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サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「刃皇紀」 第十章 重ならない掌 6

 幌屋根から路地へ身を躍らせたガルウジアの命脈は、幸運なことに未だ尽きていなかった。肋骨が一本砕けた以外には目立った傷もなく、警事局の医務室へ担ぎ込まれ、ミランサ・リャーグから派遣された医者の手当てを受けているうちに、酷使した肉体の疲弊に攫われるように彼は穏やかな眠りに落ちた。

「落ち着いたら、話を聞く積りだ」

 夜更けの局長室で苦味の強い黒豆茶を啜りながら、ヴァルクリフは憔悴した顔で呟いた。掠れた声には苦悩の深さが如実に滲んでいる。向かい合って椅子に腰掛けたカゲイロンは、膝を組んで背凭れに寄り掛かりながら重苦しい口調で答えた。

「住民の不満は相当溜まってる。このままじゃ、ラルダドラドとの確執は深まる一方だぜ」

「そんなことは言われなくたって心得てるさ」

「ガルウジアを尋問に掛けるだけじゃ、どうにもならねえと言ってるんだ」

「対策を打つ為には、精確な情報が必要だ。拙速は避けねばならない」

 苛立った様子で吐き捨てるヴァルクリフの横顔を、カゲイロンは黙って見凝めた。暗闇に沈んだ窓辺に、啌気燈の儚い光が映じている。ドレイナとラルダドラド、二つの街を脅やかす厄介な因縁は、この夜の闇のように深い。そして両者の和解を希うヴァルクリフの厳粛な祈りは、この啌気燈の繊細な光よりも頼りなく、崩れ易いものであるに違いない。

「帝都治安本部の鋸鎌を相手に、戦争でも仕掛けるってのか?」

 カゲイロンの挑発に、ヴァルクリフは鋭利な眼光を翻して語気を強めた。

「表立ってラルダドラドへ攻め入る訳にはいかない。連続殺人の首謀者がラルダドラドの人間だという証拠を掴めれば、それを警務本庁に報告して対処を要請することが出来る。大事なのは、飽く迄も法に基づいた手順を踏むことだ」

「法に基づいた手順ねえ。彼奴の自白が本当なら、連続殺人を背後で取り仕切ってんのは帝都治安本部蒼衣隊だ。歴とした軍務庁の外局だぜ? こんな不法が罷り通る御時世に、生温いこと言ってられねえんじゃねえのか」

 アメル島のゼドフィリアン獄舎から釈放されたアブワーズが最初に返り咲いた勤め先は、古巣の帝国警務庁であった。その後、軍務庁掌へ異例の転身を遂げたアブワーズに代わって警務庁掌の地位に昇ったサジフも、元々は陛派の出身である。ガルノシュの隠然たる影響下に置かれた現在の警務本庁が、ドレイナの安寧を擾乱する不逞の輩を取り押さえることに積極的な関心を示すとは考え難い。苦心を重ねて漸く捕縛に至った刺客の調書が重大な真実を告げていたとしても、既にガルノシュの掌中に握られていると思しき帝都治安本部が黒幕では、折角掴んだ証拠も揉み消されてしまうに違いない。

「だが、我々が選び得る道は他にない。警務本庁が動かないとしても、正しい順序を踏み躙る訳にはいかないのだ」

「お前が腰の重たい警務本庁の怠慢に堪え抜いたとしても、族長連中が大人しく口を噤んでくれると思うのか?」

 苛立たしげに銜えたガーシュの煙を忙しなく吐き散らすカゲイロンの剣呑な面差しを、ヴァルクリフは静かに睨み据えた。嘗て南方警務院の暴徒制圧局長として、帝国の公安を毀損する賊徒の検挙に辣腕を揮った男の眼には、ヴァルクリフの方針は御行儀の良い綺麗事にしか見えないであろう。彼の指摘する通り、帝都治安本部の鋸鎌が黒幕ならば、警務本庁が効果的な対策を打ち出す見込みは限りなく低い。だが痺れを切らして蹶起すれば、それこそガルノシュ一派の思う壺であろう。国法に照らすことなく無断で私兵を組織し、紛争を惹起したドレイナの民衆は間違いなく国事訴訟院の裁きを受けることとなる。官軍が出動し、ドラン人が細々と継承してきた僅かばかりの自治権は容赦なく握り潰されるであろう。自らの命と引き換えにドランの民を死罪から救ったイレファバン首長の遺志はそのとき、永遠の断絶を強いられる。幾らリャーグの若衆たちが己の武芸に矜りを持っていたとしても、潤沢な予算を割り当てられ、苛酷な教練を潜り抜けてきた国軍の精兵を相手に郷土を守り抜くことは不可能である。態々勝算のない戦いに踏み込んで泥濘に呑まれる愚かさを普通、勇気とは呼ばない。

