝に思って眼を凝らすと、ヴァルクリフは瞬時に総てを悟った。

「カゲイロン」

 路上に倒れ込んで動かない男を群衆から庇うように、二つの人影が佩刀を抜き放って屹立していた。その強烈な殺気に魂を呑まれて、どうやら気の荒いドレイナの男たちも手を拱くしかないようだ。口々に罵声や怒号を浴びせるばかりで、不可視の境界線を跨ぎ越してやろうと息巻く勇者は誰もいない。ヴァルクリフは思わぬ救世主の登場に暫し刮目した後、ほっと胸を撫で下ろして額の汗を拭った。

「お前たち、此れ以上近付いたら遠慮なく殺らしてもらうぜ」

 熱り立つ群衆の狂奔に頓着する様子も見せず、カゲイロンは堂々たる体躯を揺すって不敵な笑いを浮かべた。

「こいつは確かに人殺しだが、お前たちに裁きを下す資格はねえ。曲がりなりにも此処は緑邦帝国の領土だ。罪を罰するのは、皇帝陛下の御役目と相場が決まってる」

「何も知らない余所者が偉そうに吼えるな!」

 彼らを取り囲むように円陣を築いた群衆の中から、劇しい瞋恚に縁取られた喚声が迸った。

「帝国政府は俺たちドラン人の矜りを踏み躙った咎人の集まりだろう!」

「随分と恩知らずな野郎だ」

 低い声で呟きながら、カゲイロンは佩刀を翻して地面に勢いよく突き立てた。

「恩知らずだろうと何だろうと、規則は規則だ。いいか、お前ら。そんなに裁きが下したいなら、この俺を殺してからにしろ!」

 大地を揺るがすようなカゲイロンの叫びに、群衆の熱狂は冷水を浴びたように衰えを見せた。警事局が殉国隊の残党を特任庁務官として臨時に雇い入れ、ラルダドラドの刺客を検挙するのに用いているという噂は既に、狭苦しいドレイナの隅々にまで行き渡っている。帝国義勇軍を勝利へ導いた救国の英雄という伝説の効力は今も失われておらず、男たちは自慢の肉体を持て余したまま、カゲイロンの威厳に足許を竦ませて動かなかった。

「どうした。俺は逃げも隠れもしねえぜ」

 挑発するように唇を歪めて咆哮するカゲイロンの姿を、ヴァルクリフは鞍上から黙って見凝めていた。本来ならば、ドレイナとラルダドラドの内紛に容喙する義理もない筈の彼が、血讐の欲望に眼の眩んだ民衆を覚醒させる為に自ら危険な役回りを選び取って、命懸けの芝居を打っている。その豪胆と誠意に、ヴァルクリフは言葉を発することも忘れて自失するしかなかった。嘗てタイリン平原に割拠する無数のリャーグを統一し、ドラン人の王として初めてドール・パル・ハーシェン(「草原の君主」を意味するドラン語。後世、ドラン人を服属させ、タイリン平原の新たな覇者となったアルヴァ・グリイスは、イレファバンからドール・パル・ハーシェンの称号を剥奪し、緑邦帝として践祚した)の称号を名乗ったタスカバン以来、ドラン人たちは族長を頂点とする氏族の掟に従って、時に対立しながらも概ね平穏な暮らしを営んできた。イレファバンの処刑と共に帝国の軍門へ降った後も、ドール・ハーシャルの名の下に堅固な結束は保たれ、変わらずに受け継がれてきた。然し二十余年前、雷声帝アイルレイズと春影帝セファドの間で演じられた骨肉の争いが、その幸福な伝統を打ち砕き、ドランの民を二つの派閥へ引き裂いてしまったのだ。雷声帝の斬首から長い年月が過ぎた今も、そうして切り拓かれた残酷な分断の時代が終わりを告げる兆しは見えない。だから、絶望に平伏したくなるラルダドラドの人々の気持ちは分かる。無論、彼らの犯罪を見逃す積りはないが、正義を振り翳して難詰するだけでは、閉ざされた扉を再び開け放つことは出来ないであろう。誰かが憎しみを呑み込み、その墓碑銘を自ら刻まねばならない。その役目を引き受ける為ならば、如何なる中傷も讒訴も甘んじて受け容れてみせよう。

「ヴェルメタス」

 並み居る騎馬保安部の精鋭の中でも一際忠義に篤く、棍術の技倆に優れた腹心の部下を呼び寄せて、ヴァルクリフは静かに訊ねた。

「お前は、憎しみに身を委ねずにいられるか」

「憎しみで御座いますか」

 上官の唐突な問い掛けの意図を量りかねたように、ヴェルメタスは眉根を寄せた。

「殺さずにいられぬ弱さと、それを許し難く思う弱さ。何れに軍配を上げるべきか、戸惑うことはないか」

 即座に答えの導き出せる問いではない。緊迫した局面で敢えて問い質すべきことでもない。松明の光を照り返して紅く燃える部下の顔から眼を逸らして、ヴァルクリフは重苦しい溜息を吐いた。

「如何に儚く、脆弱であろうと、我々は人間として生きるしかない。あの刺客を捕え、局舎へ連行する。邪魔者は併せて検束せよ。同胞の憎しみを浴びたとしても、私は禍根を断ち切る為に、この儚い命を捧げたいのだ」