「族長たちには事情を説明する。誠意を以て真実を告げれば、必ず理解してくれる筈だ」

「調書の内容を突き付けるのか。ラルダドラドの連中が鋸鎌の奴隷だと知れば、矛先を収めるとでも言うのかよ」

 撥ね返されて、再びヴァルクリフは出口の見えない深甚な沈黙に総身を埋めた。たとえ不本意な形であったとしても、忌まわしい刺客たちが雷声帝の支配下に置かれ、帝都治安本部蒼衣隊の手足となって殺戮に赴いていると知れば、族長たちの胸底を満たすのは恐らく憐憫ではなく更なる憤激であろう。二十年前、ワーファドが同志を連れてドレイナを去って以来、彼らと陛派勢力との間に罪深い蜜月が営まれたことを知らぬ者はいない。困窮したラルダドラドの人々が蒼衣隊の差し出した破格の金銭に眼が眩んだ事実も、きっと唾棄すべき惰弱の証明として侮蔑的に扱われるに違いない。

「族長どもは、戦後二十年が経っても未だに陛派の傀儡のまま、眼を覚まさねえラルダドラドの愚か者を自分たちの力で処罰しようと熱り立つに決まってる。お前の口先で、その暴発を確実に食い止められる自信があるのか」

「そうやって悲観的な観測ばかり繰り返していても、事態は何一つ変わらないだろう!」

 振り上げた拳を力任せに卓子の縁へ叩きつけて、ヴァルクリフは肚の底から叫んだ。頭の片隅に消え残った理性は、眼前の旧友を罵ることの無益を明瞭に理解しているが、馴致されることのない切迫した感情は、主人の統制に断じて従おうとしない。

「このまま何も行動を起こさない訳にはいかないんだ。私は、二十年前の不幸な対立を取り除く為なら、どんな葛藤も労苦も厭わない覚悟だ!」

「行動を起こすなと言った覚えはねえぜ」

 激高するヴァルクリフの苦痛に歪んだ面差しを敢えて確かめようともせず、カゲイロンは天井の古びた雨漏りの痕に視線を据えたまま言った。

「あの若造の言い分が嘘じゃねえなら、ラルダドラドの連中は生計を立てる為に此れからも殺しを重ねるだろう。ドレイナの族長たちはリャーグの名誉を背負って、遅かれ早かれ報復の為に兵を挙げるだろう。そうなりゃ、政府は黙っちゃいねえ。自治権撤廃も視野に入れて、鎮圧の為に軍隊を送り込んでくるだろうさ。つまり今の状況は、どうにもならねえ袋小路って訳だ。お前が白髪になるまで悩んだって、埒の明くような話じゃねえ」

 雨垂れのように緩慢な口調で紡がれる総括に、ヴァルクリフは血走った双眸を見開いて口を噤んだ。

「誠意を以て真実を告げるなんざ、安物の御伽噺だ。誰だって自分自身の正義には、誠実な面構えで向き合うもんだろう。お前の『誠意』は独り善がりだ。そんなもん、単なる孤立の証にしかならねえ」

「傍観者に何を言われようが、耳を貸す積りは」

「おいおい、ヴァルクリフ。俺はちっとも傍観する気なんかねえんだぜ。分からねえのか」

 直ぐ傍でエトルースの吐く溜息の音が聞こえたが、カゲイロンは全く意に介さなかった。

「俺とエトルース、この二人で充分だ。呪草漬けの素人に後れを取る積りはねえ」

「馬鹿げたことを言うな」

 意想外の科白を耳にした動揺で、ヴァルクリフの語気は自ずと荒くなった。

「ラルダドラドの背後には帝都治安本部が控えているんだろう? たった二人で乗り込んで、何が出来ると言うんだ」

「見縊るなよ。俺たちは未だ退役した訳じゃねえ。そうだろ、エトルース」

「巻き込まれる覚悟はしていたが、随分と無茶な提案だ」

 落ち着いた声で応じるエトルースの表情に、恐懼の翳りは微塵も含まれていなかった。

「先ほど騎馬保安部の事務室で小耳に挟んだんだが、族長たちは七日以内に例の男を『審判のリアベラ』へ出廷させろと申し入れているそうだな。それが事実なら、悠長な取り調べに時間を費やす訳にもいかないんじゃないのか」

「耳が早いな」

 「審判のリアベラ」は、ドラン人が最も崇高な存在として崇める馬頭神シウェスタを祀った聖域で、ドレイナ郊外のハレルワン丘陵に立地している。何れのリャーグにも属さず、首長と主祭だけが立ち入りを認められており、緑邦帝国の統治が始まる以前は総ての罪人に裁きを下す為の神聖な禁域として運用されていた。

「審判のリアベラは、ドラン人の命運を左右する重要な議題を論じる為の場所だ。族長たちは国法を軽んじ、捕縛された男の処遇を、自分たちの信念に基づいて決定しようと画策している」

「私刑って訳か」

「彼らにとっては、それこそが古来の掟に則った正統な裁きの形なのだ」

「まさか、受け容れる積りじゃねえだろうな」

 鋭利な眼光を差し向けるカゲイロンの剣呑な口調に、ヴァルクリフは肩を竦めて首を振った。

「俺もそこまで軟弱じゃないさ。容体が悪くて、到底審判には躰が堪えられないと突っ撥ねている。だが、その言い訳も何時まで通用するか知れたものじゃない。彼らの憤懣は根深いし、警事局はとっくに信用を失っている」

「だったら猶更、俺たちの出番じゃねえか」

「正気で言ってるのか、カゲイロン」

 ラルダドラドの背後に帝都治安本部という残虐な特務機関が蜷局(とぐろ)を巻いていることは十中八九、確実である。彼らが幾ら精強な戦士であっても、たった二人で並み居る蒼衣隊士を掃滅するのは無謀な挑戦だと言わざるを得ない。そもそも嘗ての同僚という縁故だけを理由に、此れ以上の深入りを強いるのは気が進まなかった。殉国隊の英雄をドラン人の内紛に巻き込んで戦死させれば、帝都に住まう閣派の重鎮たちが激高するのは眼に見えている。

「何と言われようと、今更知らねえ振りは出来ねえ。安心しろ、お前は何も知らないと言い張ればいいんだ。警事局の威信を損ねる積りはねえぜ」

「カゲイロン。俺はそんな図々しい人間には」

「いいから聞け、ヴァルクリフ」

 身を乗り出したカゲイロンの瞳には、不退転の決意が無言の閃光となって翻っていた。

「勿論、只(ただ)で引き受けるとは言わねえ。馬を二頭と、ラルダドラドへの案内役を一人、貸してもらう。それから、あの餓鬼どものことだが」

 警事局の裏手の傾いた宿舎に預けているサルファンとイスナの不安げな表情を、カゲイロンは眼裏に思い浮かべて言った。

「若し俺たちが戻らなかったら、あの二人は生きる為の唯一の頼りを失っちまう。まあ、杞憂で済むとは思うが、万が一ってこともあるからな」

「養えと言うのか?」

「おいおい、俺だってそこまで図々しい人間じゃねえぜ」

 懐中から取り出した一通の封書を卓子に滑らせて、カゲイロンは静かに言った。

「紹介状だ。宛先はティゴールの帝国弁務庁帝南総督院司ピオルム・エスペルディ」

「随分な大物を指名したな」

「最近は何処も治安が悪いからな。彼奴の御膝元なら、少しは枕を高くして眠れるだろうさ」

 帝都アルヴァ・グリイスから遠く離れた古都ティゴールは、南部地方の行政と経済の中心地であり、グリイス王家の傍系に当たるエスペルディ公家の累代の所領である。当主のピオルム・エスペルディは戦時中、セファド・グリイスの蹶起を幇助した閣派の梟雄であり、流石に帝都治安本部の悪党たちもその足許へ潜り込むのは容易ではない筈だ。

「分かった。約束しよう」

「頼むぜ」

 受け取った封書に視線を落としたまま、ヴァルクリフは唇を強く咬み締めて考え込んだ。本当に二人をラルダドラドへ赴かせていいのか、はっきりと決断する為の材料が見当たらない。確かに状況は八方塞で、審判のリアベラへ男を出頭させろという族長たちの要請を拒み続けるのも容易ではないが、だからと言って最も危険な役回りを彼らに押し付けるのは筋違いの謗りを免かれ得ない気がした。

「カゲイロン」

 局長室の扉を開け放って立ち去ろうとする旧友の背中に向けて、ヴァルクリフは躊躇いがちに問い掛けた。

「何故、ドレイナの為にそこまで力を尽くそうとしてくれるんだ? 通りすがりのお前に、そんな義務も責任もない筈だろう」

「ヴァルクリフ、お前は相変わらず生真面目過ぎるぜ」

 廊下へ一歩踏み出したカゲイロンは振り向きもせずに、苦笑を交えた声で答えた。

「二十年前、俺は殉国隊の一員として、雷声帝の処刑に関わった。だが、それで総てが片付いた訳じゃなかった。誰かが後始末を引き受けなきゃなんねえんだ」

 二十年前の後始末。取り除き切れなかった紛争の火種。それは一体、誰の罪だと言うべきなのであろう。

「俺はそういう仕事が嫌いじゃねえ。だから任しておけよ。ドレイナの問題をドラン人だけで抱え込めば、ラルダドラドのような悲劇は永遠に終わらねえんだからな」